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CASE.3 歌手

「綿貫さんが青い服なんて、珍しいですね」


 単刀直入に話題を切りだせないのか、挨拶の後に前田は微笑んだ。


「そういう気分なのかもしれない」


 前田の服には緑が散りばめられていた。

『未熟』を指す緑だ。

 青は『憂鬱』。


 おまたせしました、と喫茶店の店員が私たちの前にコーヒーを置いた。私は今到着したばかりなので、前田が頼んだのだろう。


「ありがとう」


「いえいえ。俺の誘いですから」


 前田は普段コーヒーを飲まないが、今日は背伸びしているのか何なのか、この日は私と同じコーヒーを頼んでいた。


「苦いものは苦手じゃなかったのか」


「さすがにそろそろ慣れないとな、と思いまして」


 なるほど、と私はブラックのまま一口コーヒーを含んだ。相変わらずの豊潤な香りに、長く深い瞬きをしてしまう。

 前田はミルクだけを入れ、ガムシロップを名残惜しそうに眺めながらコーヒーを飲んだ。途端に眉間に皺が寄ったので、私は笑った。


「私のミルクもいるか?」


「いえ、結構です……」


 ボーカリストにとって糖分は禁物。それは、唇に付着した糖分がポップノイズの原因になるからだ。

 それはレコーディング中やライブ前の話ではあるのだが、ボーカリストの師である私の前では遠慮しているのだろう。


 そして、ようやく前田は渋々と本題を切りだした。


「歌詞が書けないんです」


 この男、前田一太郎はMyuzickという若手のバンドでボーカリストと作詞を務めている。「すごく、いい曲ができたんです。春が書いてくれて、メンバーとスタッフでアレンジして、『THE END』以来の傑作なんです。でも歌詞がどうしても出てこなくて……」


 春、とはMyuzickのギタリストで、作曲も担当している。彼はギターのラインはもちろん、ボーカルのメロディーラインを作るセンスも長けており、私はひそかに一目置いている。

 前田の作詞だって悪くない。いや、むしろいい。等身大でどこか身近なところがあるのに、どこか人の上に立つカリスマ性をも感じることができ、私は好きだ。


「なるほど」


「スランプってやつですかね……」


 Myuzickは業界内での評価は高いものの、まだ世間には多く出回っていなかった。デビュー曲の『THE END』は評価が高いものの、当時無名だったので業界内の話題にしかならず、売り上げはいまいちに終わった。しかし、今はライブを重ねて世間にも徐々に出かかっている。ヒットできる権利はもう手にしているのだ。あとはヒットできる良曲を作るだけ。それがここ一年ほどで出来なければ、虚しくフェードアウトしてしまうだろう。

 つまり、今が一番大事な時期なのだ。


「このタイミングでの不調は、絶望的だな」


「……はい」


 前田はうつろな表情でコーヒーに手を伸ばし、手を引っ込めた。苦味がフラッシュバックでもしたのかもしれない。


「そういうことは誰にでもあるだろうな」


「コンスタントにリリースされている綿貫さんも、やっぱりそういうことが?」


「若い頃はな。だが、最近は大丈夫だ。曲作りにおいては」


「歌唱について、ですか?」


「それもある。歳だからどうしても声が出しづらくはなっているが、それ以上に最近になって悩むことがあるんだ」


「悩むこと、ですか」

 それで青なんですね、と前田は零す。「その悩みって、なんですか?」


 いつの間にか立場が逆転してしまったな、と思いつつも、憂鬱だから仕方ない、とコーヒーを口に含み、言った。


「私の音楽が、人を殺してしまうことだってないとは限らない」


 喫茶店のジャズと店員の歩く音だけが残った。まるで私と前田の間から空気がすっぽりと抜けて、宇宙空間に出てしまったかのように。


 この店は私のお気に入りだ。コーヒーは美味いし、店員がとうに五十を超えたおばあさんで、下の世代である私なんてほとんど興味がないらしく、顔が世間に知れている私にとっても気が楽だからだ。その店員がメイド服を着ているのが玉に瑕だが、それが若い年代を気味悪がらせ避けさせているか、ここで落ち着きたい私にとってはむしろ好都合だと言える。


