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【九州三国編其の二】大友宗麟・魂の道

 天正五年(一五七七)十二月、ついに島津義久は伊東義祐を打倒し、日向の南半分を支配下とした。義久の目はさらに北へと向けられた。すなわち豊後の大友宗麟の存在が、義久には気がかりに思えてきたのである。義久は豊後に多くの乱波放ち、宗麟という人物、その気性、好む軍略、内政のありかた等を探ろうとした。

 島津家に忠良の代から仕える細作に、淵脇寿長院という者がいた。寿長院は盲人である。かっては戦場の勇将であったが、さる合戦で傷つき盲目になった。以来僧体となり、薩摩琵琶を片手に他国に潜入しては、各地の豪族達の内情を島津家にもたらしていた。

「申し上げます。豊後の大友家では宗麟公が、夫人を離縁いたしました。大友家の家中はおおいに乱れております」

 義久は、この報告に強い関心をもった。

「詳しく語るがよい」

「なれば大友家において、夫人の放埓なるふるまい、以前より目にあまるものがござりました……」

 

 宗麟夫人奈多姫を最も悩ましたもの、それはなにより夫である宗麟の女狂いにあった。家臣団も度々諫言したが、宗麟は聞く耳を持とうとしない。ついにたまりかねた夫人は、豊後国内の山伏や僧侶に命じ、宗麟を呪詛させるという暴挙にでた。報に接し宗麟は、一時的なノイローゼとなった。突如として一人城を出奔し、行方知れずとなってしまうのである。六カ国もの主が所在定かならずという、この前代未聞の事態に、当然家中は大混乱となった。家臣団はほうぼうを探し回り、府内間近の上原で宗麟を発見する。この時宗麟は、物乞い同然の体であったといわれる。


 天正四年(一五七六)、宗麟は突如として家督を嫡男義統に譲り、事実上政務から手を引くこととなる。突然の出奔劇からもわかるように、このある種インテリの館には、俗世に嫌気がさすことが多々あった。数多の家臣団の離反に苦しみ、夫人の勘気に苦しみ、隠居した宗麟は救いを以前にもまして禅に求める。禅寺に通い、一日座禅を組み、終日人々の前から姿を消すことさえあった。

 家督を譲ったといっても、嫡男の義統は父にも増して精神にバランスを欠いた人物であった。この人物は父である宗麟からその意思薄弱な面を、母親である奈多姫からは勘の強さだけを引き継ぎ、父親同様、女色に対する関心が人一倍強い。このような人物を中心に家臣団が一つにまとまるはずもなく、実権はなお宗麟の手にあった。


 大友家中では豊州三老といわれた人々の中で、元亀元年(一五七一)に吉弘鑑理が没し、天正三年(一五七五)年には臼杵鑑速もまた没した。宗麟の行状を度々諫言してきた戸次道雪は、ついには宗麟から煙たがられ、北方の毛利家への備えとして立花城を任されることとなった。ほどなく戸次道雪は久しく絶えていた立花家の名跡を継ぎ、立花道雪と名乗ることとなる。

 こうして豊州三老といわれた人々は宗麟の前から姿を消し、代って大友家中において加判衆(大友家における中央行政職)として実権を握ったのは、奈多姫の兄にあたる田原紹忍だった。若い時分には妹に似て美形であったと伝えれらる紹忍も、年を経るにしたがって、煮ても焼いても食えぬ小賢しい者という印象を強くしていた。処世術にたける一方、かっての豊州三老に遠く及ばない紹忍が加判衆となったことは、後々の大友家の悲劇の遠因となるのである……。


「うむ大友宗麟と申す者、阿呆なのか利口なのか、あれいは狂人なのか理解できぬ輩よのう」

 島津義久はいずれ争うことになるかも知れぬ、大友宗麟という人物の器量をはかりかねて、やや困惑した。

「左様、家臣団の中にも大友宗麟に愛想尽かす者、度々諫言をこころみる者などおりますが、長く大友家に仕える者にも、宗麟という人物は不可解な者であることは間違いごわはん。そん大友家に新たな災いをもたらしたものは、海の彼方よりやってまいったバテレン達でごわした。 

