第20話 『愛』
声はいくら叫んでも聞こえない。
どこにも届かず散失する。
アヤトが別人になったかのような圧倒邸な力でイアンと戦闘していた時も彼女は叫んでいたが、なにも応答はなかった。
異変が起きている。
もうとっくにリンクの制限時間はむかえているはずなのだ。だというのにアヤトの体からエレナははじき出されない。
「駄目、ですか…」
戦闘が終わった。
いつものアヤトに戻ったようだが、やはり声は届かないままだ。リンクも解除できない。
「主導権がもう私にはない…」
今までリンク発動の主導権を握っていたのはエレナだ。しかし解除できないということは、主導権はアヤトに移っているということになる。
「……アヤト」
それは彼を呼ぶ声ではなく、彼の無事を願う祈りの声であった。
自分ではどうしようもできない状況のため、彼女は祈ったのだ。
しかし、
「…! アヤト!!」
アヤトは自我を失ってしまった。
自分という海に沈んだ。
「どうすれば……」
彼を救いたい。
そのためにはどうすればいいのか。彼女は必死に考えた。脳内にあるすべての情報を総動員して答えを出した。
「……内側に沈んだのなら接触できる…?」
導き出した答え。
今エレナはアヤトと一体化……つまりアヤトの体内にいる、そしてアヤトの意識は今は内側に沈んでいるのだ。今ならば干渉できる可能性はある。
「待っていてください。…アヤト」
*****
まるで海中にいるような感覚だ。
そしてこの海と思える空間は深い。とてつもなく深い。
底がない気すらしている。
「このまま沈んだら……どうなるんだろう」
力が入らない。
彼は今、ただ沈んでいっているだけだった。
特にもがこうという気持ちが湧いてくることもなく、ひたすらに身を預けたままである。
「死ぬの、かな」
いつものと同じようにこのまま身を任せていれば、死ぬのかもしれないと彼は考えた。
「………まぁ、いいか」
考えた結果、どうでもよくなった。
「どうせ何もできないんだから…」
無力で無価値で空っぽであることはもうわかっている。ならばここで自分が死んだところで問題ないはずだ。
「うん…。もう、なんでも…いい」
あとは身を任せるだけだ。
瞑目する。
思考も遮断する。
彼は、自分が消え去るのを待った。
だが――
「――アヤト!!」
名前を呼ばれた。
自分以外は誰もいないと思っていた空間で名を呼ばれた。
彼は目を開ける。
目を見開き、彼には本来ないはずの視覚に移ったのは雪のように白い髪の少女――エレナだった。
「エレナ…」
美しい。森以来見れていなかったが、あの時と変わらずに彼女は今まで見てきた何よりも美しかった。
「やっと、見つけました…!」
エレナもまたこの海に沈んできている。
アヤトを追うようにして沈んでいるのだ。
「なんで…?」
「連れ戻しに来たんです。ここから。さぁ、早く戻りましょう」
エレナは手を差し伸べてきた。
でもその手は…
「…その手は取れないよ」
「アヤト、そんなこと言っている場合ではないですよ! このまま沈んでいくのは明らかにまずいです!」
自分たちが沈んでいる先に何があるのかはわからない。先が暗いため見えないからだ。けれど行ってはいけないことはエレナにはすぐわかった。
もちろんアヤトもそれは理解している。わかった上で彼はエレナの手を拒んだ。
「うん、わかってるよ。だkらエレナだけここから逃げて。僕はこのままでいいから」
「だからふざけている場合じゃないんですよ! 早く上へ…」
「いいんだよ、生きる理由のない僕は。僕が死んでも誰にも迷惑は掛からないから」
意識がなくなる直前、黒騎士は生きる理由を探せなどと言っていたが、そんなものはアヤトにはなかった。
彼に生きる理由はない。この世界で死んでしまっても…
「ふざけないでください…!!」
エレナの怒号が鼓膜を揺らした。
「アナと約束したでしょう。エスメラルダちゃんにもペンダントを返すって言っていたでしょ。あなたは、そう言っていた! 生きる理由ならありますよ!」
「…………」
思い出した。
(…ああ、そうだ。アナとエスメラルダちゃんに契約したんだった…)
心に決めていた。
必ず無事に再開すると、必ずペンダントを返しに行くと。
存在意義を焼失していた彼がした約束だった。でも――
「――それもきっと偽りなんだ」
「え……?」
その約束すら、彼は否定する。
「僕はさ、空っぽなんだ。何もない。全部誰かの真似で、何かに頼って、縋りついて、生きている。人じゃない何かなんだ」
自信を持って言った。自分は人間ではないと。
「だから僕のことはここに置いて行って。僕は君に相応しい契約者じゃない。ルシウスさんの代わりにはなれない」
本来のエレナの契約者であった王国最強の騎士と言われるルシウスにはアヤトなど到底及ばない。あまりにも力不足だった。
「――アヤトは私を人間だと思いますか?」
「…? もちろん。少なくとも僕とは違うよ」
突然のことを聞いてきたエレナに少々困惑しつつ、アヤトは返答した。
「そうですか。でも私もアヤトと同じ欠落者。誰かの助けがないと生きていけません。誰かに頼って生きています。その私が人間なら、アヤトも人間であるはずです」
