【九州三国編其の十二】大友宗麟と天下人秀吉
大坂の地は、例えば『信長公記』などにも『ソモソモ大坂ハオオヨソ日本一之境地也』とあるように、古来より交通の要衝の地であった。その大坂に、かっての石山本願寺の跡に建造されたのが、約五万人の人夫が動員され、キリスト教宣教師をして『コンスタンティノープル以東最も堅牢な要塞』といわしめた大坂城である。それは信長に代って新たに秀吉の世の到来を、天下に誇示するのに十分すぎるものだった。
天正十四年(一五八六年)三月、わずかな供とともに、はるか九州から大坂の秀吉のもとを目指す初老の男の姿があった。かっての六カ国守護大友宗麟だった。
先年死去した道雪の遺言をうけ、家中一同の要請により、宗麟は島津家の侵攻から大友家を守るため道中を急いでいた。むろん胸中は悔しさにあふれていた。何故名門大友家の主であった自らが、成り上がり者の秀吉に頭を下げるため、はるか大坂まで赴かねばならぬのか、何ゆえ天は自らに安楽を与えられぬのか。老いた宗麟にこの旅路は、長く厳しいものだった。
やがて三月下旬、宗麟は茶道具の売買などをとおして懇意になった天王寺屋宗達等に導かれて、泉州堺の宿所妙国寺に入った。
四月五日、供の者数名とともに一路大坂城を目指す。まず宗麟を驚かせたのは、鉄でできた予想をはるかに上回る規模の城門だった。そして巨石を積み上げた石垣、近年の調査によると、推定一三〇トン以上の石も使用されていたといわれる。大河のような掘りの深さ広さといい、宗麟はこれから尊顔を拝する秀吉という人物の、得体の知れなさを思わずにはいられなかった。なによりも宗麟は、この時初めて天守閣というものを見た。
大坂城の本丸は、馬蹄型を逆にした形の水の張った堀に囲まれた詰め丸の部分と、表御殿がある空堀で囲まれた部分とで構成されていたといわれる。
表御殿には正式な儀式や対面用など公的な性格を帯びた建物があった。詰め丸には、天守や奥御殿などの秀吉の私的な空間になっていた。詰め丸は段状の帯曲輪に取り囲まれていた。
天守閣は詰め丸の鬼門にあたる北東の端に築かれ、天守は五層八階で信長の安土城同様に、金箔押しの襖壁に狩野永徳の絵が描かれていた。
宗麟が残した確かな記録によると、石垣内の地下は二階になっていて、武器庫になっていた。一階、二階とも小袖の間と呼ばれる空間で、小袖などが入った櫃があったようである。三階は宝物の間になっており、この三階と四階は火薬庫にもなっていた。五階は金銀の間で、秀吉の財力に驚愕した宗麟の顔が浮かぶようである。
最上階の六階はその名も物見の間で、宗麟が茶菓のもてなしを受けていると、一人のいかにも気高い、気品にあふれた初老の人物が入ってきた。その人物の何者をも包み込むような包容力に、宗麟は一時大海のようなものを感じた。関白秀吉の御茶頭千宗易(利休)だった。
次に姿を現したのは、秀吉がまだ身分卑しかった時分からの知己で、後の加賀百万石の礎を築くことになる前田利家だった。一見すると五十歳という年齢相応に温和な人物であるが、どこか若き頃、槍の又左といわれた剽悍さをたたえているようにも見える。
さらに続いて入ってきたのは、後の五大老の一人羽柴八郎(後の宇喜多秀家)だった。この人物の父は、かっての備前、備中、美作の主宇喜多直家で、秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室とすることにより、外様ではあるが、秀吉の一門衆としての扱いを受けていた。この年十五歳。
宗麟が事前に聞いた話によれば、この人物の父である宇喜多直家なる人物は、生涯裏切り、謀殺、毒殺を繰り返し三カ国の主になった、例えば九州の龍造寺隆信のような人物であるらしい。だが今目の前にいる青年は、挙動のすべてから賢さが伝わってくるようで、澄みきった瞳からも、到底そのような父親のもとに生まれた人物とは思えなかった。
この後、関白の弟羽柴秀長、細川兵部太輔藤孝等が続いて入ってきた。やがて、痩せて顔色の浅黒い、鼻下にまばらな髭を生やした小男が入ってきて、九間四方の座敷の一段高い座を占めた。小男は、女子が着るような派手な模様の小袖を身につけ、袖の広い道服をはおっていた。風采こそ上がらないものの、その男の全身からは侵しがたい英気と気概が伝わってくる。それは恐らく、人生の盛時にある者だけが持ちえる、強いカリスマとでもいうべきであろうか。その小男こそ関白羽柴(藤原)秀吉だった。
「これなるは先の豊前・筑前・筑後・肥前・肥後・豊後六カ国の守護大友宗麟にござります。御家の危急につき、関白殿下の御助勢を乞うべく、遠路九州よりまかりこした次第」
かたわらに控える利休が宗麟を秀吉に紹介した。秀吉は平伏した宗麟をじっとみつめていた。やがて、
「まずはそのほう、茶の湯のこころえはあるか?」
と甲高い声でいった。
「多少のこころえはござりまするが、殿下の御前にてはさしたるものではござりません」
宗麟は、やや言葉をつまらせながら返答した。
「その方の茶の道を知りたい。話はそれからじゃ」
