【三州統一編其の十一】門司城攻防戦一
『謀多きは勝ち、少なきは負けと申す。ただただ当時の武略方、計略方、無稽古、無数奇にも候ては、もっての外なる儀に候の条、ひとへにひとへに武略、計略、調略がたのことまでに候』
戦国時代山陰、山陽に覇をとなえた毛利元就が、嫡子隆元に与えた訓戒状の一説である。毛利家は源頼朝に仕え、鎌倉幕府創業に極めて重要な役割を果たした、大江広元を祖とするというのが通説である。だが戦国大名毛利元就の出発点は、芸州高田郡吉田のわずか三千貫の小領主でしかない。そして五十の坂を越してもなお、安芸一国をかろうじて掌中におさめ、当時中国筋で隆盛を誇っていた大内、尼子両勢力の鼻息をうかがう小勢力にすぎなかった。
その元就をして西国の覇者たらしめたものは、やはり武力よりも武略、計略、調略であったろう。厳島合戦が好例である。偽りの寝返り者をもって、敵を大軍が動きにくい厳島に誘い出すなど、常人には中々及ばない調略の才といってよい。一見すると温厚な初老の好々爺という、この人物の外見からは想像できない、謀略家としての一面をかいま見ることができる。
当然毛利家の急激な勢力拡張と大内家の滅亡は、父祖の代から大内家を最大の仮想敵国としてきた九州大友家にとっては、戦略方針の変換を迫られる重大事件だった。毛利家の九州進出を阻む立場にある大友義鎮、この人物は毛利元就とは対照的に生まれながらにして、九州随一の名門大友家の跡取りだった。そしてさして労することなく永禄二年には豊後、肥前、肥後に加えて、豊前、筑前、筑後の六カ国の守護にまで登りつめた。両者は性格も正反対だった。外見上物腰穏やかで、闘志を内に秘めてきた元就に対し、義鎮は常に何事かに心突き動かされる存在であったといってよい。ただ一つだけ共通していたことは、義鎮もまた元就同様調略に秀でていたことである。その才は元就に勝っていたといっていいかもしれない。
門司城は別名亀城ともいう。元暦二年(一一八五)平知盛が、源氏との合戦に備え築城したのが起源といわれる。本州と九州とを結ぶ関門橋が、門司へ渡ってすぐトンネルとなる古城山山頂部上に位置しており、標高一七五メートルの山頂は現在和布刈公園となっている。ここは明治二十年(一八八七)頃から太平洋戦争まで軍の下関要塞だった場所でもあり、戦国期の遺構はほとんど破壊され、本丸跡だけがわずかに往時をしのばせる。門司城の中腹からは遠くに満珠、干珠の二島が横に並ぶ様子がうかがえ、その間の壇ノ浦は、別名・早鞆ノ瀬戸という。その名のとおり、まるで川のように潮が流れる。
永禄四年十月、門司城から関門海峡をのぞみ思案にふける一人の武将がいた。毛利元就の庶子のうち最も元就の資質をよく継承したといわれる、三男小早川隆景だった。
毛利軍は九月十八日、水軍五百隻、約一万の小早川隊が赤間関に着陣。それからほどなくして、元就の嫡男毛利隆元率いるおよそ八千の兵が防府に本陣を置いた。小早川隆景が大友勢を蹴散らし、門司城に入城したのは十月に入ってからだった。
「果たして潮の流れがいずれに味方するか、我等にかそれとも敵にか」
海峡をうめつくす大友の大軍。いかに犠牲を少なくして勝つか、隆景の思案はその一点にあった。すでに前哨戦は始まっている。毛利方の児玉就方が河内水軍を率い豊筑沿岸を襲撃すれば、九月末には大友軍が豊前沼の毛利軍支隊を襲撃し、両者とも一歩に引かない構えを強くしていた。不意に海峡の潮の流れが変わった。関門海峡は、1日に四回、ほぼ三刻(六時間)おきに潮の流れが変わり、潮流は最高十ノット(時速約十八キロメートル)を超えることもあるという。隆景の脳裡に一つの閃きがあった。
「誰かある村上武吉に伝令致せ、ただちに村上水軍を率いて豊後、筑前の沿岸を襲撃するようにとな、敵もまた潮の流れを読んでいるであろう。だが船戦なら我等に一分の利がある。大友義鎮の首をあげるは今をおいて他にない」
