プロローグ 『世界の狭間』
その日は雪が降った。帰宅時だ。
目が見えない彼は母親に誘導してもらいホームで電車を待っていた。
母親が危険だと判断したため車は使えないので、仕方なく地下鉄を利用して帰宅することになったのだ。
この日の気温は一桁。地下であろうが寒いことには変わりない。身につけているマフラーを少し引っ張って顔を覆う面積を増やす。
数分待つともうすぐ電車が来るというアナウンスが流れた。
ガタンゴトンと聞きなれない電車が近づいて来る音が鼓膜を揺らす。
年に十回も電車に乗らないためにそれが新鮮に思えた。
帰宅方法は違うが、家に帰って一日を終える。
そこはいつも通りだと彼は思っていた。
自分にとっていつも通りの時間を過ごすのだと思っていた。
――だが、そうはならなかった。
ことが起きたのは電車がもうすぐそこまで近づいてきていた時。
彼はトンと何者かに背中を優しく押された。
その後、母親の声、電車の警笛を聞きながら、空中に浮かぶ感覚を味わい。とてつもなく強い衝撃を受け、意識をなくした。
盲目の彼には何が起こったのか知らない。全ては闇の中。
自分を押した人物が何かを言っていたような気がするが、細かい言葉は電車の音にかき消され聞こえなかった。別に聞こえていたとしても何か変わったわけではない。可能ならばその人物の言葉を耳に残しておきたかった。死に際、彼は思った。
*****
「右―は生ま――き、左目は……へぇ、―もし――な」
――どこだ。
彼にはわからない。何が起こっているのか、どこにいるのか、それも理解できない。
現時点でわかることは二つだけ。椅子に腰を掛けているということと、誰かが目の前にいること。
「これ――が目を―けるのも―ける」
子供の声が途切れ途切れではあるが聞こえている。
「――ここは…」
彼は声を絞り出した。いつものように喋ろうとしてもうまく口が動かずに、発せられたのはもうすぐ死を迎える人間のようなかすれた声。
「あら、お目覚めだね」
意識が覚醒する。
視力は変わらずであるが、他の体の機能は起動し始めた。
聴力は問題ない。しかし体は何故か動かなかった。
「ここはどこ…ですか」
声はまだ安定していないが、聞き取れないほどでもない。
「ここ? うーん…『世界の狭間』とかどうかな、かっこいいでしょ?」
正面の人物。
声を聞く限りでは幼い少年。邪気は一切感じられない。感じられるのは子供にふさわしい無邪気さだ。
「――僕はどうしてここに?」
聞きたい答えを得られなかったので、仕方なく質問を変えた。
「………」
子供は黙った。
目の見えない彼には子供がどんな顔をしているのかわからない。
「…覚えてないんだ」
「覚えてない…?」
声にはまだ子供っぽさがあるが、どこか彼の雰囲気が変わったようにも見えた。
「死んだんだよ。君は」
「――――」
理解不能だ。自分がすでに死んでいるなんてとても信じられない。
「ほら、思い出してごらん。君突き落とされたでしょ」
「――――ぁ」
感覚を思い出すまで数秒もかからなかった。
背中を押され、空中に放り出され、体を粉砕された。
「ああ…僕は、死んだのか…」
自分が死んだのだと理解して、泣くことも怒ることも発狂することもなく、彼はただ冷静だった。
それでよかったのだと命を落としたことに納得してしまった。
「へぇ、やっぱりおもしろい」
少年が楽しそうにしているのが声音でわかる。
何がそんなにおもしろいのかはわからない。けれど、他に聞きたいことがあるのでとりあえずそのことについては放置することにした。
「それにしても無事に目覚めてくれてよかった。偶然にじゃなくて故意的に特定の人物を体ごと引っ張ってくるとなるとなかなか苦労するんだよ? しかも頼まれたのも、君について教えられたのも急だったからほんと疲れたよ」
「――僕は死んだんですよね? なんでこんなところにいるんですか?」
子供の話は無視して聞きたいことを先に聞く。
自分が死んでいるというのは、おかしな話ではあるが自覚がある。だからこそこの状況はおかしい。死んでいるはずの自分がまるで生きているかのように椅子に座っているなんてわけがわからない。
「言ったでしょ、ここは世界の狭間だよ」
「天国ってことですか?」
人間は死後に天国もしくは地獄に行くのだと聞いたことがある。善人は天国へ、悪人は地獄へ、それぞれ分けられる。
別に善人だった記憶もないけれど、悪行を犯したような記憶もないので死んだ自分が行くのならば天国だろうと彼は勝手に思っていた。
「死後の世界ってやつ? 君の世界の考え方だね……まあ、その考えだと君の場合は天国じゃなくて地獄に行きそうなもんだけど」
「それはどういう――」
「ま、それはいいとして」
子供は元気な声で彼の言葉を遮った。
「君の思ってる通り、死後の世界って解釈で構わないよ。実際死んでるわけだし」
「はぁ…」
いまいち子供のテンションについていけずにため息の混じった声を出した。
「そんな顔しないでほしいなぁ。僕も久々に人間と話して舞い上がってるんだ。そこは許容してくれ」
「…あなたは何者なんですか?」
