【三州統一編其の十六】釣り野伏せの陣
永禄十二年(一五六九)、島津軍は菱刈隆秋を大口城に攻めることとなった。攻め手の将に任じられたのは島津家四男島津家久である。家久は通称又七郎といい、中務大輔を称していた。この年二十二歳となるが軍法戦術に妙をえたりと亡き日新斎が称した通り、その才は三州はおろか九州全土いや、戦国の世に日本六十四州見回しても他に比類なき才であったといってよい。恐らくは忠平の才をも越えていただろう。そしてその悪友とでもいうべき存在が、忠良の代から島津家に仕える新納忠元この年四十三歳だった。忠元は武勇に秀でていただけではない。島津の武士には珍しく和歌や歌道の道にも精通しており、風流人といえなくもない。
決戦を前に羽月城では、諸将に食事がふるまわれていた。家久もまた大飯を食らっていた。余談だが江戸時代の薩摩藩は七十七万石の雄藩といわれる。だが実際には薩摩藩は他藩とは異なり籾高による石高の算出で、玄米高に換算すると三十万石程度にしかならない。シラス台地の痩せこけた土地の生産性は極めて低く、しかも当時はまだ、東アジア全土の人口構成に大きな変化をもたらした唐芋も栽培されていなかった。故に島津家はなんとしても領土を九州全土に広めるより他、生き残る術がなかったといえるかもしれない。
家久はよく飯を食らった。その大飯食らいは諸将をも驚かせるほどであった。
「家久公、そろそろ膳をしまわれ城攻めの話でも始める時分ではござりもうはんか?」
心配した忠元が家久に話かけた。
「なにまだまだ、それより昨日のおはんの武勇譚の続きがききたい。敵にとらわれたおはんは、どげんして逃げて戻ってきた」
「はっ、されば敵はおいに凶暴な牛をばけしかけてきました」
敵方の武者は忠元が牛に蹴散らされる様を期待したが、忠元は牛と堂々と渡り合い、ついには牛の角を抑え気合とともに首の骨をへしおり、さしも敵方の荒武者達も驚いて逃げてしまったというのである。
「ふーん牛に勝るとは驚くべき奴よ」
「そげんこつより、早ようこたびの戦必勝の策を」
「ならば忠元、おはんに命じる戦に負けて逃げよ」
「なんとおおせか?」
さしもの忠元も唖然とした。
一方大口城では、本格的な戦を前に将兵達の間に緊張が高まっていた。
「敵の将は一体何者であるか」
菱刈隆秋は家臣の一人にたずねた。
「されば貴久の四男で家久とか申し、齢二十二にして賢愚のほどいまだ定かならぬとか」
「うむ若造だな。なれど油断はならん。いっそ夜討ちでもかけてみるか」
隆秋が思案していると、突如として物見があわただしく姿をあらわした。
「申しあげます。敵方の将の一人が羽月城より出でて、我等を挑発しております」
「なんと!」
「して敵将の名はなんと申す」
「それが新納忠元とか申す者でござるが、ちと風変わりな者でござれば……」
隆秋はじめ菱刈方の将兵達が皆息を飲んだのは、忠元の異様な風体を見た時だった。
「だれぞおいと一騎打ちに及ぶ勇者はおらんか?」
なんと驚くべきことに忠元は鎧も冑も身に付けず、全身朱の装束で馬に逆さに乗って登場した。
「己、我等を愚弄するにもほどがある! 新納忠元とか申す者、我は滝山秀親と申す覚悟!」
菱刈方の勇士の一人が忠元に襲いかかった。だが忠元が振り下ろす槍は鉛のように重く、二度三度と続く間に滝山は首になってしまった。
「うぬ許せん!」
ただちに菱刈方の武者三人ほどが一斉に忠元に戦いを挑むも、まるで乳飲み子があしらわれるように歯が立たない。
「ええいたかが一人の敵将相手になにをもたついておるか! かかれ、かかれ、全軍突撃せよ!」
「おっと多勢に無勢、ここは引き返すとするか」
忠元はきびすを返して撤兵しようとした。
「己逃げるか卑怯者!」
菱刈方は追撃した。やがて小雨がかすかに降る中、鳥神岳のふもとに至って異変はおきた。
「チェストォォォォ!」
突如として山が鳴動するかのような薩摩隼人の咆哮が菱刈方を包んだ。鳥神岳に潜んでいたのは大野駿河守率いる伏兵だった。
「チェストォォォォ!」
咆哮は左斜めにそびえ立つ稲荷山からも聞こえてきた。稲荷山には宮原筑前守の伏兵が隠れていたのである。瞬時、菱刈方に戦慄とも狼狽ともいえぬものが走りぬけた。
「己、謀られた一旦兵を退け」
隆秋が撤退の合図を出した時はもう遅かった。さらに新納忠元の部隊も反転して攻勢に転じ、ここに菱刈軍は三方から挟撃される形となったのである。混乱が混乱を呼び、菱刈方が崩れるのに時間はかからなかった。討ち取られた将士の数百四十余、竹之瀬戸川に飛び込んで溺死したもの数知れず、島津方の大圧勝であった。後に『釣り野伏せ』といわれる島津軍の常套戦法がこれである。
かろうじて大口城に逃げ戻った菱刈隆秋であったが、それから二十日ほど城をもちこたえるのが精一杯であった。降伏した後は人吉に送られ、あらためて曾木に領地を与えられることになる。
戦後、忠元は大口地頭に任じられ『武蔵守』の名を得ることとなった。一方家久の名は戦功によりいやが上にも高まった。やがてその類稀な武運は九州全土を震撼させることとなるのである。