第10話 『愛というもの』
エレナが寝入って一時間ほど経過したところで、アヤトは自分に抱きつく彼女を優しく体から剥がすとベッドから体を起こした。
「……アヤ…ト…」
ベッドから離れようとするアヤトに向けられた小さな寝言。
夢の中でも少女は彼の名前を呼んでいた。
「――――」
少女に毛布をかぶせ、自分の首にマフラーを巻くと彼は部屋から出る。
何か目的があったわけではない。
外に出たかった。それだけだ。
…いや、あの部屋から出たかった。それが正解だろうか。
ログハウスは二階建て。
外から見たよりも中は広く感じる。それも魔術に酔っての効果であるわけだが、アヤトには関係のないことだった。
アヤトは自室のあった二階から階段を下る。屋外に出てみようと考えたのだ。
一階へと降りた彼は廊下を歩き、入口へと向かう。
「………」
入口の前には、夕食を取ったリビングルームのような場所があるのだが、先ほどからそこに誰かがいる。ログハウス内はアヤトのアビリティ感知範囲内であるため、その人物と後一人だけは自室に一度も入っていないことはわかっている。
「――アヤト様、いかがなされましたか」
女性の声がアヤトの鼓膜を揺らす。
腰のあたりまで伸びた茶色の髪。
感情を読み取ることのできない瞳。
ゼノスの部下、メイドのヴァイオレットが椅子に座っていた。
「ちょっと外に出てみたいなって思ったんですけど……ヴァイオレットさんはまだ起きてたんですね」
「はい。私は寝る必要がないので」
無機質な声だ。
いまいちヴァイオレットという存在がどういう人間なのか、アヤトは理解できていないので、少々か困った」
「えーっと…、何をしてるんですか?」
「特には」
「――――」
「――――」
会話終了。
もともとアヤトはそれほど会話をする人間ではない。自分から人に話しかけるなどなかった。今のやり取りからヴァイオレットもそうであることは窺える。つまり会話をするうえでの二人の相性は最悪である。何一つ会話が広がらない。
と、アヤトが思っていたところでヴァイオレットが先ほどの言葉に一言付け加えた。
「――ゼノス様がお戻りになられるのをお待ちしています」
「ああ、なるほど」
どうやら会話が嫌いというわけではないらしい。ただ必要最低限のことしか喋らない。そんなところだろうか。
「やっぱり外にいるのはゼノスさんなんですね」
ゼノスの雰囲気は独特なため、感知範囲内にいるならば嫌でも感知できる。それはここ二日間でハッキリとした。…のだが、そのことを考えるたびにアヤトの中では彼と最初に出会った時に感知することができなかった謎が深まっていた。
「ゼノス様は夜空を眺めておられます。行ってみてはいかがですか?」
「邪魔になりませんか?」
もともと行くつもりではあったが、よくよく考えてみれば自分が外に出てはゼノスの邪魔になる気がした。
「ゼノス様はお気になさらないですよ。お優しいですから。…ええ、本当にお優しい方です」
後半のヴァイオレットの口調が明らかに違ったのでアヤトは気になったが、彼女についてまったく知らないアヤトがそれについて思考したところで何もわかるはずがなかった。
「――それじゃあ僕はゼノスさんのところに…」
「…待ってください」
ドアへ向かおうとしたところで呼び止められた。
「どうかしました?」
「――瞳を見せてくれませんか?」
「…? 別にいいですけど…」
よくわからない要求ではあったが、特に断るような理由もないので承諾した。
「では」
ヴァイオレットは立ち上がるとアヤトに歩み寄った。挑発が揺れ、花のような香りがアヤトの鼻孔をくすぐる。
彼女はアヤトに顔を近づけ、彼の何も映っていない黒目を真っ直ぐ捉えた。
「――――ありがとうございました」
数秒間見つめた後、お礼を言うとヴァイオレットは椅子に戻り再び座った。
「…今のは何だったんですか?」
「大したことではないです。アヤト様がゼノス様のご友人の方と似ていたため瞳を覗かせていただきました」
「ご友人…」
「はい。十数年前、マルコ様達と旅をされていた方です」
ゼノスの友人、店主ことマルコの旅仲間にアヤトは似ていたらしい。
それが顔なのか雰囲気なのかはわからない。
(そういえば店主さんとルーダスさんが前に言ってた気がする…)
似ている。そのように店内で言われた記憶があった。
「無駄なお時間を取らせて申し訳ありませんでした。どうぞ、ゼノス様のもとへ」
「――――」
彼女に言われた通り、アヤトはログハウスから出てゼノスの気配のする方へと歩いた。
*****
「まだ起きていたのか、アヤトくん」
夜空を見上げるゼノスは視線を向けずにアヤトに声をかけた。
「はい」
