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【九州三国編其の八】相良義陽の末路

 天正九年(一五八一)という年、中央では織田信長が、天下統一へむけて最後の布石を打とうとしていた。先年には長年の宿敵であった石山本願寺をも降伏させ、武将の羽柴秀吉は、中国路で毛利と交戦中であった。

 織田信長の影響力は、九州薩摩にまで及ぼうとしていた。島津家の勢いに抗しかねた豊後の大友宗麟は、遠く織田信長を頼り、信長は島津家に大友家との和平をもちかけてきたのである。もちろんその背景には圧倒的な軍事力があり、織田家から島津家に対する命令に等しいものであった。島津義久はこれを受諾し、豊後より一旦手を引くより他なかった。

 

 島津義久の目はただちに、和平交渉の枠外にある肥後へと向けられることとなる。肥後の相良義陽は、島津家にとって三州統一以前からの宿敵である。八月、島津義久は総勢五万一千の大軍で肥薩国境の水俣城を目指した。軍勢は主に三手に分かれた。東の銭亀ヶ尾からは島津義弘を大将とし、伊集院忠棟等が従い、東の熊之牟礼からは島津歳久を大将とし、これに島津以久、島津忠長、新納忠元等が従った。さらに西の軽石ヶ尾では島津家久を大将とし樺山忠助等が従う。

 城は連日のように島津勢の猛攻にさらされ、危急を知り球磨川を渡って急行した相良義陽も、島津方が予想外の大軍であるため、救援に二の足を踏んだ。


 この合戦には一つの逸話がある。

 鬼武蔵こと新納忠元が、ある日陣中の暇つぶしに水俣城に矢文を放った。


 『秋風に水俣落ちる木の葉かな』


 水俣城の落城もそう遠くはないというほどの意味である。これに対し、城将の犬童頼安から数日して返歌があった。


 『寄せては沈む月のうら波』


 いかなる大軍が寄せてこようと、水俣城は落ちないと強気にでてきたのである。さしも鬼武蔵忠元も苦笑せざるをえなかった。


 閑話休題


 だが月もいつかは満つる時がくる。八月二十日、圧倒的な島津軍に抗しきれず、ついに相良義陽は島津方に降伏を申しいれてきた。島津義久はこれを諾としながらも、二十年来の怨恨はそう簡単に晴れるものではない。苦渋の決断をした義陽に、さらなる難題が待ちかまえていた。


「恐れながら、それだけは何卒!」

「兄上はならんと申しておるのじゃ」

 薩摩に挨拶に参上した義陽を待っていたのは、水俣の北方を領有する阿蘇氏攻略という、義久の至上命題だった。だが阿蘇家の名将・甲斐宗運と義陽は誓詞を交し合った長年の盟友であり、義陽は信義に反するふるまいに及ぶことを躊躇した。歳久はため息をつきながら、義久の意思が固いことを告げた。

「よいか義陽殿、我が島津とおはん等のこいまでのいきさつを考えてみんしゃい。おはんは、そん昔菱刈一族を背後から支援して、大口城に兵を詰めさせた。また義弘兄が伊東と交戦している最中にも、背後を突こうとした。昨今は大友勢が日向に攻め入ってきた際も、大口に攻めいろうとした」

 義陽は歳久の一語一語に、歯を食いしばりながら聞き入っていた。

「兄上はどうあっても譲らんとおおせじゃ、もし聞き入れねば、そん時は相良の家を絶やすと、一族郎党に至るまで滅ぼすとまでいうておるのじゃ」

「一族郎党までも……」

 義陽の額に脂汗がにじんだ。

「あいわかりもうした。阿蘇攻めの件、相良義陽しかとうけたまわりまする」

 義陽は無念をこらえながら頭を下げた。


 十二月になり、義陽は阿蘇氏討伐のため二千の軍勢で古麓城を発した。やがて阿蘇氏の勢力圏の南端堅志田城が眼前に迫る頃、義陽は軍勢に小休止を命じた。自らは甲斐宗運との間に交わした誓詞を火の中に投じると、

「明日我らは、本陣を響野原に構えることとする」

 と犬童頼安に告げた。

「恐れながら、響野原では山に囲まれ守るに適さないかと……何ゆえかような場所に陣を構えまするか?」

「構わぬ、武門の意地じゃ! わしは明日は見事討ち死にし、島津義久に相良の意地を示してみせる」

 一瞬、犬童頼安は主君の正気を疑ったが、義陽の目に一点の曇りもないことを確認すると、

「承知致しました。これで甲斐宗運殿への義もたつというものでござる」

 と、この主君の決断を諾とした。


 翌早朝、堅志田城の甲斐宗運は、義陽が響野原に布陣したというしらせを受け、義陽の真意をはかりかねた。

「物見が誤った報せをもってまいったのではあるまいか?」

 やがて新たな物見が、さらに驚くべき報せをもって戻ってきた。なんと義陽は、鎧も兜も付けず響野原に座しているというのである。ことここに至って、ようやく宗運は義陽の死をもって義をつらぬこうという、悲壮な覚悟を読み取った。

 一時躊躇した宗運であったが、側近にうながされ、濃霧の中響野原に奇襲をしかける。

 義陽の囲む備えはたちまちのうちに崩された。義陽は敵が迫りくるなかにあっても、数珠を片手に念仏を唱え続け、やがて刀をぬくと群がる敵数名を斬りふせ、ついには自ら腹を切った。相良義陽享年三十八歳の最期だった。戦場に一時の静寂があった。


「見事な最期よ……」

 義久は薩摩にあって義陽の最期を知り、思わず驚嘆せずにはいられなかった。

「まことの武士もののふとは義陽のような者のことをいうのであろう。敵ながらあっぱれといわざるをえまいて」

 義久は瞬時目をつぶり、この長年に渡る宿敵の死を哀悼した。同時に相良氏の名跡を絶やさぬことを誓うのであった。


 こうして島津家の勢力は薩・隅・日から新たに肥後へと及んだ。その先には島原半島があり、やがて時を経ることなく肥前の巨熊が、島津家の前に大きく立ちふさがるのである。

 年が明けて天正十年(一五八二)遠く都では、日本国中を揺るがす一大事が勃発しようとしていた。


 

 

 


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