【九州三国編其の六】立花統虎の初陣
耳川の合戦における大友軍の大敗は、九州全土の勢力図を大きく塗りかえることとなった。
肥前の龍造寺家、肥前の筑紫家等は、次から次へと大友家から離反し、大友という大きな歯止めを失った九州は、新たなる乱世をむかえようとしていた。衰退する大友家を支えるものは、もはや立花城の立花道雪と岩屋・宝満両城の主高橋紹運をおいてない。
天正九年(一五八一)、大友方の筑後井上城主門註所鑑景が、島津家と気脈を通じる秋月種実のもとへと寝返った。同族の長巌城主門註所統景は、ただちに宗麟に救援を要請。豊後から朽網宗暦という者が兵三千とともにはせ参じ、これに道雪、紹運の軍五千が加わった。
事態は意外な成行きとなる。豊後国内でおきた内乱のため、朽網宗暦は宗麟のもとへ戻ることとなり、秋月種実は井上城に籠もって動こうとしない。埒があかずと見た道雪、紹運の二将は、秋月領の嘉麻郡や穂波郡に次から次へと火を放ちながら撤退。これに対し秋月種実もまた追撃を開始した。両軍は穂波郡八木村の石坂であいまみえることとなった。
石坂は名のとおり、山へと連なる耕作にてきさない石の多い荒地である。急坂が続き、両側は深い樹林となっていた。道雪は素早く、伏兵を左右の樹林に配置する。そして紹運は、坂の途中に前段を鉄砲、二段を弓、三段を槍の順で固める。
この合戦に、唐綾縅の鎧に鍬形を打った兜、塗籠めの弓という一際目立つ軍装をした若武者がいた。高橋弥七郎統虎後の立花宗茂は、この時が初陣で十五歳だった。
「父上敵が攻め寄せてまいります。いかがいたしまするか」
統虎は片膝をついて、床几に腰をかけた父紹運の指図をあおいだ。紹運はしばし黙した後、
「ここは戦場じゃ、己の身は己で守れ。わしもそちを助けん」
とやや突き放した。
「かしこまりました」
そういうや否や統虎は、手勢百五十人とともに紹運の陣を離れた。
「恐れながら若君、御館様の側を離れるは危険にござりまする」
と忠告したのは、統虎の初陣後見役有馬伊賀だった。
「馬鹿を申すな。わしが父上と同じ陣にいたら、皆父上の命で動き、誰もわしの指図を受けんではないか」
といい、かすかに笑みをうかべた。
やがて地鳴りのように敵が押し寄せてくる。紹運は頃あいを見計らい、
「放てぃ!」
と号令を下した。同時に鉄砲が一斉に火を噴いた。秋月勢は倒れた味方を踏み越えて迫ってくる。鉄砲隊は退き、槍隊が秋月勢に応戦した。
この様子を興奮をおさえきれない様子で見守っていた統虎は、
「者共わしについてこい」
と下知し、秋月勢の脇腹を突こうとする。
「あそこに見えるは、名のある大将に違いない。討ち取って手柄にせん!」
一際目立つ軍装の統虎は、たちどころに敵兵の標的となった。
「若、危ない!」
有馬伊賀は統虎をかばい、敵兵を三人まで斬り伏せる。だがそこにすかさず、堀江備前と名のる剛の者が攻めかかってくる。統虎が弓を引きしぼると、矢は見事堀江備前の左の手に突きささった。だがこれがさらに堀江備前の闘争心を刺激することとなった。統虎と備前は組み合い、互いに馬から落ちた。上になり下になり、ついに統虎は備前を抑えこみ、配下の者に首を落とさせた。
「今じゃ者どもかかれい!」
道雪の軍配一閃、左右の伏兵部隊が秋月勢を突いた。こうなると秋月勢は分が悪い。ほどなく崩れ壊走した。統虎は逃げる秋月勢を追い、その存在を誇示する。
道雪は初陣であるにも関わらず、なんら臆することない統虎をじっと見つめていた。
「うむ、見事な若武者ぶりじゃ、やはりあの者をおいて他に適任はおらん」
道雪の胸には、ある思いがあったのである。
合戦の後始末も一段落し、秋の風が吹く頃、立花道雪は四人担ぎの輿にゆられ、軽装で紹運の岩屋城へとやってきた。
「何と申された御老体?」
道雪直々にたずねてきたと聞き、礼を尽くして出迎えた紹運は、あまりの無理難題に一瞬首をかしげた。
「いや、わしは決して戯れで、御嫡子統虎殿を我が立花家の婿養子に、などと申しているわけではござらぬ。あの耳川での無残な大敗以来……我が大友家の威光衰えるばかり。これを支えるはわしと貴公をおいて他にない。なれどわしも来年で七十、男子はおらず跡継ぎは娘のぎん千代のみ」
道雪には、十三になるぎん千代という女子がおり、六歳で立花城の世にも珍しい姫城督となっていた。
「貴殿には、すでに二人の男子がおる。まだ三十四で、この先いくらでも男子を授かる望みがある。わしは立花家のためにのみ申しているのではない。ゆくゆく大友家のため、御嫡子を譲りうけたいと申しておるのじゃ。この老人終生の願いなれば、切にお聞きとどけ願いたい」
白髪頭で必死に懇願する道雪の姿は、紹運には哀れにすら思えた。だが難題といえば、あまりに難題であり、紹運も即座に答えを出すわけにはいかなった。後日の返答を約束され、道雪は城を後にした。