「……ということだ」


 私はもう一口コーヒーを飲む。昔は苦手だったブラックだが、今ではこの奥行きのある苦みこそが人生の醍醐味だとさえ思えるようになった。


「……ということ、というのは?」


 前田の手元のコーヒーを覗いてみると、やはり甘そうなミルク色はほとんど(かさ)が減っていない。私にとっては甘そうでも、前田にとってはまだ苦いのだろう。


「音楽には、計り知れない力がある。そのことは分かっているだろう?」


「はい」


「それが、人を殺してしまうとは限らないという意味だ」


 私はあえて適当すぎる説明をして更に前田を困惑させた。

 前田は久しくコーヒーに口を付けた。砂糖の入っていない苦みに、眉が曲がる。


 それでいい。


 先に結論を知り、それに疑問を持って前のめりになってくれた方が、人は成長できるというものだ。


「私は今まで、私が経験し、正しいと、この身に染みついて学んだことしか歌詞として書いたことがない。多少の妄想空想で広げたようなものもあるが、やはりほとんどは経験談だ。その経験に、嘘がないのは確信している」


「はい」


「或る時は『生きていて 心の奥から叫べる機会って あんまりないと思う だから それがあった時 あなたは ある意味 幸せなのかもしれない』と歌った。これは、ステージやスタジオで声を出している時はもちろん、仲間や恋人と喧嘩して叫んだ時にも気持ちがどこかすっきりしたという経験が多々あったからだ」


 はい、と前田は凛として頷いた。私の知らない所で、彼にもそのような経験があったのかもしれない。


「或る時は、『殴られるのはとても痛い だから 殴られないように頑張ろう 痛みを知っているあなたは とても強くなれる切符を持っている』と歌った。これだってそうだ。実際に私は親や教師から何度も殴られて育ってきた。当時は嫌で嫌で堪らなかったから、殴られて堪るか、と勉強を必死で頑張ったものだ。その結果、殴られることはなくなり、大人になった私はその親や教師に感謝さえしている。何故なら、あの人たちの拳には愛があり、それが私を育ててくれたからだ」


 前田は黙って小さく頷いた。こちらの経験はあまりないのかもしれない。世代的に暴力は一方的な悪だと教育されてきたのだろう。


「私はその経験に確かな自信を持ち、人生の教訓として歌っている。それが私の正義だ。実際にファンレターの中には『綿貫さんの歌に救われました』『綿貫さんの言葉にとても共感できました』という声だって少なくない。その声に、私の歌は決して間違ってはいない、と安心できたのだ。だが、今ではそれを見る度に不安さえも溢れてしまう」


 もう一度コーヒーに口を付けた。普段ならもう底が見えてもおかしくはないペースなのに、まだまだ黒は頑なに底を見させてくれない。どうやら私は臆病にちびちびと飲んでいたようだ。


「だが、それは万人に当て嵌まることなのだろうか」


「というのは?」


 その時、客が入ってきた。若いカップルのようだ。

 まさか彼らは歌手が二人、悩みを互いに話し合っているなんて思いもしていないことだろう。


「これはあくまで私の中の正義であって、他の人の中では正義ではないのかもしれない。いや、時に悪なのかもしれない」


 さっき来た客の女の方が、こちらに指を差したのが、視界の隅に映った。気付いてくれるのは嬉しいことだが、指を差されるのはお世辞にもいい気分とは言えない。


「心から叫べる機会が、絶望の瞬間である人だっているだろう。殴られた拳に愛が籠ってなくて、ただ単にトラウマと化してしまった人だっているだろう。故に、私は不安なのだ。この間隙が、人を絶望の淵に落として命を奪ってしまうことだって、いつかあるのかもしれない、と。いや、もしかすると私の知らない所で、既に起きている可能性だって十二分にある」


 この不安を人に話すのは初めてだった。全てを言いきった心地よさは、決して多くはないが、あった。だが、満たされない量だ。それを補うため、残りのコーヒーを一気に口内に流し込む。恍惚な香りが鼻に抜け、苦い僥倖が舌を潤すが、まだ今一つ満たされない。

