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【三州統一編其の十】島津武士

 現在の鹿児島県霧島市、国道二百二十号線から国道五〇四号線に通じる県道四七八号線沿いに、別名仁田尾城ともいわれる廻城があった。廻城は、牧之原台地から西に向かって半島状につき出した丘陵状に築かれ、三方が崖の要害の地に築かれていた。今から四四八年前、永禄四年(一五六一)のある夏の暑い日、この城の目と鼻の先で一人の島津武士が、壮絶に戦い最期を迎えた。島津日新斎忠良の次男、そして貴久の弟島津忠将である。


 島津家が薩摩を完全制圧した頃、隣国大隈には高山城を本拠とする豪族肝付兼続がいた。肝付兼続は貴久の姉を室とし、妹を貴久に嫁がせ、かっては島津家と極めて良好な間柄にあった。だが島津家が蒲生範清を降して大隈半島侵攻への突破口を開くと、次第にその存在を脅威ととらえるようになった。両者の関係はささいな事件をきっかけに決裂する。

 

 永禄四年、肝付兼続は日新斎忠良の招きに応じ鹿児島に下向した。接待役にあたったのが伊集院忠朗・忠倉父子である。事の発端は宴席で、もてなしのために出された料理であった。

「こいはないごってごわすか?」

 兼続は突然席を蹴って立ち上がった。もともと兼続はかなり酒が好きで、すでに酔いが回りきっていた。高山城でも泥酔した兼続が貴久の姉でもある夫人に悪口雑言を浴びせ、結果夫人は鹿児島に去り、両家の間が一時冷却するという事件もおきている。

「こん鶴の羹はおいを成敗するちゅう……つまりは宣戦布告じゃなかか」

 肝付家は鶴を家紋としていた。故に兼続は鶴の羹を不吉と考えたのである。

「殿、お控えあれ」

 兼続付きの家来が必死に兼続をたしなめた。

「おはんらが一戦交えるちゅうんであれば、いつでも相手になりもんそ」

「こいはとんだご無礼を、どうかご容赦のほどを」

 

 伊集院忠倉が必死になって謝罪したので、その場はかろうじて事なきを得た。だが翌日兼続を歓待するため催された犬追物の席で、さらに予測不可能の事態がおきた。島津方は兼続に敬意を表して舞鶴紋の陣幕を張って出迎えたが、不幸にして幕が裂けており、ちょうど鶴の首をはねる形となっていたのである。

「己! こいはおいの首をば、はねるちゅうことでごわすか!」

 兼続は顔色を変えて退席し居城に戻ってしまった。日新斎忠良は後日使者を送って非礼を詫びたが、兼続は頑として聞き入れず、ここに両国の関係は、決定的な対立となったのである。


 それから数ヶ月とたたないうちに肝付兼続は行動をおこした。根占領主禰寝重長、垂水領主伊地知重興等とともに、曽於郡福山にある廻城を奪ったのである。城主廻久元が盲目であることにつけこんだ実力行使だった。久元は島津家与党である。島津貴久はただちに廻城奪回のため義久、忠将等とともに約三千の兵で大隈に進攻する。対する肝付兼続の兵はおよそ六千。六月下旬のことだった。


「敵は我等の二倍、三方は崖さあてどげんすっか」

 色々糸縅胴丸鎧を身にまとった貴久は、廻城を見上げながらため息をついた。

「兄上、こたびの戦おいに出陣をお許し下され」

 忠将が申し出ると貴久は、

「いやまだ早か、こん戦はたいへんな戦になるような気がしてならん。機が熟すまで待つこともまた必要。それにしてもここに忠平がおったならば……」

 貴久がふと漏らした愚痴に、忠将は敏感に反応した。

「おい達では役にたたぬと兄上はおおせか」

「そうはいうておらん。じゃっどんおいは今年四十七、おはんは四十五、もうそろそろ若いもんに島津家の行末をば託す時がきたような気がしてならん」

 

 この時代、人は五十年生きれば、そこそこ長寿といわれた時代である。貴久が将来の島津家に思いをはせるのも、当然といえば当然といえた。

「なにを申される兄上、おい達にはまだやらねばならぬこと多々ござりもす。かような弱気な言は聞きたくなか」

「叔父上おやめ下され、今はそげな話をする時じゃなか。どげんして戦に勝つかそいを議論する時でごわす。ゆっさ(戦)するはおい達若いもんに任せて、叔父上は我等敵を打ち破るを後方にてご観望あれ」

「いかに若君の言葉とはいえ聞き捨てなりもうはん!」

 忠将は激昂して立ち上がった。

「義久ひかえよ、それに忠将も、忠将よ父上がこう申したのを忘れたか、楽も苦も時過ぎぬれば跡もなし 世に残る名をただ思うべしと」

 ふと貴久は遠い目をした。忠将もまた思うところがあった。


 島津軍は貴久、義久が大塚山に本陣を構え、忠将は廻城の南方、馬立に陣を構えた。さらに竹原山にも遊軍を置く。廻城を孤立させ兵糧を絶つ作戦である。

 

 炎暑の中、両軍がにらみ合ったままこう着状態がおよそ二十日続いた。七月十二日ついに肝付兼続が動いた。竹原山に奇襲をかけたのである。竹原山に築かれつつあった島津方の陣城はもろくも崩壊し、島津兵は圧倒的な敵兵に次から次へと蹂躙された。竹原山を守っていた石谷忠成は討ち死に、新納又八郎は重傷を負い、町田忠次は敵兵の海の中決死の脱出を試みるも、馬立へと続く深い林の中で伏兵に遭遇し、身動きがとれなくなってしまった……。


