【三州統一編最終章】木崎原合戦一
元亀二年(一五七一)、島津家を再び不幸が襲った。前国主島津貴久の突然の死である。貴久は享年五十七歳だった。ここに島津家は本格的に、当主義久を三人の兄弟が補佐する体勢へと移行を迫られたのである。だがこの島津家の動揺につけいろうとする勢力があった。日向の伊東氏である。
「殿今こそ機会にござりまする。島津家は貴久が先年みまかり、跡継ぎの義久のもと、まだ家中に動揺がみられます。今攻めねば我等ゆくゆく後悔するは必定」
翌元亀三年、伊東氏の居城佐土原城では、国主伊東義祐に一門の伊東祐安が薩摩侵攻をもちかけていた。
「まあ待て、わしは今戦する気にはなれん。ましてや人の弱みにつけこんだとあっては、我等いずれ人からあざけりを受けることもあろう」
伊東義祐は、都に対する思い入れが非常に強かった。朝廷に献金をして、地方の大名としては破格の高位である三位の位を得ている。
また、京の文化もこよなく愛し、佐土原で京都に似せた街づくりをしたり、佐土原に大仏殿を建立したり、京都の金閣寺を真似た金箔寺を建立したりした。そして、このような義祐を頼ってさまざまな文化人が、食客として佐土原城に移住した。
家臣団の中には、次第に文弱の道へと流れていく義祐を、歯がゆい思いで見つめている者も少なくなかった。
「恐れながら殿、ならば殿は一生この日向の片田舎で朽ち果てても、よろしいのでござりまするか」
「なんじゃと?」
「まことその目で、京の都をまのあたりにしてみたいとは思いませぬか。この三州を統一し、ゆくゆくは九州をも支配し、御上洛あそばされるつもりはございませんか。かような田舎でただ京洛の地を夢に見る日々に、将来などございませぬ」
「申したな祐安、ならばそなたこたび島津を攻めて、しかと勝算あろうな。貴久すでに世にあらずといっても、後を継いだ義久始め、弟達もみな一筋縄ではいかぬ者達がそろうておるぞ」
かすかに義祐の目に戦国大名らしい色が甦った。
「はっ、確かに貴久亡き後も島津には人材数多おりまする。なれどかような時に攻めずして、いつ攻めまする」
祐安は日向・薩摩・大隅国境周辺の地図を広げた。
「まず島津と敵対する者は我等だけではござりませぬ。肥後の相良義陽に使いを出し、援軍を要請するのです。その上で我等飯野城ではなく、加久藤城を攻めます」
祐安は扇子の先で加久藤城を指した。
「加久藤城には義弘の夫人と取るに足らぬ兵しがおりません。攻めるはこの城以外ありません」
「ふむ女城主か面白い、よかろうそちに任す。見事忠平の妻を余の前にさしだしてみよ」
女城主と聞き、義祐は強い好奇心にかられた。
元亀三年五月三日、深い闇の静寂の中伊東祐安はついに動いた。兵三千をもって飯野城を迂回し、義弘(元亀元年忠平は将軍足利義昭から一字もらい、義珍と改名した。だが忠平はこの名前を好かず、ほどなく義弘と名乗ることにした)の妻お芳が主をつとめる加久藤城へと迫ったのである。
義弘の妻お芳はこの年三十一歳。すでに義弘との間に嫡男鶴寿丸をもうけていた。弓矢のこころえも多少あるこの夫人は、伊東勢の大挙襲来の報にも、さして驚いた様子も見せず、
「私はこの城の主となった時から、今日あるを覚悟しておりました。例え女子の身であろうと、城を枕に討ち死には本望でござります。義弘様には、もし私がここで死んでも形見としてこれを……」
と、飯野城からの使者に、首にかけていたお守りを渡した。
一方、伊東祐安の軍勢は木崎原の野を越え、刻々と加久藤城へと迫っていた。
「申し上げます。なにやら怪しい女子が、一人近くをさまよっているのを捕らえました。なんでも加久藤城にて、義弘の妻の側近くに仕えていた侍女と申しております」
「なに、女城主の侍女とな? よしここへ通せ」
やがてまだ年若い女が、祐安の陣へと連行されてきた。
「そなた名をなんと申す」
「はい梅と申します」
「ふむ、して梅とやら何ゆえそなたは、女子の身で一人かような山里をさまよっておった」
祐安は、色白く均整のとれた顔をした梅の顔を、ゆっくりながめながらたずねた。
「はい、なれば城では主のお芳様が、我等下々の者に至るまで、島津の家のため命捨てよと申されました。その際私めが不覚にも弱気の言を申したため、お芳様の逆鱗にふれたのでございます」
「なるほど、してそなたは城から追放されたわけか」
