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【三州統一編其の十五】日新斎死す

 永禄十一年も十一月のある夜のことである。日新斎忠良及び島津貴久それに島津家譜代の諸侯が一同に集い、久方ぶりに酒宴の席が設けられることとなった。酒宴といっても、日新斎自身は酒を飲まない。下戸というわけでもなく、仏教の戒めに対し厳格であるため、酒を口にしないのである。


「貴久、そなたは織田信長と申す者をどう思う」

 宴もたけなわとなった頃、不意に日新斎が貴久にたずねた。この年、尾張の国から身をおこした織田信長は足利義昭を奉じて上洛の途につき、時代が大きな節目を迎えようとしていた。

「はっ、されば幸運にして都に近い場所に生を受けたまいし故、今でこそ将軍を奉じて意気さかんでござるが、じゃっどんいつまで勢い保つことができるものか……」


「都に近い土地に生を受けた幸運か……思えば我等は不憫よのう、わしとそなた、この齢になるまで三州より先の天地を知らずとは、じゃっどん義久、忠平それに歳久等の孫達力合わせれば、必ずやこん三州から九州いや、天下に島津の名不朽のものとなろう。そん為におい達は捨石になる覚悟貫いてこそ……」

 突如として日新斎は強い耳鳴りに襲われた。

「貫いてこそ……」

 しばし日新斎の眼光は虚空をさまよった。次の瞬間日新斎は多くの家臣の眼前で、前のめりに倒れた。

「父上!」

「大殿お気を確かに!」

 忠良が昼夜の区別さえ定かならぬほど重体となったのは、ほどなくのことであった。

 

 忠良が病に倒れた頃、忠平は飯野城で桶平の伊東勢の動きに備えていた。

 伊東義祐は密使を肥後球磨の相良義陽のもとに送り、大明司に軍を送ってくるよう要請した。だがこの一件は忠平の知るところとなり、忠平配下の中野越前守と伊尻神力坊が睨みをきかせたため、相良勢もうかつ出すことができなかった。一方の忠平もまた、連日の雨のため兵を動かすことができない。

 

 ある日忠平は、わずかな供を連れただけで木地原に鶉狩りにでかけた。

「かような合戦の最中に鶉狩りとは、なんとうつけのような振る舞いよ」

 この噂が流れるや、伊東義祐は忠平を討ち取ろうと木地原へ軍勢をさしむけた。だがこれが罠だった。木地原には遠矢下総守、黒木播磨の二将と五十人ほどの鉄砲部隊が待ち伏せしており、不意を突かれた伊東軍はたちまち算を乱し、我を先にと桶平に逃げ帰った。


 伊東奴が真幸の陣は桶平に

 飯の欲しさに帯の緩さよ


 戦後、忠平が伊東勢に送った狂歌である。数年前飫肥城を落とし忠平の義父敬親を逃走せしめた伊東勢が、さらなる領土を欲して桶平に進駐してきたが、帯(飫肥)が緩くて奪い損ねたという忠平一流の皮肉である。


 こうした合戦の最中にあっても日新斎の容体は日をおうごとに悪化し、十二月に入ると最早だれの目にも回復の見込みがないほど、日新斎は衰弱してしまった。


「家久……家久はおるか……」

 忠良はか細い声で四人目の孫家久の名を呼んだ。

「ここにおりまする」

「うむ、そなたは軍法戦術に妙をえたり、必ず兄達を助け島津の家名を絶やさぬようつとめよ」

「仰せの言葉、しかとうけたまわってごわす」

 家久は力強く答えた。家久はこの年二十一歳、三男の歳久と比較しても十年遅く生まれ、唯一兄弟の中で腹違いの末弟だった。この日新斎の家久に対する評価が、誤りでなかったことは、後の家久の九州全土をまたにかけた軍功が証明することになる。


「忠平、忠平はおるか……」

「今は飯野城で伊東勢と対峙している最中でごわす、今しばらく到着が遅れるかと」

「紙と筆を持て」

 忠良は震える手で最後の力をふりしぼって、何事かを書き記した。


 逃れるまじ  ところをかねて  おもいきれ  時に至りて  すずしかるべし 


「必ずや君や国のため命をかけなければならない時がやってこよう。日ごろから覚悟を決めておけば、万一の場合にも少しの未練もなく、死さえも涼やかでいることができる。しかと……しかとそう伝えるがよか」

 忠良は息絶えだえになりながら、絞るように声をだした。


「おいにも一言お願い申す!」

 義久は忠良の手を握り、最後の言葉を求めた。

「弓を得て  失うことも  大将の  心一つの  手をば離れず」

 忠良の声は聞き取れぬほど小さくなった。

「めぐりては我が身にこそつかへけれ 先祖のまつり 忠孝の道」

「恐れながら、意味をお教え下され」

「我等、こん薩摩の地に割拠すること数百年。なればこそ大将であるそなたが心得違いすることなく、誠を貫き、忠孝の道捨てることなく、家臣、領民の心得れば、例え十万の敵薩摩に来たれど恐れることはない」

「仰せのこつ、義久生涯肝に銘じて忘れませぬ」

 

 間もなく忠良の容態は急激に悪化した。永禄十一年十二月十二日未明、島津日新斎忠良はついに息を引き取った。享年七十七歳。辞世の句は、


 急ぐなよ又とどまるな吾が心

   定まる風の吹かぬかぎりは


 忠良は死んだが、その高度な戦略眼と優れた精神性は後の島津家へと受け継がれ、日本史にも大きな影響を与えることとなる。忠良の死とともに、島津家に新たな時代が訪れようとしていた。



次回からタイトルを「戦国烈風伝鬼島津之一族」と変更することにしました。度々すみません。

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