「背後に伏兵!」
逃げる島津兵を追う道雪は、不意に後方にそびえる山から姿を現した、島津の新手の部隊に陣を乱された。
「己、島津勢め! 今日こそ目にもの見せてくれん!」
十人担ぎの輿から采配を奮う道雪は力戦奮闘するも、味方の兵は次から次へと討ち取られていく。
「覚悟!」
島津方の豪の者が繰りだした槍は、深々と道雪の脇腹をえぐった。直後に鮮血が勢いよくふきだす。
「御老体! しっかりされよ御老体!」
重体で担がれたきた道雪に、紹運は必死に声をかけるが、道雪はすでに意識が朦朧としていた。
「わしのことなら心配いらん。戦場で死するは武士にとって本望。ただ残念なるは跡取りがおらず、立花家がわしの死で途絶えることじゃ……」
そういうと道雪は、ほどなく息絶えた。
「御老体! 死んではなりませぬぞ御老体!」
……紹運はようやく悪夢から覚めた。ショックで大量に汗をかいていた。
数日して再び道雪は岩屋城を訪れた。紹運はついに折れた。道雪は他家からの養子とはいえ、齢七十を前に立派な息子を授かったことにたいし、思わず感涙にむせんだ。
やがて岩屋城では、父子別れの宴が開かれることとなった。紹運は統虎に盃を与えると、
「一つそなたにものをたずねる。わしと道雪殿は長年の盟友なれど、有為転変の激しい世なれば、もしやしたら敵味方に別れて争うことになるかも知れぬ。もしそうなった時、そなたは道雪殿とわし、いずれの陣にて戦うや」
統虎はしばし考えた後、
「父上と同じ陣で戦いとうございます」
と返答した。
「父とはいずこの父のことなりや?」
統虎は言葉を失った。
「たわけ! わしとそなたは明日から父でもなければ子でもない。もしその時は、遠慮なくわしを討ち取りにくるがよい。道雪殿は厳格な方じゃ、そなたを見込んだといっても、いつかそなたの器量に愛想をつかし、父子の縁を切られるやもしれぬ。その時は決して、わしのもとに戻ろうとは考えるな。潔く腹を切るがよい」
そういうと紹運は、自らの愛刀備前長光を別れの品として統虎に授けた。不意に統虎の目に光るものがあった。
翌早朝、統虎は立花家からの迎えの使者に導かれて、わずかな従者とともに岩屋城を後にする。別れ際、厳格だった紹運はかすかに笑みをうかべた。やがて岩屋城は遠くなり、霧の中へと消えた……。
岩屋城から道雪のいる立花城まではおよそ四里(約十六キロ)ほど。城では道雪と、まだつぼみを開く前の娘ぎん千代が待っていた。うやうやしく統虎を出迎えるぎん千代を見ながら、統虎は幼い頃一緒に川で遊び、釣った魚のことで大喧嘩をした際のことを思い出していた。今はあの頃の面影も消え、すっかりしおらしくなったものとばかり統虎は思っていた。それが間違いであることに気付くのは、立花城での暮らしにもようやくなれた頃のことである……。
その頃肥前では龍造寺隆信が、やはり大友家の衰退につけこみ、なりふりかまわぬ領土拡張政策により勢力を肥前から、肥後、築前、筑後、豊前と広げ、壱岐、対馬の両島と合わせ、五州二島の太守と呼ばれるほどにまで成長していた。家督は事実上息子政家に譲ったとはいえ、その野心は止まることを知らない。
隆信が次に狙ったのは筑後柳川で、柳川は蒲池鎮並の治める土地である。かって隆信は城も領土も失い落はくの身だった。鎮並の父鑑盛は、隆信に三百石を与え、隆信はそれにより龍造家再興の糸口をつかみ、以来両家の仲は良好だった。また鎮並の妻は隆信の娘にあたり、いわば鎮並にとって隆信は義理の父となる。だが鎮並は龍造寺家の急激な勢力拡張にともない、次第に残忍酷薄な隆信を恐れ、島津とよしみを通じることとなる。隆信はこの鎮並の裏切りを許さなかった。
天正八年(一五八〇)ついに隆信は大軍をもって柳川城を取り囲んだ。柳川城は『米は朝茶の子柳川三年肥後三月、肥前久留(柳川の攻略には三年かかる)』と謳われるほどの名城である。さしも圧倒的な軍勢をもってしても攻めあぐね、籠城戦は実に一年有余にも及んだ。そしてついに龍造寺軍と城方は、一旦和を講じることとなる。しかし隆信は、決して柳川城をあきらめてはいなかった……。
「恐れながら殿、蒲池鎮並殿と和睦の宴をもよおすと聞き及びましたが、もしや何事か策略などございますまいな」
龍造寺家老鍋島信生は、近年ことに残忍な所業が多くなった主君を、あらかじめ諌めるかのようにいった。すると隆信は不意に刀をぬき殺気を露わにした。
「殿なりませぬぞ!」
思わず信生は声を荒げた。
「もう遅いわい。すでに刺客を手配してしまった」
信生はがっくり肩を落とした。
鎌倉以来の名族蒲池家に、今まさに存亡の危機が迫ろうとしていた。
まあこの項のサブタイトルは厳密には「高橋統虎の初陣」が正しいのでしょうが、あまりピンとこないので「立花統虎の初陣」とします。