「なんと父上が討ち死にしたと申すか、そげなことは信じられん」

 この時忠将は歩立にいた。かろうじて竹原山を脱出した島津方の武者が、忠林の死を報せると、忠林の息子で、忠将の家老町田忠林はがっくり肩を落とした。

「こいは一大事でごわす。ただちに竹原山に救援に赴かねばならん、皆おいに続け」

 忠将はすぐに馬上の人となった。

「恐れながらしばしお待ちを、今竹原山に向かったとて、一体なにになるでごわすか。我等の少なき手勢では無駄に死ぬだけでごわす」

 忠林はしぼり出すようにして、ようやく声を出した。

「そげんでも、ここでぬくぬくしているわけにはいかん」

 忠将はやや声を荒げた。

「死をば恐れてなにもできもうはん。例え忠将が死んだとて島津の家は滅びん。百年、二百年先まで語りつがれる戦こそ、おいの望むところ」

 

 果たして忠将にとり、この時が死出の旅路となった。供回りわずか七十人ほどの手勢で馬立の坂を登る途上、忠将もまた敵の伏兵に包囲されたのである。忠将を守る兵士達は次から次へと討ち取られていった。

「ははは、こいは面白か! こんおいの首取れるものならとってみよ」

 

 激闘すること半刻あまり、ついに最後の一人となった忠将は、敵の足軽に槍で馬のわき腹を突かれ地に伏した。だがすでに死を覚悟した忠将には、草の香りさえここちよく思えた。立ち上がると群がる敵の足軽二、三人を槍でたちどころに倒した。

「覚悟!」

 敵の武者の一人が背後から忠将の腹に槍をいれた。忠将は一瞬顔をゆがめ再び地に倒れた。

「死なぬ……こげなことでは島津の武士は死なぬ」

 ようやく立ち上がった忠将に、敵兵数名が一斉に槍を刺した。

「なんのまだまだ! おいはまだ死んではおらん!」

 すでに冑を失い血染めの総髪をした忠将は、なおも戦意を両のまなこに満々とたたえ立ち上がった。

「死んでない化物だ!」

 敵の足軽雑兵達は槍をかまえたが、忠将の気迫におされ二、三歩後ずさりした。

「兄上、若君さらばでござる!」

 島津忠将享年四十五歳の末路だった。戦場にやや静寂があった。


「なんと忠将が死んだ……」

「はっ、敵兵も驚嘆するほど、あっぱれなご最期であったとのことであります」

 大塚山の本陣で貴久は、忠将戦死の報にしばし自失の体をうかべた。

「己、馬引けい! 叔父上の弔い合戦じゃ!」

「おやめ下され兄上! 味方は大混乱にござりまする。これ以上戦を続けても我等に一分の利もござりもうはん」

 

 血気にはやる義久を歳久が必死にたしなめた。

「おいがあげな馬鹿なこというたばかりに……叔父上ほんのこてすまぬ」

 義久は地に膝を丸めてかすかに嗚咽した。

「いやおまんのせいではないぞ義久。楽も苦も時過ぎぬれば跡もなし 世に残る名をただ思うべし、忠将は死してほんのこつ薩摩の侍となったのじゃ」

 貴久は今一度忠将の魂のある馬立の方角へ目をやった。

 島津軍はその日のうちに撤退した。島津氏が肝付氏を完全に降伏させるのは十三年後になるのである。

 

 同じ頃、関門海峡を挟んで毛利、大友両家の関係は再び緊張の度合いを増していた。大友義鎮は豊前で賀来一族、筑前で秋月の残党の一斉蜂起に苦しみ、さらに毛利勢の急襲により豊前北端の要衝門司城を失うこととなった。豊前を失うことは同時に、大友家が明国、南蛮との重要な交易拠点を失うことでもあった。永禄四年、義鎮はついに門司城奪回を決意した。山陽・山陰に巨大な勢力圏を築きつつあった毛利元就との、全面戦争を覚悟したのだった。


「この度は生きるか死ぬかの戦じゃ、そして晴英の弔い合戦でもある。お前達はわしに力を貸してくれるな」

 大友屋敷の義鎮の前には、ポルトガルのキリスト教宣教師数名が座していた。大内家滅亡後、毛利元就はバテレン達への迫害を強め、結果多くの宣教師が豊後に移住していた。

「義長様ハ民ニオ優シイ方デゴザイマシタ。神デウスノ教エコトノホカ、喜コンデオリマシタ。元就ハ鬼ノ化身デアリ、デウスノ敵デアリマス。我ラ喜ンデ大友ノ殿ト共ニタタカイマス」

 

 関門海峡は幾度となく、日本史を大きく変える事件に遭遇してきた。源平合戦の時、江戸末期の長州藩と幕府軍との争い。そしてまたこの時も同様であったかもしれない。

 大友義鎮は約一万五千の兵を率いて出陣。門司城には毛利家家臣仁保隆康他、三千の毛利兵がいた。義鎮の来襲に備えて城内に緊張が走る中、永禄四年九月のある日の明け方、不意に城兵達の間に衝撃がおこった。

「見ろなんだあれは! 化物船だ!」

 

 西海を焦がす暁を浴び、関門海峡の潮の流れをもろともせず突如として出現したのは、ナウ型ポルトガル船(五〜六百トン乗員三百名片舷十七〜十八砲門)だった。門司城は艦砲射撃により城自体が激震し、城内は異常な恐慌状態となった。まさしく驚天動地の事態といってよい。これが毛利・大友両家による長期に及ぶ門司城攻防戦の幕開けとなったのである。





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