「ふむ。アナやエスメラルダには早寝早起きを徹底させているんだが、君の親はそうではなかったか? ……私はあの子たちの親代わりなのだがな、子育てというのがいまいちわからないんだよ。だから何か君の経験を聞かせてくれないか? いい勉強になるかもしれない」
「僕は普通の子供とは違いましたから、参考にはならないと思いますよ」
アヤトは盲目だ。
だから普通の子供とは育てられ方が違う。
目が見えない。
人間が本来使えるはずの機能が一つ停止しているだけで、育て方、生活の仕方は変わる。
彼の場合、正常な人間とは当然違った。
学校も、家での過ごし方も、家族との接し方も全てが普通とは異なっていた。
存在する世界は同じでも、周りと感じている世界が違うのだ。暮らしに差異が出てくるのは仕方ない。
「……なるほど。すまなかった。失念していたよ」
「いいえ。大丈夫です」
ああ、大丈夫だとも。
なぜなら盲目であるのが自分なのだと彼は理解している。
人のような上位の存在とは違う。
自分はもっと低俗な何かなのだとわかっている。
「――ゼノスさんはここで何をしてるんですか?」
「ん? なに、大したことじゃないさ。夜空を見ていた。それだけだよ」
彼は夜空を見ていたのだといった。
しかしそれはおかしな話ではないだろうか。
「白黒にしか見えないのにですか…?」
失礼だということは重々承知だ。
けれど聞かずにはいられなかった。
彼は、人が、物が、景色が、白と黒の二色にしか映らない全色盲なのだから。
「確かに色は白と黒だけだ。でも明暗と濃淡によって見え方は変わる。全てが同じに見えるわけではない……らしいのだが、正直なところ私には夜空が美しいとは思えない」
「――――」
「夜空だけではない。全てだ。目に映る物全てを美しいと思えない。明るさと濃さという差があっても結局は白黒にしか見えていないからな。いや、それとも元からその感情が欠落しているのかもしれない」
「ならなんでゼノスさんは空を見てるんですか…?」
美しく見えていない。だと言うのなら尚更彼の行動の意味が不明だ。
「――私にもよくわからない」
「え?」
あまりにも意外で、全くもって回答として成立していない答えだった。
「よくわからないのに……見てるんですか?」
続けて問う。
するとゼノスは夜空を見上げたまま語りだした。
「…500年も前の話になるが、この世界の夜空を美しいと言っていた人がいたんだ。もしかしたらその人の影響かもしれないな」
「500年も?」
「ああ。私は毎日夜空を眺めてるよ。飽きもせず。毎日」
「それって…」
無駄のことではないのか。アヤトはそう思った。
だが、劔の魔人は違った。
「…無駄ではないさ。無駄にしてはいけないのだ。これは」
悲壮感。
これが今のゼノスには的を射た言葉だろうか。
彼の姿は実に悲しげである。
「さて、私の話はどうでもいいとして。君はこんな夜更けに何をしに来たんだ?」
ゼノスは話を無理やり話を打ち切った。
話をしているのが辛いというわけではなく、アヤトに聞かせる必要がないと判断したためだろう。
「夜風を浴びに来たつもりだったんですが――ゼノスさん。相談に乗ってくれますか?」
「――――」
彼ならば。
自分と類似している彼ならば、何かいい回答をしてくれるのではないか。そう考えた。
「私でよければ」
「ありがとうございます」
間があったが結局は承諾してくれた。
アヤトは今まで誰にも明かしてこなかったことをゼノスに向けて口にする。
「僕は…愛がわからないんです」
「愛、か。また曖昧なものだな」
愛がわからない。
与えられてはいたのだ。
家族からたくさんの愛を貰っていた。
でもわからない。
だって彼は人を愛したことがないのだから。
自分のような出来損ないが、完全である人間様を愛するなどおこがましいにもほどがある。
「僕は盲目。一人じゃなにもできない人間の成りそこない。人を愛する資格なんてない」
人間である彼は、卑屈で、卑下して、謙遜する。まるで自分が人間ではないというように振る舞う。その彼の思考回路はあまりにも――
「なるほど。それで?」
相槌をしつつ、続きを促す。
「エレナが…僕のことを好きだと言ってくれたんです」
「嬉しかったか?」
「…はい。はっきりとはわからないですけど、多分嬉しかったんだと思います。僕と同じ欠落者のエレナが、僕のことを好きだと言ってくれたのが。でも…」
「彼女のことが好きかわからない」
「――はい」
「好きになっていいのかわからない」
「――――はい」
「愛していいのかわからない」
「――――――はい」
彼女ならば、自分にはわからなかった愛を教えてくれるかもしれない。そう思った。
けれどアヤトの感情というのは他の人間とは異なっている。欠落があるのだ。
「まあややこしい話ではあるが、君は前提として間違えている。愛について勘違いしている」
