【三州統一編其の十四】薩摩国主島津義久
戦国の世に島津家を富強たらしめた一因に、島津家独特の軍事システムとして外城制度というものがあった。
日新斎忠良から貴久の代に島津家は、島津本家の残党や反対派国人の一掃を図り、一族や直臣を配置することによって支配力強化を狙った。本貫地が異なる者が島津家の命を受け地頭として長期間駐屯し、やがては拠点を移して居を構えるようになる。また地頭配下の武士達も本城の周囲に居住して、ここに武家町が生まれることになる。これを「麓」と呼ぶ。後の天正期になると、薩摩、大隈、日向三カ国で地頭職は百五十箇所近くにものぼり、島津領の要所にくまなく配置された。この地頭配置の土地こそが「外城」とよばれる城塞であり、戦時下には本城を防衛するネットワークの構成単位となった。
また島津家独自の軍団編成として「伍」というものがあった。「伍」は合戦時において五人を一組とし、伍から離れた者は死罪に処せられる。伍は戦場において各々の持ち場において、必ず一人以上の敵を殺さなければならない。もし殺せなかった時は本人が死罪になるばかりか、親族にも類が及び、他の伍の組員もまた切腹を命じられた。伍のうち一人に手柄があれば伍の組員すべてのものとなり、伍のうち一人が討ち死にした場合、他の四人が討ち果たした相手を倒さなければ全員切腹となった。伍が与えられた持ち場から前に出るのはよいが、左右、後方へ逃げた場合死罪である。すなわち前面にいかな強敵が存在しても甘んじて死を選択すべきという意味でもある。
島津家において人命はまるで塵芥のように軽く、戦場で死ぬことがなによりも美徳とされた。ことに武士の子弟ならば誰もが幼少時からの言語に絶する過酷な修養を経て、死を恐れぬ殺人機械として成長する。いわば彼らは皆島津家にとって常に戦場での「駒」となるのである。
こうした薩摩の苛烈な士風の中において、永禄九年(一五六六)島津貴久は正式に家督を嫡子義久に移譲し、自らは出家し伯囿と号した。この年遠く都では将軍足利義輝が三好義継、松永秀久等によって殺害されるという事件がおきており、二年前将軍家から従四位下・陸奥守に任命された恩義に報いるというのが、表向きの理由だった。この時義久三十四歳であった。
家督相続の儀式が粛々と実行されると、そこにはすでに義久と臣下の間の越えられない一線が存在していた。特に忠平、歳久にとって、そこにいるのはすでに兄であって兄ではない。島津家において例え弟といえど、義久が死ねといえば、いかな死地にも赴かねばならぬのである。
島津忠平は永禄五年春、貴久、義久等のたっての希望により義父敬親のもとを離れ、飫肥城から急遽鹿児島に戻り、永禄七年(一五六四)年頃から飯野城で日向の伊東氏の動向に目を配っていた。また忠平の妻お芳は、日向との国境にある加久藤城の女主人となっていた。
永禄十年(一五六七)十一月、島津義久はおよそ一万五千の手勢をもって、大口盆地を拠点とする菱刈一族の討伐を実行に移した。忠平は飯野城をたち、馬越の境に兵を集結させた。十一月六日深更に及び、時を待つ忠平の目に奇妙が現象が映った。狐火らしきものがゆっくりと馬越城の方角へ移動していくのである。島津家は狐を神体とし、初代忠久以来、重大な合戦において幾度も狐火が将兵を導いたという伝承がある。忠平はすわこそ戦機と見てとった。
「かかれい! 今こそ時ぞ!」
忠平は大号令を下した。
翌未明、麓に火を放ちながら馬越城に迫った忠平の軍は鉾矢形に陣形をとった。鉾矢形の陣形とは、先端を突き出すことで矢のような鋭さを持って、敵本陣突破を狙う攻撃力重視の陣形である。江戸時代の儒学者 荻生狙徠は「小勢にて多勢に向かって打ち破らんとする構え」とも説明している。全軍が文字通り一本の巨大な矢と化して敵に迫る。矛矢形の陣において先頭に配置される者には、最も過酷な状況が想定され、武力・胆力に傑出した者意外には勤まらないといっていい。むろんその役割が勤まる者は忠平をおいて他になかった。
