第1話 『体の変化』
目の見える者がいつも頼っている視界を奪われるとどうなるのか。
答えは単純、恐怖する。
目の前に広がっていたはずの景色が暗い地下にいるかのように、光が存在しない黒一色に塗りつぶされるのだから無理もない。
人間は五感のうちの一つでも失えば平然と暮らしていた世界を恐れるのだ。
では逆に目の見えない者が頼ることのなかった視覚を与えられたらどうなるのか。
こちらは恐怖をするなんてことはない。
ただ世界を『美しい』と思う。それ以上でもそれ以下でもない。視界に映るものの美しさに感激するのだ。
故に、彼は美しいと思った。
初めて見たものを、視覚を得た時に初めて見た少女を。
*****
「――――ぁ」
遠のいていた意識が引き戻される。
「ここ……は…」
変わらずアヤトは腰を下ろした状態だった。しかし今度は椅子の上ではなく、土の上。
いる場所自体が変わっている。
先ほどのような無風ではなく、風は確かに吹いており、体の露出している部分に当たっている。木々の葉が揺れるような音、集中すると種類は不明だが動物の呼吸音も聞こえた。
さらには下から土の匂いもする。
「あれ…?」
おかしい。体の何かがおかしい。
彼は自分の体に起きている違和感に気付く。
「こんなに…」
風を感じる。音が聞こえる。匂いをかぎ取っている。
「――――」
違和感の確認のために地面を触った。
当たり前だがアヤトは土に触ったことがある。幼い頃のことではあるが、記憶は鮮明に残っている。
「感触が変わってる?」
以前に触った時と今触れている土の感触が違う。それは原因が土にあるのではなく、綾人自身の手…というよりも触覚にあるようだった。
さらに確認するために土を一握り。
「やっぱり変わってる」
やはり違う。土を手に包んだことでそれは確信に変わった。
「敏感になった…?」
人体の中で一番敏感な器官は舌だという。舌の先は1mm間隔での刺激すら認識する。
現在、アヤトの手は舌までとはいかないものの感覚が鋭くなっていた。それにより今握っている土がどのような形状なのか前よりも明確に把握できる。
「しかも手だけじゃなくて全身…」
感覚が変化したのは手だけじゃない。全身だ。
先ほど彼が風に当たった時に、どこをどのように流れていったのかまで正確に把握できたので疑いようがない。
首に巻かれたマフラーもいつもより暖かく感じる。触覚についてはほぼ確実だ。
「となるとやっぱり耳と鼻も」
触覚と同じで嗅覚と聴覚にも変化が起きていた。
嗅覚、鼻のすぐそこにあるわけでもないのに土の匂いと葉の匂いを嗅ぎとれた。
聴覚、いつもより多くの音を拾っている。動物の呼吸音が聞こえたのは、七メートルほど先。そんな先で生じた動物の呼吸音がアヤトに聞こえるなんておかしな話だ。
「――――?」
自分の体の変化について解析しているとまた新たな疑問が生まれた。
「なんで動物の場所がわかったんだ…」
小さな呼吸音が聞こえたことは置いておくとして、音を聞きとったら発生源がどの方向にあるかまでは体に変化が起こる前の状態でもわかった。だがアヤトは今、方向だけでなく、明確な距離やその動物の形まで把握していた。そんなことは以前出来なかった。
「元から優れているのを伸ばしたって言ってたけど、五感のことなのかな?」
自分の優れたところなんて思いつかなかった。強いていうのなら視力以外の五感。少年が伸ばしたといったのはこの五感のことではないかとアヤトは予想した。
「アビリティっていうのも気になるけど…今はそれよりもここがどこなのか知りたいな」
屋外であることは確実。
周囲からする木々の音や動物がいることから、森林だろうと考察した。
「実際に見たことはないけど」
得られる情報と頭に入れてある情報を組み合わせ推理していくしか、目の見えない彼には場所を知る方法がない。
非常に難しいことではあるが、現状それしかできることがないのだからやるしかない。
「森に人は…いるわけないか。こんなところに来る人なんて今時にいないだろうし。いや、田舎の方ならあり得るかも。――とりあえず人と会わないと」
ずっと座っていても仕方ないので移動する。アヤトはなんの不自由もなく普通に地面から立ち上がる。
「服がやっぱり変わってる。言ってた通りだ」
少年が言っていた通り、マフラー以外服が学生服から別の何かに変わっている。材質は違えど下がズボンというのは同じ、上も長袖だ。結局アヤトは自分の服を見ることができないので関係ない話ではあるが。
「――あ、そうだ。白杖…」
白状というのは歩行中の安全確保のために必要なものなのだが失念してしまっていた。
「いや…いらないか」
なぜかアヤトは周囲の地形を把握できている。動物の性格な位置がわかったのと同じ理由なのだろうと察しはついた。これも以前までできなかったからだ。
ひとまずそれのおかげで白杖がなくても歩くことについての危険はなさそうなので彼は歩き始めた。