 前田のカップには当然まだまだコーヒーが残っている。ミルク入りは久しく避けていたが、飲まないのなら分けて欲しい、なんて思ってしまう。

 そんな私の細かな心情なんて知らない――知る必要もない――前田は、頭をひとつふたつ掻いて、口を開いた。


「その感覚は、俺にはまだよく分かりません。ですが、綿貫さんの言葉で救われた人は数え切れないほどにたくさんいるのは分かります。俺だってそうですから」


 まだたいしてホットコーヒーを胃に流し込んだわけでもないだろうに、彼の顔は少し火照っていた。


「綿貫さんの言葉によって、『騙されたつもりで一歩踏み出そう』と思い立った人はたくさんいると思います。その一歩のチャレンジが成功した人もいるでしょうし、中にはそうでない人もいるでしょう。ですが、何もしなかったよりは、あるいは人を騙すよりは、綿貫さんに騙された方が、きっと、後悔は少ないと思います。みんな、綿貫さんに感謝していると思いますよ」


 若いな、と思う。だが、その未熟な緑が、私の体のどこかでひしひしと熱を帯び、活力に変換されているのは確かだった。

 今の私にはない若さ。それが今こそ必要なのかもしれない。


 弟子が、お前で良かったよ。

 心から、そう思う。


「……そうだな、私も、まだまだ止まるわけにはいかない」


「はい」


「お前だって、絶対に止まるなよ」


 前田が微かに目を背けた。その気でいるのは確かだが、現に止まってしまっている自分に罪の気が差してしまったのだろう。


「まだまだこれからだとはいえ、業界的にはタイムアップは迫って来ているだろう。このまま臆病にタイムアップしていくなんて、最低だと思わないか?」


「……はい」


 弱気な細い声だった。だが、そこに諦めの色がこれっぽっちもないのが、この男だ。


「だからな、無理やりにでも書け。言葉を作れ。いや、拾うんだ」


 今だって私は前田に気持ち救われたし、今までだって何度も精神的に助けてもらった。だから、私だってこいつを全力で助けてやろうと思える。


「拾う?」


「身近に喋ることのできる生物なんていくらでもいるだろう。そいつらの言葉を一言一句聞き逃すな。呑みこむつもりで、前のめりになれ。そして、盗め」


 スランプというのは、言ってしまえばただの言い訳だ。だから、それを原因に新たなものを探そうと森に入っても、迷って出られなくなるだけ。


「ネタなんてな、その辺にいくらでも転がっている」


 スランプを乗り切るのに必要なのは、既に分かっているであろう大切なことを、角度を変えて改めて眺め、理解すること。


「こじきになったつもりで、拾い続けろ」


 誰だって貞操なんて気にするのはある程度実力がついてからだ。実力を身につけるまでは、貞操なんて気にしてはいられないだろう。

 それを原点回帰させることが、今の前田には、最も大事なのだ。


「さっき、お前言ったな。人を騙すよりは、綿貫さんに騙された方が後悔は少ない、と」


 それこそ、前田が行くべき道を決して忘れてはいなかった証拠。だが、間違っていないことに、スランプの人間は気付けない。

 だから、誰かが気付かせてやらなければいけない。


「お前はどっちだ? プライドを守って私に騙されない道を選ぶか、なりふり構わず俺に騙されてみる道を選ぶか」


 私が、気付かせてやらなければならない。


「お前は、どっちだ?」


 すると、前田ははっと閃いたように瞳孔を開き、「お前はどっち……、どっち……」と呟き始めた。


 私は数滴しか残っていないコーヒーカップを口に運ぶ。笑う口元を隠すために。

 何故なら、私は知っているからだ。


「お前はどっち……キミは、どっち……」


 こう、ぶつぶつ言い始めるのが、前田が――Myuzickが――飛躍する前兆だと。


 遠くの席から私を物珍しげにチラチラと見ているあの二人は知らないだろう。

 私の前にいるこの若造が――お前らが見向きもしないこの男が――、私を遥かに凌駕する才能と可能性を持っていることを。


「綿貫さん、丁度その言葉があのメロディーに当て嵌まりそうです。……借りてもいいですか?」


「駄目だ」私は強く言い放つ。


 すると、前田は一瞬表情を困惑色に曇らせた。

 その表情が楽しくて、いつも悪びてしまうのが私の悪いところなのかもしれない。

 笑みを零してしまいそうな唇をぎゅっと結び、私は前田の目の奥の、更に奥へと光と声を放つ。


「盗め」


