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【三州統一編其の一】薩州動乱

 島津氏は、渡来人の秦氏の子孫・惟宗氏の流れを汲む惟宗広言が、主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の日向国島津庄(現宮崎県都城市)の荘官(下司)として九州に下り、その子の惟宗忠久が、源頼朝から同地の地頭に任じられ、島津を称したのが始まりとされる。いわば鎌倉時代以来続く名流である。しかし義辰、忠平兄弟の登場に至るまでのおよそ一世紀間は島津一族内部での争いが続き、これに国内勢力である在地領主との軋轢が加わり、対立と分裂が続いていた。

 

 島津本家十四代目当主は勝久である。若輩者である勝久は有力分家である伊作島津家の力を頼り、大永六年(一五二六)、伊作島津家当主忠良の長男貴久を養子とした。貴久は義辰、忠平兄弟の実父にあたる人物である。翌年勝久は、守護職の地位を正式に貴久に譲って出家。忠良も同様に僧籍に入り、日新斎と号した。だがこれに異を唱える者がいた。勝久の正妻の兄にあたり、虎視眈々と守護の座を狙っていた島津実久である。

 

 実久の甘言に乗せられた勝久は、貴久に守護を譲ってわずか一ヶ月で還俗。日新斎忠良及び貴久との約定をあっさり反故にしてしまった。目ざわりな忠良父子の勢力を駆逐した実久は、次第に野心を露わにし始める。かくして忠良、貴久父子と実久とによる血みどろの後継者争いが十数年続くのである。結局両勢力の争いは天文八年(一五三九)、忠良父子が勝久を加世田城に追いこみ滅ぼしたことにより事実上終結する。

 

 だが忠良父子と在地勢力の争いは、その後も絶えることなく続き、天文二十三年(一五五四)忠良は六十一歳、貴久は四十歳になろうとしていた。薩摩半島平定、そして薩摩・大隅・日向の三州統一を目指す忠良父子の前に、薩、隅国境にそびえる天然の要塞岩剣城が戦略上の重要拠点として、大きく立ちはだかっていた。岩剣城を巡る攻城戦は義辰、忠平兄弟及び忠平の二つ年下の弟歳久の初陣となるのである。

 


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