村上水軍は古来より、主に瀬戸内海を根城に活躍してきた海賊集団である。源平合戦のおりは源氏方につき、南北朝の御世には村上義弘が南朝方に属した。その後能島村上家、来島村上家、因島村上家の三家へ分かれ、村上武吉は能島村上水軍の主である。
村上水軍が乗る船は主に小早である。小早は、櫓の数が十挺立から二十挺立くらいのもので、矢倉がない。 小回りがきき、手軽に乗り回すことができ、速力があり、敵船へおし寄せて乗っ取ったりするのに有利である。磯近くでも座礁することなく、潮 が干いたところでもわずかに水があれば、出入りが容易であった。また彼らは「石火矢」を武器として用いた。鉄の筒状の武器に火矢を装填して火薬で飛ばす兵器である。他に「焙烙火矢」というものもある。火矢の代わりに焙烙を射出する兵器である。
丸に『上』の字の籏をなびかせた村上水軍は海を熟知しており、大友の水軍は各地で村上水軍にかき回された。特に彼らが最も得意とした夜襲により、大友軍は日がたつにつれ旗色が悪くなる一方だった。
さらにこの情勢を見て、防府の本営にあった総大将格の毛利隆元は追加の援軍を渡海させ、対峙していた大友勢の側面に襲い掛かった。不意を突かれた大友勢は大いに崩れ、たちまちのうちに劣勢を余儀なくされたのだった。
「殿、度重なる夜襲により軍の士気は下がる一方です。何か策を練らねば我等、撤退するより他なくなりますぞ」
大友軍本陣で、大友家重臣戸次鑑連が義鎮にたずねた。
「なに心配することはない。すでに手はうってある」
義鎮は自信ありげに答えた。
「門司城内の篭城兵の中の田北民部の縁の者、稲田弾正、葛原兵庫助を偽って敵に内応させた。我等一両日中にも狼煙を合図に城に攻め入るてはずになっておる。そうしかと皆に伝えるがよい」
「さすが殿ぬかりがございませんな」
と答えてみたものの、鑑連は何か不吉なものを感じてもいた。果たして予感は的中するのである。
一方門司城内では相次ぐ戦勝に気をよくした隆景が、諸将の労をねぎらうため、一夜限りの特別の宴席を設けた。
「本来なら陣中での酒はご法度であるが、敵は今大いに乱れておる。今宵一夜限りは皆酒を飲んで語りあおうぞ」
と諸将に酒をすすめ、自らも久方ぶりの酒を口にした。やがてかすかに酔いが回り始めた頃のことである。
「思えば、今我等ここにあるも不思議なことよのう」
隆景はおもむろに語りだした。
「武士にとって死は常に眼前にある。ことに我等は皆、厳島の合戦のおり一度死んだ身。もしあの時村上水軍我等に味方せずば、あれいは陶晴賢が桂元澄の偽りの寝返りを見破っておれば、わしもそなたらも瀬戸内の海に命運尽きていたであろうのう」
「はっ左様で、これも我等に神仏の加護あってのこと」
諸将が隆景に相づちをうった。
「まことおごる平家久しからずとは、今の義鎮のようなもののことをいう」
かすかに隆景の眼光が鋭くなった。その時だった。
「なにをなされます!」
「己放せ! 放さぬか!」
二人の武士が諸将が驚く中、両手を後手に縛られた状態で宴席に引きたてられてきた。稲田弾正と葛原兵庫助だった。
「これは一体何事でござるか」
稲田弾正が血を吐くような声をあげた。
「それは己の胸に今一度問いただしてみるがよい。我等に偽りの寝返りは通ぜぬ」
隆景が静かにいうと、二人は奥の部屋へと引きずられていった。両者が首級になって戻ってきたのはほどなくのことだった。
「よいか、このこと決して口外すな。敵は一両日未明、狼煙があがるのを密かに待っているであろう。もはや敵は我等の手におちたも同然。決戦は一両日ぞ」
果たして十月十日、大友勢は密約に従って密かに城に迫り時を待っていた。
「見ろ狼煙だ、狼煙が上がったぞ」
天へと昇っていく一本の細い煙を確認した義鎮は、全軍に突撃の合図をだした。だがこれが罠だった。城門が開くや突如として城兵が押し出してきて、虚を突かれた大友勢はたちまち混乱におちいった。一方、浦宗勝、児玉就方等は毛利水軍を率いて門司沿岸に上陸、大友軍と激突した。世にいう明神尾の合戦の始まりであった。