「恐れながら、もしやしたらその女子は、敵の間諜ではござりませぬか」
側近が口を挟んだが、祐安は疑いをもたず、
「そなた城から参ったのなら存じておろう、加久藤城の弱点はいずこにありや?」
とたずね、ついには加久藤城の搦手の鑰掛口が弱点であるという、重要な情報を聞き出すに及んだ。
この危急の事態に、飯野城の義弘は集められるだけの兵を集めた。総数約三百。将兵達の間に動揺が走る中、忠平は妻が形見として送り届けてきた御守りを片手に、床几から立ち上がると、
「戦は兵の多寡で勝敗が決するわけではない。将兵一丸となり難局に当たれば、必ずや活路はある」
と静かにいった。
義弘はすでに日向国境に多くの間者を放ち、伊東勢の大挙襲来を予期していた。ただちに狼煙を上げ、大口城の新納忠元や馬関田城などに急を知らせる。そして、兵六十人を遠矢良賢に与え加久藤城の救援にあたらせ、五代友喜の兵四十人を白鳥山野間口に、村尾重侯の兵五十人を本地口の古溝にそれぞれ伏せさせた。 そして有川定真に留守居を任せ、義弘自らも兵百三十を率いて出陣、飯野城と加久藤城の間の二八坂に陣を張った。
さらに肥後から来襲する相良軍に対しては、行く手に多くの幟を林立させ、島津兵があたかも大軍であるかのように見せかけた。これにより相良勢は動きを封じられた。
ついに、伊東勢は加久藤城へと殺到した。搦手の鑰掛口から攻めかかった伊東勢であったが、城兵の抵抗は激しく予想外の犠牲者を出し、明朝城攻めを一旦断念した。
「己、鑰掛口は加久藤城の弱点ではなかったのか。一体これはどういうことだ」
祐安は歯軋りした。
「恐れながら、やはりあの梅とかいう女子は怪しゅうございます。ひょっとして我等は、一杯食わされたのではございますまいか」
「うむ、あの女子なら大賀助郎のもとに預けておいたはず。すぐにここに連れてまいれ」
「申し上げます。一大事にございます。大賀助郎の陣にて、多くの兵倒れ、動けなくなったとのしらせにござります」
祐安は急ぎ大賀助郎の陣を訪れた。大半の兵が前後不覚の有様で倒れていた。
「おいこれはどうした。何があった?」
祐安は比較的しっかりした様子の足軽から事情を聞こうとしたが、それでもなおしどろもどろで答えにならない。
「恐れながら、この者達はなにか香を嗅いだ様子でござりまする。恐らくあの梅とか申す女子の仕業に違いありません。隙を見て逃げたのでありましょう」
家臣の一人柚木崎丹後守が、倒れた将兵に代って事情を説明した。
「そうか、わしとしたことが婦女子にたばかられたか。なれどこのままにはしておかん」
「いかが致しまする所存で」
「ひとまず我等白鳥山を越えて三山城へゆき、そこで体勢立て直すこととする」
一旦、三山城を目指した伊東祐安の軍勢ではあったが、白鳥山で白鳥権現の光厳上人率いる僧兵達が、鐘や太鼓を乱打するのを敵の大軍と錯覚し、三山城とは方角の違う木崎原へと撤退を開始した。そしてほどなく、思いがけず丸十字の籏の部隊と遭遇することとなった。義弘の本隊百三十だった。
「敵の大将に物申す。我こそは柚木崎丹後守なり! 速やかに出でて、我と一騎打ちに及ぶべし」
柚木崎丹後守が大音声で敵陣に呼びかけると、
「その勝負受けてたとう」
としばし時をへて返答があった。やがて赤糸縅大鎧に身を包んだ一人の武者が姿を現した。
「まずは、我が必殺の弓とくとご覧あれ」
丹後守は馬の手綱を引き、前へ一二歩進み出て弓を引いた。矢は見事島津軍よりはるか後方の木の枝にとまっていた雀を射抜いた。
「面白か、丹後守とやら、見事こん島津義弘を射抜いてみるがよい」
義弘はあえて丹後守を挑発してみせ、刀を抜くとじりじりと丹後守との間合いを詰めた。
「申すに及ばず!」
丹後守は再び弓を引き絞った。瞬時の静寂の後、丹後守の放った矢は、見事義弘の右の胸を射抜いた。鮮血が噴水のように噴出した。苦悶の表情とともに倒れる忠平。
「敵の大将討ち取ったり!」
確かな手ごたえを感じ、丹後守は勝ち鬨をあげた。
「己ここは一旦退け! 退くのじゃ!」
丸に十字の籏が一斉に、木崎原方面に退却を始めた。伊東勢はただちに追撃を開始する。木崎原の野が両軍の血で染まろうとしていた。
なお、義弘への変名については天正十四年説もありますが、ここでは元亀元年説をとりたいと思います。