 大友宗麟は次男の親家を切支丹に入信させることにより、ゆくゆく家督を相続した嫡男との間に、兄弟間の争いがおこることを防ぎ、同時に粗暴な性格を矯正させることを図ったのでごわす。じゃっどんそいが裏目にでたのでごわす。切支丹の教えに心魅かれた次男は、こともあろうに豊後国内の神社仏閣を破壊して回るとという、暴挙にでたのでごわす。そいだけではごわはん……」


『それは土曜日の正午だった。臼杵では田原紹忍が同夜か翌日には教会を破壊し、宣教師達の殺害を命ずるだろうという噂が立った。たまたま私はその土曜の夕方、一人の死者を葬らねばならなかった。私が夜分臼杵に戻ると、三、四十人ほどの異教徒が、略奪のため教会の外で、網や棒を手にしているのに出会った。彼らは紹忍が教会を襲撃した後、どさくさにまぎれて略奪する準備をしていたのである』

 織田信長とも深い関係を持ち、後に大著『日本史』を著したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、平素とは異なる臼杵の状況を伝えている。


 事の発端は田原紹忍の養子親虎だった。親虎は京の公卿柳原家の出自で、謡、絵画、書道、剣術などあらゆる面に才能を発揮したのみならず、容姿にも優れ、紹忍も親虎を深く愛していた。奈多姫もまた親虎に目をかけ、自らの娘と婚約させ将来に期待をかけた。

 だがこの親虎がキリスト教に深い関心を示し、ついには洗礼を受けたいとまで養父の紹忍に申し出たことが、この眉目秀麗な青年の運命を大きく変えることとなった。奈多神宮の祭祀の娘である奈多姫はこれに激昂。親虎は幽閉され、紹忍は軍勢をもって臼杵の教会を取り囲み、これに以前よりバテレン達を快く思っていなかった一向宗達が加わった。多くの人々が教会に罵声を浴びせ、投石がひっきりなしに続いた。


 ちょうど鷹狩りに出かけていた宗麟のもとには、緊急を知らせる使者が幾度となくかけこんだが、宗麟はこの事態にいかなる手も打つことができなかった。切支丹保護政策をとってきた宗麟は、むろん積極的に紹忍側につくことはなかった。さりとて切支丹側にまわる意思を鮮明にしたなら、国内の寺社勢力を敵に回すことになる。

 だがこのまま手をこまねいていては、取り返しのつかないことになる。宗麟は覚悟し、臼杵の城の北の丸に奈多姫を訪ねた。

「そなたの兄が臼杵の教会に軍勢さしむけたと聞く。すぐに兵を撤退させよ。これは豊後の国を預かる者の厳命じゃ」

 宗麟は言葉に威を強くして奈多姫に迫った。

「あの南蛮の坊主達は、自らの教えに殉じて死ぬことを強く望んでいるとか、死にたい者は死なせることが、人の道ではありませぬか」

「なんじゃと?」

「南蛮坊主達には南蛮坊主達の戦が、殿には殿の戦が、そしてわらわにはわらわの戦がありまする。よもやお忘れではありますまい。いつぞや安岐とかいう女子の家も火につつまれましたなあ」

 そういうと、奈多姫は不敵な笑い声をあげた。宗麟は不意に古傷に塩をぬられるような感覚に襲われた。自らの意思で運命を大きく左右し、地獄の業火の中での死へと至らしめてしまった女。あの日以来、幾度自らの過ちを悔いたことか……。


 宗麟は、豊後の青くさざ波立つ海辺の前に立っていた。

 不意に宗麟の目に映ったものは、一団の棺おけをかついだ葬儀の列だった。読経の音が流れる中、ふと目を凝らした宗麟は、棺おけに横たわった骸に驚愕した。なんとそれは宗麟自身の骸だったのである。