「こういう場合ってどうすればいいんだろ」
当てがない。だからひたすら彼は歩く。
見えない木々にぶつかることも、地面の凹凸に躓くこともなく歩く。
数分歩いたところで少年の言っていた言葉を思い出した。
「別の世界…」
少年は言っていた。元の世界とは違う世界で生活を送ってもらうと。
「別の世界って何が違うんだろ」
文化は同じなのだろうか。それとも自分の住んでいた場所より劣っているのだろうか、逆に進んでいる可能性もあるかもしれない。
そう思考を巡らせながら彼は歩いた。
念のためにどこかで曲がるなんてことはしなかった。自分の位置がわからなくならないように、歩き始めた場所からひたすら一直線に移動している。
「……変わらずか」
どこまで歩いても四方八方を木々が囲む。周囲の様子に変化はない。
さらに数分歩いたところで足の動きを止めた。
疲れたからではない。彼にはそれほど体力は備わっていなかったはずだが、疲労はこの場所に来てから一切感じていない。どうせ考えてもわからないと思ったのでアヤトはそれについて特に気にしていない。
ではなぜ彼は立ち止まったのか。それは進行方向で音がしたから。散々聞いた葉の音でも動物の呼吸音や鳴き声でもない。会話をしている人の声と自然には発生することのない火の音だった。
「人がいるみたいで良かった…」
森で火の音がするということは焚き火でもしているのだろう。
音のする方へと木々を避けながら近づく。
人に会えたらひとまず安心だ。そう思いながら足を進める。
進んだ分だけ音は大きくなる。近づいている証拠だ。
あともう少し。茂みの先には五人いる。
「…便利だ」
欲を言えば視力を得たかったが、それは欲張りというものだ。
周囲の状況を把握できる能力を貰えているだけでありがたい。まるで目が見えているかのように歩くことができるのだから。これならだれにも頼ることなく一人だけでも歩くことができる。
一旦茂みの前で歩行をやめた。
この先にいるのは全く知らない人物。初対面の人物と話すことに加え、未知な場所のためアヤトは少なからず緊張していた。
それに五人中一人だけ、何かが違う。他の四人とは何かが違う気がする。
「――よし」
覚悟を決めて歩き始める。
*****
「誰だ?」
茂みの先には確かに人がいた。
その証拠に今男の声で話かけられた。言語はアヤトでも理解できるもののようだった。
「――…初めまして」
「――――」
沈黙が生まれてしまう。
覚悟は決めていたが、何を話すかは決めていなかった。
「えっと…」
視線はちゃんと五つ感じる。
見られているのは確かなのだが、反応がないので次はどうするかと考えていると五人のうちの一人が口を開いた。
「身なりは整っているが……騎士ではないな」
「ああ、ありえない。奴らに情報は漏れていないはずだ」
「じゃあなんだ。こいつも俺らと同じか?」
感知しているのは五人。会話をしているのは内三人の男だ。しかしその三人の中に「誰だ?」と問いかけてきた男の声はなかった。
「私たちをあなたたちと同じ括りにしないでくれる?」
今度は女性の声。挑発的な口調で三人に言葉を投げつける。
「なんだとテメェ!!」
三人のうちの一人が声を荒げる。殺意とまではいかないものの攻撃的なものではあった。
「落ち着け、ガラ」
「でもよ、あの女が」
「いいから黙ってろ」
声を荒げた人物――ガラをその隣にいた男が制止した。
「ガラ、ヘルトの言う通り少しは落ち着くことを覚えろ。何にでも噛みついていたらきりがない。少しは大人になるんだな」
「うるせえよ! お前はもっと攻撃的になりやがれ、ネイトス」
落ち着いた声の男がネイトス。ガラを止めたのがヘルトであるということは会話から把握できた。
「――アンタら賑やかなのは俺も嫌いじゃないんだけどよ。状況考えろよ」
声を発したのは五人の中で一番アヤトと離れた場所にいる人物。最初にアヤトに声をかけた男だ。そして他の四人とは何かが違う人物でもある。
「言っても無駄よ。私たちと違ってあの三人組は馬鹿だから」
最初に話しかけてきた男と女の二人。そして男三人の二つにこの五人は分かれているようだった。
「おま…」
「その男が言った通りだ。まずそいつが何者なのかはっきりさせよう」
ヘルトはガラと違い女性の挑発的な態度に対して反応はしない。いたって冷静だ。
「おい。さっきも聞いたがお前は…」
一番遠くにいる男が声を出したのでアヤトは顔をそちらに向けた。すると男が途中で口を閉じる。
目が見えていないからといって相手の方を向かないのはよくないと教えられてきたのでアヤトにとっては普通の動きだった。だから男が話を途中で放棄した理由がわからなかった。
ひとまず視線は変わらず向けられているようなので顔の向きはそのままにして、男が再度口を開かれるのを待っていた。
「お前…欠落者か?」