「……?」
「愛とは育むものだ。与える愛、求める愛、家族に向ける愛などがあるが、君とエレナ嬢の場合は違うだろう? 君たちのものは恋愛というものだ」
「………」
「わからないか?」
「……はい。僕にはゼノスさんの言っていることがよくわかりません」
彼の言う愛が、アヤトの脳内でうまく処理することができていない。
「恋をして愛が生まれるということだよ。君は深く考えすぎなんだ。愛なんて気が付けば心のうちに存在している」
ゼノスはアヤトの胸にトンと人差し指を置いた。
ここにそれは生まれるのだと示してみせた。
問いの答え。
いや、答えになっているのからなかった。結局彼の言葉を理解できていなかったからだ。
そんなアヤトを見ていたゼノスは笑った。
「君は意外と思ったことが表情に出やすいようだな。なに、急ぐ必要はない。君にはまだ相手がいて考えるだけの時間があるんだ。ゆっくり答えを見つけなさい」
答えなんて本当に存在するのだろうか。
アヤトは疑問だった。
自分と似たゼノスでも明確な答えを提示してくれなかったのだ。不安は増していく。
愛とは何か。
彼にはわからない。
「――アヤトくん。こちらから一つ頼みごとをしてもいいかな」
問答を終え、しばらくしてからゼノスがそんな話の入り方をした。
「僕にですか?」
自分単体に何か頼まれたところでどうしようもない。
だから断ろうともしたが、やめた。
ヘルトなら、世界に存在すべき彼のような善人なら、人の頼み事など断らないはずだと思ったからだ。
「君は何歳だ」
「16歳です」
何の脈略もない質問なきがしたが素直に答える。
転生した時の日付は12月17日。
彼の誕生日は2月9日であるためまだ16歳のはずだ。
「おぉ、ちょうどアナと同い年か」
「アナさんも16歳なんですか」
「私が彼女たちを拾ったのが12年前。その時の年齢が4歳だったからな。間違いなく君と同じだ」
ロザリエの例があるので、この世界は見た目で人の年齢を判断してはいけないと思っていたのだが、どうやらアナの場合は見た目通りだったらしい。
「…あの子は育った環境のせいで家族はいても同年代の友達がいないんだよ。それでなんだが、あの子の友達になってくれないだろうか」
「――――」
「もちろん君たちにあの子が危害を加えたのはわかっている。でも本当は優しい子なんだ。人間嫌いと言っているが、別に心底人間を嫌っているわけでもない。ただあまり接したことがないだけで、あれは私の部下…元部下が吹き込んだ言葉を信じての言動だ。…あの子は本当は血を浴びる必要のないただの女の子なんだよ。だからあの子と友人になってほしい」
頼み事というにはあまりにも大したことではなく、劔の魔人と恐れられる男が言うような言葉ではなかった。
それは父親。
一人の親としての頼み事。
娘に楽しく生きて欲しい願う親の姿そのものである。
「――わかりました。僕でよければ喜んで」
――こう答えるのが正解のはずだ。
「本当か!? 感謝するよ、アヤトくん!」
常に冷静な態度であった彼が喜んでいるのがよくわかる。
家族であるアナを大切に思っているのがよくわかる。
それがわかればわかるほどに――
「あ、でも僕も友達いたことないですよ?」
「む。そうなのか?」
「はい。いませんでした。今まで一度も」
盲学校、アヤトの通っていた学校である。彼と同じような子供は当然いた。しかし彼は校内で友人を作らなかった。作ろうとは思わなかった。
唯一、郊外で友人と呼べそうな人物がいたが結局友人にはならなかった。いや、なっていたのかもしれないがアヤトが友人ではないのだと思い込んで、決めつけていた。
だから彼には今の今まで友達がいたことがない。
「ならちょうどいいな。どちらも初めての友達だ」
ゼノスはご機嫌なようだった。
やはりとても国を一つ崩壊させた人物だとは思えない。
「……そろそろ戻ろう。眠ることは大事だ。睡眠時間を削るのは体に良くない。それに明日は働いてもらうかもしれなからな」
「そうですね」
二人はログハウスへと戻る。
ゼノスは先を歩き、アヤトはその後に続いた。
間を空けて、彼は後ろを歩いた。背を見て歩いた。
(この人も違う)
理解した。
同じではない。
勘違いだった。
――彼は愛を知っている。
自分とは違う。
同じだなんて一瞬でも思ったのが愚かだった。
彼は答えを返してくれたが、アヤトが心の底から求めていたものではなかった。
「どうかしたか?」
「――大丈夫です。少し眠いだけなので」
できるだけ柔らかな声で、自分を気に掛ける人に答えた。
心配してもらうなんておこがましい。
そうだろう。
だって彼は自分より上位の生命体なんだから。
なんだこの根暗