宗麟は茶室に通された。宗麟は茶の道に関しては造詣が深く、天下の名器として名高い『新田肩衝』を所有していた。秀吉とその臣下が見守る中、宗麟はやや緊張した面持ちながら、作法通り茶をおし頂いた。秀吉はこの時、宗麟に出自、生いたちは全く異なるとはいえ、自分と同じ『奇妙人』とでもいうべき者の臭いを、敏感に感じとっていた。
「中々に見事、わしは今確かにそなたの器量を見た。そなたほどの者、何故島津ごときに領国を侵されるに至った?」
秀吉はやや重い声で、宗麟に語りかけはじめた。
「とんでもござりません。島津に領国侵されしは、ひとえにそれがし暗愚ゆえにござりまする」
「うむ、わしはのう、今日本国中の大小名を知る立場にいる。先にわしの元に帰参した小早川隆景が申しておった。そなたの知略に二度までもしてやられたとな。また、そなたには優れた家臣数多おり、隆景は戦場で幾度も苦杯をなめさせられた、とも語っておった。わしは隆景を西国はむろんのこと、この日本国中探しても滅多におらぬ逸物と思っておる。その隆景がそのようなことを申しておるのじゃ、そなたは決してただの暗愚ではあるまい」
宗麟が言葉を挟もうとすると、さらに秀吉は、
「そなた都にあっても決して恥ずかしくない文化人である。またそなたの領国豊後には、唐・南蛮の優れた物、珍しい物数多く集まると聞く。そなたはかようなものを目にする機会にも恵まれておる。家柄もよい。恐らくこの日本国中の大、小名の中においてそなたほど幸運な者は、ほとんどおるまいて。それが何故島津ごときに敗れた」
「それがし若年にして六カ国守護となり、何一つ不足なき故酒色に耽り、家臣の諌めを聞かず、政道をおろそかにした報いにござりまする」
「つまりは、己に溺れたということか。このわしを見よ、氏素性卑しき身で、もとより家臣などおらぬ。なれどこの日の本の主として君臨しておる」
宗麟は返す言葉もなく、ただ頭を垂れた。
「己に溺れ、また南蛮の切支丹の教えにも溺れたそうじゃな」
秀吉はすでに、キリスト教を怪しげなものとして警戒し始めていた。
「切支丹どもはこう申すそうじゃな。汝の敵を許せ、例え幾度でも許せと。ならばそちにたずねよう。そなたは今領国を侵そうとしている島津を、幾度でも許すことができるというか?」
「恐れながらそれがし未熟者にて、幾度どころか一度たりとも島津を許すことできませぬ」
「ほう……」
「なれど、かって織田信長公は、人を許すことできぬ気性故、天下を目前にして倒れました。関白殿下におかれましては、敵である者許し、己の味方とすることができたからこそ、今こうして日の本の主として君臨しているものと、それがしは思うておりまする」
宗麟が重苦しい声でいうと、秀吉は突然カラカラと笑いだした。
「負けじゃ、負けじゃ、こたびはわしの負けじゃ。島津征伐のこと秀吉しかとうけたまわったぞ」
「ありがたき幸せ!」
宗麟はいっそう平伏して礼をのべた。
「そなたの為だけではない。ゆくゆくは明国・朝鮮にも兵をだすため、九州はどうしても平定しておかずばなるまいて」
宗麟は秀吉の言葉を、ただの大言壮語と思っていた。やがてそれが現実のものとなり、大友家を破滅の淵においこもうとは、さしも宗麟も夢にも考えていなかった。
すでに秀吉は、九州に大名同士の一切の私闘を禁じる『惣無事令』を発令していた。中央の覇者である秀吉の動静に、九州の大小名達はいずれも去就を迫られていた。
先に沖田畷で主隆信を失った龍造寺家は、新たな国主政家が島津家に人質を送り、事実上その傘下に入った。だが抜け目のない家老鍋島信生は、密かに秀吉と誼を通じてもいた。
親の代から大友家と深い因縁をもつ秋月種実は、むしろ打倒大友の好機とみて、島津家との関係をさらに密なものにしようとしていた。
また筑前・肥前・筑後の国境に割拠する筑紫広門は、一時は島津方に帰順し、大友方の高橋紹運の居城宝満城を奪うなどしたものの、突如として娘を紹運の息子統増に嫁がせ、態度を豹変させた。以後宝満城は高橋家、筑紫家の共同管理する城となったのである。
こうした中島津家では、秀吉を『由来なき仁』と軽侮し、悲願の九州制覇を望む声が日増しに高くなっていた。だが島津義久は悩みに悩んでいた。果たして秀吉の意を無視すべきか否か?もし九州北上の軍をおこすとして先に豊後を攻めるべきか?筑前を攻めるべきか?悩んだ末に霧島神社の神託に事を委ねることとし、義久は幾度もくじを引く。
このように国政の大事を神意に委ねることは、島津家の恐るべき後進性をものがたっていた。中世から近世への扉を開かんとする秀吉に、所詮島津は遠く及ばない存在であったといえるだろう。
だが関白秀吉からの一片の書状により事態は一変する。九州国分令とでもいうべきその書状は、島津家の領土を薩・隅・日の三国に、肥後半国、豊前半国のみとしていた。むろん従わずば征伐するという内容である。これは島津家にとり到底受け入れられないものであり、義久も家中の主戦派を抑えることが不可能となった。
天正十四年六月、ついに島津義久は肥後の八代城から、島津忠長率いる二万の軍勢を北上させた。ここに島津家の九州制覇をかけた最後の戦いが開始されようとしていた。