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【九州三国編其の十七】戸次川合戦~長宗我部元親の悲劇

「そうか、家久の病はさほど深刻か」

 義久は薩摩の内城で、庭の木々に目をやりながら長嘆息した。

「恐れながら、日向口の大将は他の将に任せるべきかと」

 許三官が家久の身を案じると、

「いや、あやつは戦するために生まれてきたような男、病で死するくらいなら戦場での死を選ぶだろう」

「されど、このままでは……」

「いや、もう間に合わん」

 義久は、もう一度ため息をついた。


 この頃、関白秀吉の命により新たに九州に上陸した部隊があった。土佐の長宗我部元親、讃岐の十河存保、それに秀吉の軍監仙石権兵衛秀久等、総勢六千の軍勢だった。

 戦国四国の覇者長宗我部元親は、南国土佐の出自にしては、不思議なほど色白な男だった。若年の頃、寡黙でおとなしい性格をしており、初陣のおりには『槍とはいかように使うものか?』と家臣に尋ね、失笑を買ったといわれる。『姫若子』というのが、元親幼少時に家臣達がつけたあだ名だった。

 

 だが長ずるにつれ姫若子も、その天賦の才を十分に発揮する。俗に『土佐の七豪』といわれる群雄割拠の土佐を、天正三年(一五七五)三十七歳で統一した元親は、ただちに四国全土制圧に動きだす。

 翌天正四年には、四国の臍といわれる交通軍事上の要衝、阿波白地城を攻略。ここを拠点とし阿波・讃岐に攻め入り、同時に伊予にも軍を進めるという二正面作戦を展開する。

 その元親の前に立ちふさがったのは、都で一時にせよ天下の覇権を握った三好長慶の弟・三好義賢の次男として生まれた、讃岐の十河存保。そして、元親の四国平定を自らの覇業のさまたげと考える、あの織田信長だった。だが信長は本能寺で斃れた。中央の実力者の干渉がなくなった元親は、天正十年、阿波中富川で十河存保との決戦に及ぶ。俗に四国の関ヶ原といわれる合戦で、勝利した元親の四国平定は時間の問題かと思われた。だがまたしても中央の実力者の横槍が、元親の野望を打ち砕くのである。


 世は秀吉の時代へ移り変わろうとしていた。

 元親に敗れ、東讃岐へと追いつめられた存保は、秀吉に救援を要請。これに応じ四国に攻め入ったのが小西行長、そして仙石権兵衛秀久の軍勢だった。だが元親は、当時秀吉と対立していた柴田勝家、神戸信孝等とも手を結び、巧みな用兵でこれを撃退する。天正十年のことだった。

 翌天正十一年にも、再び権兵衛の軍勢が押し寄せるも、長宗我部勢に大敗して、幟を奪われる屈辱まで味わうこととなる。ほどなく讃岐一国は、元親の完全制圧下におかれることとなるのである。

 やがて柴田勝家は秀吉に敗れ、新たに徳川家康が秀吉の敵として台頭する。小牧・長久手で秀吉と対峙する家康は、淡路・播磨・摂津の三カ国の恩賞を約束し、元親に背後からの秀吉挟撃を呼びかける。だが、この時伊予には毛利勢が上陸して元親の背後をおびやかし、家康もまた秀吉と和解し、大坂挟撃は幻となってしまう。

 

 元親が残る伊予をも制圧し、四国制覇を達成するのは天正十三年のことである。だが元親が四国の覇者であったのは、わずか三ヶ月にすぎなかった。秀吉の軍勢がついに渡海を開始したからである。元親は徹底抗戦を叫ぶも、天下人の軍勢には到底敵しようもなく、天正十三年八月ついに降伏、土佐一国の主に逆戻りしてしまう。四国の覇者から、あわよくば天下人へという元親の夢は、ここに終わりを告げたのである。


 今、かっての仇敵であった長宗我部元親・仙石権兵衛秀久・十河存保等が、九州豊後に一同に会した。

天正十四年十二月のことである。

「島津義久殿も哀れなことよ……」

 と四十八歳の元親は、むしろ敵の大将である義久に同情的であった。元親は、もし秀吉の軍勢が九州に上陸すれば、島津といえど敵ではないことを知っている。長宗我部軍が、関白の弟羽柴秀長の軍勢と戦った際の、長宗我部方の谷忠兵衛の記録が残っている。

