【三州統一編其の十三】門司城攻防戦戦後外交
突如として義鎮の乗る馬が、いななき声をあげ立ち往生した。
「この馬は滅多に興奮しないはず。一体どうしたというのだ」
「殿、様子がおかしゅうございます。ご用心を」
と忠告したのは臣下の田原親宏だった。
「何を馬鹿な怪しい気配などしないではないか」
と義鎮がいぶかしんだその時だった。左右の草わらが不意に強く揺れた。風のない静かな夜だった。やがて強い殺気が、大友軍全体を包むまで時間がかからなかった。
「敵の伏兵だ!」
「殿をお守りしろ!」
大友軍はたちまち大混乱におちいった。
「殿、ここは我等に任せて早くお立ち退きを」
「そなた達だけここに置いてはいけん。わしも共に」
「なりませぬ! 殿が死んでは大友家もおしまいです」
田原親宏は馬の尻を叩き、義鎮を無理矢理戦場から離脱させた。この後親宏は自ら太刀を抜き敵と斬り結び、身に十数カ所の傷を負ったが奇跡的に命をとりとめた。
大友側にとって絶対絶命の危機であったが、如法寺、津崎氏らが救援に駆けつけ体制を立てなおし、また宇佐郡衆を率いる佐田隆居が奮戦し、吉岡長増、臼杵鑑速らと合流し部隊の撤退を援護した。だが戦勝の勢いにのった毛利軍は、松山城と香春岳城ら北豊前の諸城を占領することとなった。
かろうじて府内に帰還した大友軍であったが、その変わり果てた姿に、沿道の見物人は唖然となった。
翌永禄五年(一五六二)六月、義鎮は敗戦の傷もあって入道し名を宗麟と改めた。だが敗戦の悪夢はなおも宗麟を苦しめ続け、ついには政務をなおざりにし、享楽にふける日々が始まることとなる。恐るべき破戒僧宗麟の誕生であった。ところがここにさらに、大友家中に不思議なことがおこった。宗麟のみならずあの戸次鑑連までもが、大友家の重鎮としての責務も忘れ、酒色にふけり始めたというのである。宗麟は鑑連の突然の変貌ぶりをいぶかしみ、ある夜密かに鑑連の屋敷を訪ねた。果たして鑑連は美女をはべらせ『三拍子』という踊りを舞わせ、酒の酔いに心まかせているところだった。
「恐れながら殿のおこしにございます」
家人の一人が告げたが、鑑連は威儀を正そうともせず、
「ここにお通しせよ」
とただ一言いった。やがて宗麟が姿を現した。
「固いばかりの男と思っていたそなたが、酒と女に心奪われていると聞き、わざわざ様子をうかがいにきたぞ。これはいかなる心変わりか」
「固いばかりの男とは心外にござりまするな。この鑑連決して戦場だけの男ではございません。この通り華美の道にも精通してござるよ」
「面白い、今宵は一つ楽しませてもらうとしよう」
再び美女達の舞が始まった。やがて夜もふけ、いつの間にか美女達はいなくなり部屋に宗麟と鑑連のみとなった。舞を楽しみ、しばし心うちとけた様子だった宗麟は、不意に真顔になった。
「何かわしに申したきことがあるのであろう。申してみよ」
「恐れながら、こたびそれがし酒色に日々忘れしは今生のなごりに、華美の道というものを一度味わってみたいという願望故でござりまする」
「今生のなごり?」
「左様、殿が政務のことも合戦のことも忘れ、逸楽の日々を送るはこれ臣下の不徳。それがし力至らぬ故でござりまする。故にそれがし腹を切る覚悟固めました」
「面白い、腹きれるものなら見事わしの前で腹きってみせよ。じゃがそなたが腹きってもわしが変わらぬと申したらいかがする」
「何も申されるな殿、それがし殿と長い付き合い故、心中重々察しておりまする。戦に敗れ、多くの家臣失い、また弟君の仇も討てずさぞや無念でござりましょう。されど戦の勝ち負けは武門の常なればせんなきこと。最も恐ろしきことは殿が人の心失うことでござりまする。家臣、領民の心皆ことごとく殿より離れ、先祖代々のお家滅ぼすを、それがし見とうはございません。故に今日が今生の別れでござりまする。なにとぞ心改めるよう切に切に願う次第」
そういうと鑑連は脇差をぬいた。
「御免!」
「待て鑑連、そなたの申すこと一々最もである。わしは人の心をいやその前に、二人といない重臣失うところであった。この宗麟生涯の心得違いをしておった」
「殿ならば!」
「わしには大友家の主として、やらねばならんことがまだあった。そしてそなたも腹などきるな。そなたがいなければ大友家は成り立たん」
宗麟は決意を新たにするのだった。
やがて宗麟は合戦で奪われた領地を外交で奪い返す作戦にでる。遠く京都の将軍家に多額の献金をし、毛利家との和平の仲介を依頼したのだった。時の将軍は第十三代足利義輝である。大友家はそれ以前から、しばしば将軍家に多額の寄付をし、見返りとして六カ国守護として正式に認められた他、永禄三年には将軍家から桐の紋まで賜っている。また永禄二年には鉄砲一丁を刀鍛冶に作らせ将軍家に献上している。
宗麟の思惑通り将軍家は両家の和平交渉に積極的に動いた。しかし宗麟の外交交渉はそれだけではなかった。さらに吉田郡山城の元就を驚かせる事態がおこったのである。
この年毛利元就は六十六歳、白いあご髭をはやし、一見温和ではあるが眼光だけは鋭い。どこか神仙をおもわせるところがある。
「山陰にて尼子方の動きが怪しい様子だ」
元就は送られてきた書状を一読し、かたわらにいる側室東の大方にぼそりといった。
「おそらく大友宗麟の策謀であろう。宗麟とか申す者家臣に猿をけしかけ、驚く様を見て喜ぶようなうつけと聞いたが、わしとしたことが、まんまとしてやられたわい」
元就はからからと笑った。だが目は笑っていなかった。
「まあ、して殿はいかがするおつもりで」
「今となっては詮なきことよ、こたびは九州から手を引こう」
「口惜しゅうはございませんか」
「いや我等にとってまず、この山陰、山陽に基盤作ることこそ大事。九州は後でよい、後でな」
そういうと元就は茶を一杯口にした。だが東の大方は元就との長い付き合いから、元就の胸中をよぎる複雑な思いを理解していた。六十を過ぎた元就にとって後の課題は、子や孫の代に毛利の家を安泰たらしめることだった。そのため凡庸と噂された宗麟を、生きているうちに可能ならば滅ぼしておきたかったのである。だが宗麟は事の他手強く、三十四歳と武将として、ようやく壮年をむかえつつあることが、老いた元就にしてみればうらやましくもあり、家の将来を思うと不安でもあった。
結局、毛利氏は大幅な譲歩を迫られた。せっかく手にした香春岳城、松山城、門司城を手放さなければならず、事実上北九州から手を引く形となったのである。だがこの和平は一時的なものにすぎず、毛利、大友両家の争闘は、やがて北九州全域を泥沼の渦へと巻きこむのである。