ようやく開いた男の口から放たれた声はつまらなさそうだった。
「欠落者…?」
言葉の意味がうまく呑み込めない。アヤトの知らない単語だ。
「欠落しているのは?」
「目だろうな」
「見えないということか?」
「そうらしい」
ヘルトと最奥にいる男の会話。
それを聞いた他の三人が全員アヤトの眼を見始めたようだった。視線がそこに集中しているのが感じられる。
「何で目が見えないってわかったんだ?」
「あ? それは単純にそいつの目の動きがおかしいからだよ」
「なるほど」
男の回答を聞き質問者であったネイトスは納得した様子だった。
「目が見えないってことはこいつ関係ないんじゃねえか?」
「たまたまここに迷い込んだだけのようだな」
先ほどから全く喋ることができずにいるアヤトは、関与ができないまま話は進んでいっていく。
「んじゃ、殺しちまうか?」
ガラが『殺す』と言い放った。
それはアヤトが聞いたことのある本気ではない『殺す』ではなく、真に命を奪うという意味を込めた『殺す』だった。
アヤトは反射的に危機を察知して一歩引いてしまう。額から汗が滲み出てきた。感触が敏感になっているせいで、雫がどこをどのようにしてどのくらいの速度で流れているのか正確にわかる。
「よせ」
ヘルトがガラの提案を却下した。
「なんでだよ。相変わらず甘い野郎だな。この森にいる奴なんてろくなのじゃねえぞ? しかも見てみろ、黒髪だ」
「教団がいる可能性があるんだ。奴らの中には死に敏感な輩もいると聞く。他に勢力がいることが気付かれるのは避けたい」
「――わかったよ…。ったく…そんなんだから帝国で金も地図もなくすんだろうが。…で、それならどうするんだ、こいつ」
「連れていく」
「なんだと?」
聞こえていなかったわけではないだろうがヘルトは男に聞き返した。
「連れていくって言った。どうせ護衛には王国の騎士がついてるんだ。ぞれなら人質がいた方が楽だろ」
さしてアヤトに興味がないのか男は相変わらずつまらなそうな声音で説明した。
「そんじゃアンタららそのガキ捕まえといてくれ」
「…テメェがやれよ」
「アンタたちの方が近いだろ」
「チッ」
舌打ちをしたガラはゆっくりと歩きながらアヤトに近づいてくる。靴が地面を踏みつける音が徐々に大きくなっていく。
「――――」
人間が恐怖に対面した際にとる行動はいくつかある。例としては、立ち向かう、うずくまる、そして逃げるだ。
「な、待ちやがれ!」
アヤトは振り返り走り出した。
まさか盲目の少年が走って逃げるとは思っていなかった。ガラもアヤト自身も。
森を駆ける。
無造作に生え育った無数の木。地上に出てきた根。視界を塞ぐように生えた枝。進路を妨害するように存在する茂み。それらを悉く躱し、彼は走った。
「クソがっ!」
ガラもアヤトを捕まえるためにあとを追って走る。
だがアヤトの背に手が届くことはない。
純粋な足の速さはガラの方が上だというのに手が届くことはない。
(…先までわかる)
視界も足場も悪いこの場所。
ガラがアヤトに追いつけないのは森の地形を把握できていないから。自然の植物が彼の邪魔をする。
対してアヤトはその第六感とも呼べる感知能力でどこになにがあるのかを把握できている。故に迷いがなく、ガラに追いつかれない。
(身体能力が上がってるのは本当みたいだ)
死ぬ前は走ったことがなかった。危険だからと親がさせてくれなかったのだ。
しかし今、彼は自由に走っている。マフラーを靡かせ、風のように、思う存分、自分の意思で走れている。
「これなら…!」
逃げれる。そう思った時だった。
「――――!」
唐突に目の前に現れた何かをアヤトは感知して立ち止まる。
「――欠落者のくせに面白いな、お前」
それはアヤトから一番離れていたはずの男の声。
彼は何の前触れもなくアヤトの正面に現れた。
「なんで…」
足音はしていなかった。
先ほどのように感知することもできなかった。
「俺の方が速かったってだけだ」
男はアヤトの腕を掴む。
その時、耳を澄まして呼吸を聞いた。不思議なことに乱れがない普通の呼吸だった。
本当に走って追ってきたのか疑うほどに彼は落ち着いている。
「あ! な、なんでテメェが先にいんだよ!」
「アンタが遅いからだ」
十秒もしないうちにガラの騒がしい声が聞こえてきた。
彼の相手をまともにせずに男はアヤトの腕を掴んだ状態で歩き出す。
振りほどいて逃げるかとも考えたが、全力で走って追いつかれたことを考えると無意味な行動に思えたので実行に移すことはなく、大人しく捕まったまま歩いた。
「お前、名前は?」
「……アヤトです」
「――アヤトか…。いい名前だ」
男の声色が退屈そうなものから、なにやら楽しそうに変化したのが窺えたが、アヤトにはその理由がわからなかった。
「あ、そうそう。俺の名前はガルノだ。よろしくな、アヤト」
男――ガルノは裏表なく純粋に笑っていた。