子供が言った「久々に人間と話す」というのがまるで彼が人間ではないように思わせる言葉だったため思い切って聞いてみた。
「そうだなぁ…。君の視点だと『神様のような存在』っていうのが一番しっくりくるんじゃないかな?」
「神様…ですか」
神の存在を疑ったことはない。しかしいざ目の前に神を名乗る人物が現れたとなると本当かどうか疑ってしまう。
「あくまで『のような存在』だけどね」
念を押すように『のような存在』を強調した。
「さて、軽く状況確認も終わったことだし、本題に移るよ?」
聞きたいことはまだある。が、子供の言う本題というものの方が気になったので何も口にせずに話を待った。
「まず簡潔に説明しよう。君は第二の人生を送ってもらうことになった」
「――――?」
この数分間のやり取りの中で一番理解できない言葉を投げつけられた。
「第二の人生…?」
「うん。この場合は転生に分類されるのかな。君にはその体のまま君が住んでいた場所とは違う世界で二回目の人生を送ってもらう」
子供は当然のように彼にとって非常識なことを口にする。
「おめでとう! 君は運がいいよ。蘇れるんだ」
パチパチと大げさな拍手の音が耳へと入り込んでくる。
「…………」
死から生へ。
無念を残して死んでいった者にとって、第二の生というのは何よりも求めるモノだろう。
「――僕はいいですよ。蘇らなくても」
死した人間が全員生還を望むわけではない。彼はそれの該当者。自分が蘇る必要はないと考えている。
「僕を生き返らせるぐらいなら、他の人を生き返らせた方が絶対に良い。僕なんて世界にいても意味がないから」
「悲観的だね」
「そうですか? 僕なんて生きていても何の役にも立てないんですよ」
この十七年間を振り返る。
視力の欠落している彼は誰かの役に立ったことなどなかった。
二度目の人生が送れても、体が同じならば意味はない。自分がいたところで世界には何のメリットもないからだ。それが彼の考えだった。
「それを心の底から本気で思ってるんだから君はすごいよ。そんな考え方をしてると人生がつまらなさそうだ」
子供の放った言葉が突き刺さる。
意図して言ったのかわからないが、少年の言う通り彼は人生において楽しみというものを見出せなかった。楽しむ余裕なんてものが存在しなかった。
「でも、君に拒否権はないよ。生き返らなければならないんだ。他の誰でもない君が」
子供の雰囲気は一変し、声のトーンも心なしか下がっていた。
「――何故ですか?」
生き返るのが自分ではならない理由なんてないはずだ。
「さぁ? 君が選ばれた理由は僕も知らない」
「は?」
間の抜けた声が彼の口から漏れ出る。あまりにも少年の回答が予想外だったためだ。
「知らないって…」
「知らないけど、君は行かなければならない。それが運命なんだ。君には使命がある」
「運命…、使命…?」
子供の言う運命とはただの押しつけに他ならない。本人の意思に関わらず進んでいくのだから理不尽の極みだ。
「ははは、だからそんな顔しないでって。僕も頼まれたことなんだ」
子供は彼を見て楽しそうに笑った。
「た、頼まれたって…誰に?」
「うーん…、『探究者』、かな?」
「何を言って――」
「もう時間だ。君には別世界に行ってもらう。流石に人間の魂をこの空間に留めるのは疲れる」
有無を言わさず子供は言葉を重ねる。
「ま、待ってください! 僕は目が見えないんですよ? どうすれば…」
子供は違う世界で生きていくのだと言った。それはつまり彼をサポートしてくれる人物がいない世界。彼が今まで生きてこれたのは親や妹たちの助力があったからだ。一人で、誰も知り合いのいない世界に放り出されても何もできない。
「――生まれつきから欠落している眼は直せないから、一応元から優れているものを伸ばしておいたのと、身体能力を君が行く世界での平均ぐらいまでは上げておいた。あと『アビリティ』も無理やり使えるようにしたよ。『禁忌』だけど緊急時だから仕方ないよね。服装は流石に学生服のままだと違和感あるからこっちで選んでおくよ。…あ、確かそのマフラーは大事なものらしいね。それだけはそのままにしておいてあげる」
無慈悲にことは進んでいく。彼の意思などもはや考慮されていない。
考えさせる余裕など与えず、言葉をただただ重ねる。
見えていないが子供が笑っているのが彼にはわかった。
「あっちでは元の世界のことは他言無用ね。向こうに住む人間として生きてもらう。別世界の存在を知らないものに、別世界の住人だと気付かれてはいけないんだ。ルールだからその辺はよろしく。破った場合どうなるかはご想像にお任せするよ」
「っ――――!」
頭痛が彼を襲った。
何かに引っ張られるように意識が遠のいていく。
「…そうだ。名前は聞いてなかった。最後に教えてくれる?」
「――綾人……早霧綾人です」
今にも消えてしまいそうな意識の中、彼は自分の名前を伝えた。
「それじゃあアヤトくん、さようなら。もう会うことはないだろう。完成したどうしようもない物語に迷い込む、君の無事を祈るよ」
瞬間、彼――サキリアヤトの意識は消えた。
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