 すると、前田の表情が光を帯びて明るくなっていった。まるで、緑を照らして酸素を発生させる太陽のようだ。


「はい!」


 いい返事だ、と私は頷く。笑みを抑えることは、もうできない。

 前田の全身は興奮半ばに疼いているようだった。微かに震えている。


「……ああ、次々と、次々と頭の中に言葉が思い浮かんで、メロディーに嵌まってしまいます……わざわざ呼びつけて失礼だとは思いますが、もう、帰っていいですか?」


「ああ、行け。会計は私が済ませてやる」


「ありがとうございます」


 席を立ち、今にも走り出しそうになった前田だが、二歩目を踏み込む前に振り返って、笑った。


「よく見ると、その服の青は海の青みたいですね」


「つまらないこと言ってると、アイデア忘れるぞ」


「すみません。では、失礼します!」


 今度こそ前田は去っていった。

 そして私はまた、コーヒーカップを口に運ぶ。カップを傾けたところで中身がないことを思い出すが、そこに残る香りは極上で、豊潤なので、構わない。


 壁一面の窓の遠くに目を向けると、緑色が跳ねていた。

 その小さな緑はまるで、純粋に高みを目指す新芽のようだった。


ここまで読んでくださりありがとうございました。

皆さまがこれを目にするのはいつのことなのかは分かりませんが、これが、僕が2014年内に書く最後の小説になります。なので、年末のあいさつを。


今年はいい年でしたか?

僕はいい年でした。小説に集中する時間は去年と比べて少なくなってしまいましたが、それでも中條としての活動は楽しかったです。


2015年は、お互い充実した一年になるといいですね。




中にはずっと前から僕を知っていて、その上でこれを読んでくださっている方もいるでしょう。僕のことなんか知らないけど、この話をなんとなく読んでみた、という人も、おそらくいるでしょう。

その方たちに、再度感謝の意を述べさせてもらいます。

ありがとうございました。

これからもよろしくお願いします。




では、最後に告知を。


あらすじにも記載しているように。この話は「バスケットケース」という話のイントロダクションとなる短編集です。直接の繋がりは弱いですが、「Introduction of Basketcase」のエピソードは全て本編を支える土台となっています。本編の方も読んでみたい、と思ってくださった方はそれを念頭に読んでもらえると、これを読んでいない人とは少し違った視点からも楽しめるのではないかと思います。



そして、「バスケットケース」のあらすじを本邦初公開します。



あらすじ:


【罪って、何だろう?】



高校生の斉藤と木本は同級生の麻生を殺した。

麻生はその死の間際「覚悟はできているか?」と言い残し、斉藤は麻生について知っていく内にその言葉に蝕まれていく。そして同時に、罪の形が変わっていき……。


自己の犯した罪に追いやられていく斉藤。

完全犯罪を「いい武勇伝じゃねえか」と誇る木本。

誰との関係をも拒み、頑なに口を閉ざし続けた麻生。

罪名なき罪に後悔を拭いきれないでいる細木。



キミはどっち?





おまけに、あらすじ候補も曝しちゃいます。一昨日まではこっちで行こうと思っていたのですが、そろそろストレートなあらすじを書いた方がいいかなあ、と思ったので。(中條はここしばらくまともなあらすじを書いていませんでした)


読んでもらえれば分かると思いますが、「Introduction of Basketcase」のあらすじの形はこの候補から派生しています。




あらすじ候補:


怪物は語る――。「『いじめは正しい』ということを、俺たちは学校で古典から学んでいる」

怪物は語る――。「いつ誰が死の引き金を引くかなんて、分かったもんじゃねえからな」

怪物は語る――。「『優しい』と書いて『ださい』と読むんだよ」

怪物は語る――。「俺たちは、多数決の原理を中心に成り立っている民主主義国家を生きていることに誇りを持ち、少数意見の存在を認めた上で握り潰さなければならない」





1/4の夜よりスタート。この日はプロローグと第一話を投稿させていただきます。それ以降の更新は週一を予定していますが、詳しくはその時に正式発表します。




それでは。


2015年もよろしくお願いします。


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