「――――」
「それに……受け売りではありますが、人間というのは一人では生きられない生き物です。アヤトは人間を過大評価し過ぎています。アヤトが言っていた誰かを真似て、誰かを頼って、何かに縋りつく生き物こそ人間なんですよ」
「ち、違う。僕は…」
全くもって違う。
「僕は、空っぽなんだ…。何もないんだよ!! 何もかも僕自身の意思で決めたことなんでない!! 何も返すことができない!」
家族からの愛は自分の意思に問わずただ与えられているだけ。アナのような友人だってエレナがいたからできたのだ。
「君との契約だってそうだ!」
そう、エレナとの契約も同じだ。あの森でヘルトと出会わなければ契約はしていなかった。なにせ彼は最初エレナをガルノに売ろうとしていたのだから。
「そうだ…。エレナを助けたのはヘルトさんみたいになりたかったからだ…」
ヘルトのような見知らぬ人間だって助けようとする善人。世界に必要とされるべき人間が死んでしまった。その代りになろうとした。それが彼が人を助けようとしている動機だ。それさえなければエレナを救っていない。
「ヘルトさんと会ってなかったら僕はエレナと契約なんてしてなかった! 人助けなんて絶対にしてなかった! 君のことは見捨ててた! 周りの人間なんてどうでもよかったんだ!!」
「――――」
「僕は、人を助けるなら自分が存在していい理由になるって思ったから人を助けただけなんだ!! ただ、ヘルトさんの真似をしてただけなんだ…!」
「――――」
結局自分には何もできない。
そう彼は主張した。
強く、今まで出したこともないほどの大声で言葉を放っていた。
「――アヤトは空っぽではないです。あなただけのものが絶対にあります」
「ないよ。あのイアンって人が言ってた通りなんだ。僕は虚無なんだよ」
「…違います。それは…違います」
「違くない。僕は――」
「なら! なら…、あの時の約束も…偽りだったんですか…? あれは本心からのものではなかったんですか…?」
「――やく…そく……」
気を失い、ベットで目を覚ました時の話だ。二人は約束をしていた。
アヤトが今消し去ろうとしている約束だ。
――ずっと一緒だ
あれは、アヤトが初めて自分からした約束だった。つまりあの約束はアヤトの――
「違う!! 僕は違うんだよ! どうしようもない存在なんだ…!!」
彼はそれでもなお逃げようとする。
逃げて、逃れて、沈もうとする。
「逃げないで、ください…!!」
「っ…!」
エレナは手を伸ばし、逃がさぬように彼の手を掴んだ。
「なんで、そんなに逃げようとするんですか…?」
「僕は必要ないんだよ! 元の世界でも、この世界でも変わらない。みんなに迷惑をかけてばかりで、自分では何もできないし、何も返すことができない! 僕は世界から必要とされてない!! だから…」
だから放っておいて。
そう言ったところで彼の頬に雫が落ちた。
誰のかなど考えるまでもない。エレナのものであった。
「……エレ…ナ」
泣いている。エレナが泣いていた。
「…私は忘れてません。だから言います。アヤトが私に言ってくれた、何よりもうれしかった言葉を」
一呼吸置き、満を持して彼女は言った。
「――私にはアヤトが必要です…。世界があなたを求めてるかなんてわかりません。だけど、私には…アヤトが必要なんです。私はあなたを必要としています」
「僕、を……」
エレナは握っている目一杯引いた。そして近づいてきたアヤトの唇に、自分の唇を重ねた。
「………」
数秒間の口づけをした後、エレナは彼から顔を離して、笑った。
「私はアヤトのことが大好きですから」
「――エレナ…」
頬を涙が伝う。
アヤトの瞳からも雫が溢れていた。
「安心してください。あなたに生きる理由はあります」
少女は生きる理由はあると言った。
「安心してください。アヤトは空っぽなんかじゃありません。ここに至るまでの全てはあなたの意思で選択してきたんです」
少女は空っぽではないと言った。
「安心してください。アヤトは存在しなくてもいい存在じゃありません。私がアヤトを必要としています。ロザリエやアナやレイ、エスメラルダちゃんだってそうです。みんなあなたを必要としているんです」
少女は彼が必要だと言った。
「それに…私はずっと一緒にいます。その命が潰えるまで、私はアヤトと共にいます。だから、安心してください。私の契約者はアヤトです」
「……あぁ…」
それなら…
「…なら、生きたい。この異世界で、エレナと一緒に生きたい」
枷が外されたかのように、心の底から湧いてきた言葉がアヤトの口から発せられていた。
「はい! 一緒に生きましょう!」
視界が光に包まれる。
その時に見えたエレナの美しい笑顔は、何よりも美しく、アヤトの脳裏に深くはっきりと焼き付いた。
「そうか…これが……」
最初に抱いたのはおそらく哀れみ…同情だった。だから敬語をやめるのにあまり躊躇いがなかった。
しかし、今は違う。
理解した。アヤトが彼女に抱いている感情は紛れもなく…
「これが、愛…なんだ……」