炎のように城に迫る忠平の軍勢に対し、馬越城の将兵達も覚悟を決めた。矢玉が尽きるまで射ち、丸太を落とし、火矢を放つも、敵の大将が忠平では分が悪い。たちまち辻、有馬、久富等島津方の勇士が内城の壁をよじ登ろうとした。ところがこの時、城内から城将の井出籠駿河守とその嫡子が姿を現し、背中から三将を斬殺してしまった。
「卑怯なり駿河守!」
薩摩隼人は例え相手がいかな憎き相手といえど、卑怯、卑劣な振るまいを最も恥とし、また憎悪する。将兵一丸となって城門に迫り、駿河守はじめ二百余りの首をあげる大戦果となった。
「チェストォォォ! 敵将討ち取ったり!」
大地を揺り動かすかのような薩摩隼人の咆哮に、横川城の守将菱刈鶴千代始め、菱刈方の多くの将が城を捨て、大口城の菱刈隆秋のもとへ逃げ込んだ。島津軍の大勝利であった。
永禄十一年正月早々、薩州羽月の堂ヶ崎で、菱刈氏と肥後の相良氏の連合軍が、巻き返しを図っていた。忠平はわずか三百の手勢で出陣、対する菱刈・相良連合軍は約四千である。
「明朝、総攻撃を決行する。各隊出陣の支度を急げ」
軍議の席上、忠平の言葉に集まった将達は皆一様に難色を示した。
「恐れながら、敵は我等の十倍以上、出陣は今しばらく待つべきかと」
「ないごてな、確かに敵は圧倒的多勢、じゃっどん戦には戦機ってもんがある。こんおいを信じよ。おいは今まで、戦場で敵に不覚をとったことなど一度もなか」
重臣川上久朗が出陣を諌めたが、忠平は聞く耳を持とうとしない。
「兄上、歳久も同じ意見でござりもうす。ここは本隊の到着を待つべきかと」
歳久までもが反対すると忠平は、
「薩摩隼人が敵が目の前におるのに、ただ指をくわえて見てるっち法はなか! おはんら、ほんのこていつからそげん臆病になった!」
島津家において臆病とそしられることは最大の恥辱である。忠平の言葉に将達は、いずれも死を覚悟しなければならなかった。
連戦連勝の末に忠平の心に驕りが生じていた。果たしてこの戦はまったく利なきものとなった。島津軍の備えは圧倒的な敵兵に完膚なきまでに崩され、ついには忠平自らが太刀をとり、敵兵と斬り結ぶ事態にまでなった。
「チェストォォォ! おいは島津忠平じゃ、こんおいの首取れるもんなら取ってみやんせ!」
この時にはすでに忠平自身も半ば死を覚悟し、半ば精神錯乱状態になりながらも叫びをあげた。忠平は自身、日新斎忠良から体捨流の奥儀を会得した剣の達人である。
体捨流とは、肥後の国人吉に生を受けた剣豪丸目蔵人佐があみだした剣の流派である。体を捨て、太刀を素立ちして待って捨て、かかるを捨て、心の鏡を明らかにして、敵の機変に応じるのを意地生業とする。
忠平もまた全てを捨て去り、無に戻り、悪鬼の形相で群がる敵を斬り伏せ、ついには敵兵を戦慄せしめ、その隙に家来十数名とともにようやく戦場から離脱した。だがこの時にはすでに忠平も身に傷を負うこと数知れず、疲労が極みに達した時、遠方から怪しい人影がこちらに近づいてくる。
「忠平様、新手の敵兵かと思われます。ここはおいが忠平様の身代わりとなります。早く鎧と冑を」
川上久朗が忠平に鎧を脱ぐよう必死に説得した。
「そいはできもうはん、おいもここで死ぬ」
「主の身代わりとなって死ぬは武士の本望ごわんと」
押し問答の末、忠平はようやく鎧と冑を久朗に渡した。
「忠平様、武士ははなばなしく死ぬも大事、じゃっどん無謀の戦の末死ぬは犬死ごわんど」
別れ際の久朗の諫言は、忠平の胸に突き刺さるものだった。久朗は迫ってくる敵の只中に一人わけいり、壮絶な討ち死にを遂げた。享年三十三歳であった。
忠平は九死に一生を得た。その後も菱刈合戦は一進一退で戦況が好転しない中、永禄十一年も暮れが迫り、島津家を揺るがす一大事がおこったのである。