「己待てい! 待たぬか!」

 その時突如として宗麟の前に、今まで戦で討ち果たした多くの政敵、宗麟がまだ幼かった時分、自らの教育係りを引き受けながら後に謀反した入田親誠、さらにはあの安岐までもが血まみれの姿で現れ、悪鬼となって襲いかかった。

「己汝等! まだ成仏していなかったか!」

 宗麟は刀を抜き悪霊達を斬りふせるも、幾度斬っても悪霊達が消えることはなかった。ついに宗麟は血を吐いて倒れた。ふと気がつくと悪霊達はすでになく、辺りはまったくの闇である。その時宗麟は、自らを見つめ黒い涙を流す、巨大なマリア像を目にした。

 宗麟が見たこの奇妙な幻は、暗黒の闇をさすらう宗麟の心に、一筋の光明をもたらすこととなった。


「うむ、我が父が切支丹の布教禁じたのは、やはり誤りではなかったのう」

 義久は一つ小さくため息をついた。

 切支丹達は最初薩摩に上陸した。だが島津貴久は国内の仏教徒の反発を恐れて、彼らに布教の許可をあたえなかった。またフランシスコ・ザビエルも、都に登る意思があったことから、長く薩摩に留まろうとはしなかった。

「切支丹寺が田原紹忍の軍勢に取り囲まれた件は、かろうじて事なきをえましたが、宗麟夫妻の仲はいよいよ険悪となり、ついには宗麟は臼杵の城を出て、五味浦に新たなる館築きそこに住むこととなりました。五味浦にて宗麟は、新たに一人の女子に思いをよせたとのこと……」


 まだ木の香も新しい五味浦の館で、宗麟は夜毎その女の体をむさぼった。宗麟は多くの側室を持ち、そのいずれにも寝屋でのことは執拗を極めた。だがさしも宗麟も、若い頃に比べると精力も衰えて、行為を終えると荒く息づかいした。

「大殿様、かようなことは今宵限りにして、私を臼杵の奥方の元に帰して下されませ。長年奥方様の側近くに仕えてきた私が、大殿からかような寵愛を受けていいはずがありません」

 女の名は御辰、二十代半ばで、宗麟はこの夫人にいつぞや見た、黒い涙を流すマリアの面影を見ていた。

「ならぬ、それにこのこと恐らくあの女はすでに存じておろう。あの女の気性から考えて今戻れば、そなたの命はないぞ。わしはそなたと、この五味浦で新たなる生涯送りたい。いずれ正式な妻として、家臣達にもそなたのことを伝えるつもりでいる」

「お戯れを、ならば奥方様はいかがなされます。殿と行き来がとだえて以来、奥方様は様子がおかしいと聞き及びます」

「あの女ことならもうよい。いずれわしの手で、あの女のことに決着をつける」

 宗麟は、まだ息を荒くしながらいった。


 ほどなく、臼杵の城の奈多姫のもとに宗麟から一通の手紙が届いた。

『余はそなたの勘気の強さ、傲慢ぶり、国主たる余を鼻であざ笑う所業の数々には、すでに愛想が尽きた。城を出でよ。余は新たなる妻をむかえることとした』

 手紙の内容はおよそこのようなものだった。

 不意に城の外でヴィオラの演奏が始まった。新婦人を迎えるための儀式が始まったのである。宗麟のこの仕打ちに、奈多姫は精神錯乱状態となり、意味不明の言葉を繰り返したと基督教西教史にある。

 ともあれ宗麟は新たな妻を迎え、時を経ることなく正式に切支丹として受洗したのである。洗礼名はドン・フランシスコ。また新たなる妻もまた受洗した。こちらは洗礼名をジュリアとした。時に天正六年(一五七八)のことである。以後宗麟は武将としてよりも、伝道師として生きたかった。だが時世は宗麟に安楽を与えることはなかったのである。


 


 


 


 


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