『秀吉の軍勢は、武具、馬具綺麗にして光輝き金銀をちりばめ、馬は大長にして眉上がるがごとし、武者は指物、小旗を背に吃とさしていかめしき体』

 であったのに対し長宗我部の軍勢は、十人のうち七人は土佐駒に乗り、武者は鎧毛切れ腐りて麻糸をもって綴り集めて着る。という有様だったというのである。

 

 もし義久が秀吉の軍門に降れば、わずか三ヶ月で、四国の覇者の座から転落した自らの二の舞である。元親は時世を思わずにはいられなかった。しかも関白の軍監が、あの仙石秀久とは……。関白秀吉の命で和解したとはいえ、刃を交えたからこそ、秀久の器量は元親にはよくわかる。果たしてこの戦大丈夫であろうか、元親は不安であった。


 四国勢と大友義統の連合軍と、島津家久の軍勢の間を戸次川といわれる川が流れている。約二万の軍勢を率いる家久は、新納忠元と馬を並べながら、川向こうの敵陣をあおぎ見た。

「覚えておるか忠元、菱刈隆秋を大口城で破った時のことを」

「はっ、あの時は釣野伏の陣にて敵を誘い出し、散々にうち負かしましたな」

 忠元は相槌をうったが、なぜ家久が急に、そのような昔話を始めたのか理解できなかった。むろん家久の死期が近いことも忠元は知らない。


 一方、四国勢と大友の連合軍は、鏡城での軍議の席上もめにもめていた。

「恐れながら、それはあまりにも無謀かと、関白殿下も本隊の到着まで、みだりに陣を動かすなと申したはずぜよ」

 軍監仙石秀久は、突如として戸次川を敵前渡河しての決戦を叫んだのである。これに諸将は口を揃えて反対した。

「それがしも元親殿に同意でござる。島津が侮れぬことは、我等大友武士ようわかっておりまする。今はまだ決戦は早すぎるかと」

 島津勢に対する恐れもあって、大友義統までもが反対した。

 秀久は、横目で十河存保のほうを見た。存保は軍議の間終始黙っていたが、

「ここはやはり自重が肝要かと存じまする」

 と一言いった。

「ええい黙れい! 我等は関白殿下の義軍、島津ごとき一蹴してくれよう。臆病者は、ここに残って我等の戦ぶりとくと拝観するがよかろう!」

 仙石秀久はややむきになって、自らの意を通そうとした。特に元親には幟を奪われた恥辱から、強い敵愾心がまだ胸中にあった。


『万事やむをえず』

 十二月十二日夕刻、四国勢と大友の連合軍は、一斉に戸次川の渡河を開始した。この合戦には、元親の二十三歳になる嫡子信親も参戦していた。

「弥三郎(信親のこと)すまぬ。わしの力が及ばないばかりに、この豊後が、我等親子にとって死に場所になるやもしれぬ」

 と元親は、早くも敗戦を予期するようなことをいった。

「なにを申します父上縁起でもない。例えこの戦に敗れるようなことがあっても、それがしか父上、いずれかが生き残ればよいこと、父上が危急のおりは、この信親必ずやかけつけて、盾となりましょう」

 と、このよくできた嫡男は、笑みさえうかべていった。


 家久は、すでにこのことを予期していたかのごとく、粛々と軍を動かした。

大友・四国連合軍は中津留河原に展開し、中央・右翼に長曽我部勢三千、左翼に仙石勢二千、十河勢一千が陣取る。島津勢の先鋒部隊が、冬季の渡河でまだ寒さに震える連合軍に襲いかかったのは、ほどなくのことであった。不意をつかれた連合軍であったが、やがて態勢を立て直し反撃に移る。島津勢は、にわかに崩れ後退を始める。だがこれに勢いをえた仙石勢が、敵を深追いしすぎたことから悲劇は始まった。

「愚かな、敵は我等を誘いだす腹じゃ、それがなぜわからん!」

 後続の元親は、さすがに歴戦の猛者だけあって、島津の釣野伏せを見抜いていた。だがどうすることもできない。

 

