虎と花
昔々あるところに、世界で一番美しい花を咲かせるといわれる大きな大きな樹がありました。
しかし、誰もその花を見たことはありません。
何故なら花は樹の一番てっぺん、鳥でさえ辿り着くのが難しい、遥か天上にあったからです。
そして、そこには世界で一番美しい、花の精霊が住んでおりました。
花の精霊は年に一度だけ、綺麗な水を汲みに地上におりてくるのですが、そのたびに森の動物達は、あまりの神々しさに話しかけることも出来ず、遠くからそーっと覗き見るばかりでした。
そんなある年のこと。
遠くの森から暴れん坊の白い大虎が、精霊の噂を聞きつけてこの森にやってきました。
「俺様はこの世で一番立派で、一番強い獣。
俺様こそ、世界で一番美しい妻を娶るのに相応しい。
美しい精霊も、この森も、これからは俺様のものだ!」
虎はそう言って、花の精霊が次におりてくるまでのほんの短い間に、すっかり森を支配してしまいました。
こわーい虎に睨まれて、いつしか森の動物達は、怯え震えて暮らすようになりました。
天上から眺めていた精霊は、酷く心を痛めました。
そしていつもよりずっと早く地上に降り立つと、虎にこう言います。
「あなた様の望みどおり、わたくしがあなたの妻になりましょう。
その代わり、どうか動物達をいじめるのはおやめください。
わたくしは平和で幸福なこの森のすべてを愛しているのです」
こうして精霊は虎の妻となりました。
世界で一番美しい妻を得て、虎は満足でした。
しかし。
その満足は長くは続きませんでした。
地上に降りてきた精霊のそばには、いつしか森の動物達が集まってくるようになったのです。
美しい精霊はこれまで森の動物達にとって触れてはいけない存在でしたが、今ではいつでも触れ合える優しい友達。
動物達は彼女を愛し、精霊は彼等すべてに平等に愛を注ぎました。
それを許せないのは大虎です。
「どうしておまえは、俺様以外を愛するのだ。
おまえの夫は俺様だろう」
精霊は悲しげに、こくりと一つ頷きました。
「あなた様がそう仰るのなら、
わたくしはあなた様以外を愛することをやめましょう」
その答えは虎をとても満足させました。
しかし。
それからどんどん、精霊は弱っていきました。
明るかった表情は日に日にやつれ、体は痩せ細り、神々しいばかりだった長い髪もぱさぱさと乱れていきました。
傲慢だった虎も流石に心配し、彼女に問いかけます。
「どうしてそんなに衰えてしまったのだ」
「足りないのでございます」
精霊は答えました。
「わたくしは花の精霊。わたくしが生きる為には、
たくさんの綺麗な養分が必要なのです」
「なるほど、解った。栄養だな。
俺は森の王様だぞ。栄養をたくさん取って来てやろう」
違うのです、という言葉を振り切って、虎は狩りに出かけました。
美味しそうな鹿や、まるまる太ったウサギをたくさんたくさん狩りました。
これで精霊も元気になるぞ。
虎は意気揚々と二人の巣に戻ります。
「さぁ、食え。栄養だぞ。ほら、こんなに」
「ああ、わたくしのために、あなた様はなんてことを……」
しかし、精霊は嘆き悲しみ、ぽたぽたと涙を零すと、さらに小さく小さくしおれていくのです。
「どうした。まだ栄養が足りないというのか」
「いいえ、いいえ、あなた様。もう十分でございます。
どうかこのまま、わたくしを静かに眠らせてくださいませ」
それっきり、精霊は目を瞑ると、消えてしまいそうな寝息だけを響かせて、深い深い眠りにつきました。
虎が揺すぶっても、軽く叩いてみても、起きる気配がありません。
一日、一週間、一か月。虎は待ちましたが、やっぱり精霊は起きません。
もう彼女が目覚めることは無いのかもしれない。
ふとそう気付いた時、虎は急に寂しくなってしまいました。
思えばこの森に来てから、虎のそばにはいつも精霊がいました。
彼女が優しく諭してくれたから、虎もいつの間にか森の動物達に溶け込んでいきました。
おかげで虎の周りもいつもにぎやかで、虎は怒鳴ったり吠えたりしながらも、実はとても楽しかったのです。
虎は初めて、自分が孤独だったことを知りました。
「どうしたことだ。
俺様は一体、おまえのためにどうしてやったらいいのだ」
虎はとても悩みます。
そこに一匹の野ネズミが通りかかって、言いました。
「まったく無知なぼくらの王様。
花の精霊には、綺麗な水がいるんだよ。
彼女の花に、綺麗な水を注がなくては」
「綺麗な水だって?」
「森の奥の泉の水さ。
世界で一番綺麗な水が、彼女の栄養になるんだよ」
虎は心を決めました。
彼女のために綺麗な水を、あの高い高い樹の上まで持って行くことにしたのです。
それを聞いて、森の動物達は虎を止めました。
幾ら木登りが得意な虎だって、鳥でも辿り着けない樹の上に、登れるわけがありません。
「あなた、落っこちて大怪我をしてしまいますよ」
「やめなさい、やめなさい。これが運命というものです」
それでも虎は諦めません。
リスが作った大きな葉っぱの水筒に、泉の水をたっぷり汲んで、早速、樹を登り始めます。
よいしょ、よいしょ。
地面が遠くなっていきます。
よっこらしょ、どっこいしょ。