 やがて仙石秀久が利光村まで島津勢を追撃したところで、左翼に伊集院美作、中央を新納忠元、右翼に本床主税介を配し、島津家久は後詰として、島津方の包囲が完了した。

「己、敵を恐れるな! かかれ、かかれ!」

 ようやく自らの不覚に気付いた秀久が、勇を奮いおこして将兵を叱咤したが、その時島津方の忠元の部隊の最前線の兵が、

「チェストォォォ!」

 と一斉に抜刀し歓声をあげた。一瞬にして率いる淡路兵は意気消沈する。所詮狭い淡路島を拠点して生きてきた兵である。広大な九州の山河をかけめぐってきた島津兵に及ぶべくもなかった。この年忠元は六十一歳になっていたが、鬼武蔵ぶりは健在だった。一人で十人を相手にする奮闘で、たちまち秀久の軍勢を雲散霧消させた。


 秀久は口ほどにもなく遁走を開始した。仙石隊の壊走に、長宗我部信親も一瞬ひるんだが、この時戦場に大音声が響いた。

「仙石秀久の他愛なきことよ、よいか我等十河の名にかけて皆討ち死にしてくれようぞ!」

 十河存保の声だった。このかっての仇敵の一声が、結果的に、信親を死地に追いやることとなった。

 仙石隊に続く、長宗我部隊は手強かった。再三、再四に渡って新納隊を押し返し、脇津留付近で激戦となった。これに東の追ノ口に向かっていた讃岐勢も西に方向を転じ、長宗我部勢主力も加われば、形勢は逆転するはずだった。だがそこに現れた伊集院隊が、長宗我部隊を前後に分断してしまった。さらに山間を迂回した本床隊が讃岐勢を側撃する。

 この不利な状況下にあっても、長宗我部信親はよく戦った。なにしろ信親は六尺一寸の大男で、ひょっとび二間を飛ぶという化物である。

『得道具四尺三寸の大長刀を以って、向かう者を只一所に八人薙伏せる。次第に手元近くに責め来るに依って、太刀を抜持て、又六人切据えらるる』(長宗我部元親記)

 紅糸威二枚胴具足に身を包んだ信親は、一刀で六人も八人も切りふせる奮闘ぶりだった。さしも島津兵も心胆を寒くしたが、やがてその信親にも最期の時が来た。手を負えずとみた島津勢は、遠巻きにして弓矢、鉄砲を雨あられと信親に撃ちこんだ。信親はゆっくりと地に伏し、わずか二十三年の生涯を閉じた。


 乱戦の中、元親もまた敵の重囲の中で苦戦していた。最後はわずか二十一騎となり、覚悟の切り死にをとげようとしたが、十市新右衛門に諌められ、桑野弥次兵衛に守られて浜まで逃げのびる。

 一方、かっての長宗我部元親の仇敵十河存保は、一子千松丸を秀吉の前に伺候させるよう家臣に頼み残すと、五百の部下とともに敵陣奥深くへと消え、二度と戻ることはなかった。十河存保享年三十四歳の壮絶な最期だった。四国勢と大友の連合軍は、わずか二時間余の戦闘で、総戦死者数は二千数百人に達するという大敗北を察したのである。


 一早く戦場を離脱した仙石秀久は、恐怖に震えながらも、遠く洲本まで退却した。また大友義統も豊前の竜王城まで退却。元親が信親の死を知ったのは、宇和島沖の日振島でのことだった。

 瞬時元親は頭をかかえ、悲鳴とも嗚咽ともとれる叫び声を発した。自らも死ぬと騒いだが、家臣に諌められ思いとどまった。以後の元親は四国制覇の野心に燃えた頃と比べると、まるで別人のように無気力になり、長宗我部家の将来を危うくする。


 後日のことになるが、討死にした長宗我部信親の遺骸を引き取りに谷忠澄が、継戦中にもかかわらず島津方を来訪した。応対したのは新納忠元だった。忠元は丁重に拭き清めた信親の屍に、甲冑と太刀を添えたうえで忠澄に対し、

「武門の常とはいえ、まっこてあっぱれな最期、実に惜しい若者でごわした」

 といい、落涙したといわれる。


 戸次川の大勝により、もはや島津勢を阻む者はなくなった。だがこの時、家久の病は刻一刻と悪化していた。戸次川の合戦は家久にとり最後の大舞台となったのである。


 

 


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