森の動物達が、もう豆粒のようです。
「もうそろそろ降りましょうよ。
あなたは十分頑張ったでしょう」
そばを走っていた猿が言いました。
「いやいや、俺様は引き返さないぞ」
「この先にはとげとげした葉っぱがいっぱいあって、私達は登っていくことが出来ません。
王様、あなたもたくさん傷付いてしまいます」
「俺様は虎だぞ。葉っぱなんかに負けるものか」
猿は心配そうな顔をして、虎を見送りました。
虎は登って、登って、登りました。
どれくらい登ったことでしょう。
すると、猿が言ったようにとげとげの葉っぱが行く手を遮って、虎の体をぎざぎざと刺しました。
けれど虎は止まりません。
水筒を守りながら、必死に上を目指します。
それでもなかなかてっぺんは見えません。
「もう、良いじゃないですか。
あなたは十分頑張りましたよ」
そばを飛んでいた鳥が言いました。
「いや、まだだ。俺様はまだいける」
「私がお伴出来るのはここまでです。
この先には、強い風が吹くところがあって、私達鳥はその先にいくことが出来ません」
「俺様は虎だぞ。風なんかに負けるものか」
鳥も心配そうに、虎を見送りました。
虎は、さらに登って、登って、登ります。
すると、鳥の言ったように強い風が吹いて来ました。
冷たい風はぴゅーぴゅーと、虎の体力を奪って行き、水筒を吹き飛ばしてしまおうとします。
「だめだだめだ、これは絶対渡さないぞ」
虎は水筒を守って登り続けました。
風を抜け、雲を抜けて、カンカン照りのお日さまの下へ、虎は一心不乱に登っていきます。
「暑い……ここはなんて暑いんだ」
お日さまは容赦なく、冷えた虎の体を焼きました。
虎は水が欲しくて欲しくて堪らなくなりましたが、精霊のためにぐっと我慢をします。
虎がほんの一滴、舐めてしまったら、そのために精霊は元気が戻らないかもしれないのです。
虎はだんだん疲れてきました。
それでもてっぺんは見えません。
もう諦めてしまおうかな。
虎はちらりとそう思いました。
もう自分は大分頑張ったじゃないか。
ここまで頑張ったのだから、猿も鳥も認めてくれる。
森に戻れば自分は王様だ。
精霊のために、こんなに頑張る必要は無いんじゃないかな。
そう考えて、虎はやっぱりだめだ、と首を振りました。
いつの間にか、虎は精霊のことを深く深く愛してしまっていたのです。
精霊のいない森での生活は、もう考えることが出来ませんでした。
「おーい、精霊の花よ。おまえは一体、どこなんだ」
虎が大きく啼いたその時。
目の前に、輝く美しい花が現れました。
これが世界で一番美しい精霊の命、世界で一番美しい花です。
誰も見たことのない美しい花は、しかし今、枯れそうになっていました。
虎は慌てて花に駆け寄って、水筒を取り出しました。
「おまえのための綺麗な水だ。さぁ、元気を取り戻しておくれ」
虎は水筒を傾けます。
しかし、ああ、なんということでしょう。
水筒の中の綺麗な水は、一滴も残っていませんでした。
そう、お日さまの暑さに、すべて蒸発してしまったのです。
これでは精霊は元気を取り戻すことが出来ません。
虎は、自分が精霊を助けられないことを知りました。
「俺様はなんと無力なんだろう。
王様だなんだといばっていても、愛する精霊一人助けることが出来ない。
おまえがいないと、俺様は一人ぼっちだ。
愛しい人よ。
無知で無力な俺様に、空のような愛を注いでくれた人よ。
俺は永遠におまえを失ってしまうのか」
虎はしおれゆく花にキスをして、ほろり、涙を零します。
水晶のように透明な涙の粒が、ぽたりぽたりと、虎の毛むくじゃらの頬を伝って落ちました。
すると、その時、奇跡が起こりました。
虎の涙がはなびらに触れた瞬間、呼吸するように打ち震えた花は大きく枝葉を広げ、きらきらと輝きだしたのです。
驚く虎がぱちぱちと3回またたきすると、そこに愛しい精霊の姿が現れました。
彼女は、出会った時と同じ神々しい美しさで、虎を見詰めています。
「ありがとう、わたくしの王様。綺麗な水を届けてくださって」
虎はびっくりして首を振りました。
「何を言っているのだ、精霊よ。
泉の水はみんな蒸発してしまって、
俺様は一滴も届けることが出来なかったのだよ」
「いいえ、あなた様は届けてくださったのです。
穢れのないわたくしへの深い愛。
わたくしを潤おす綺麗な水を」
そう、精霊が必要としていたのはただの水ではありません。
愛情という泉から湧く水なのでした。
「わたくしはもう大丈夫。
あなた様が心から私を愛して下さったから、
もう力を失うことは無いでしょう。
さぁ、一緒に森へ帰りましょう」
精霊の力で森へ戻った虎を待っていたのは、森の動物達の大歓声でした。
怖くて威張りんぼうだと思っていた嫌われ者の王様は、実は花の精霊のために命を惜しまずあの樹を登り切った、愛情深く勇敢で立派な王様だったと、森の動物達は思ったのです。
それから虎は、みんなの期待に応えるように、強く優しい森の王様になっていきました。
虎はもう寂しくありません。
愛する花の精霊と森の仲間達に囲まれて、末永く幸せに暮らしたということです。