CASE.1 主婦
幸せの基準って、何だろう。
私は昔からよく思っていた。最初にそれを考えたのはいつだったかな。よく分からないや。
ただひとつ分かるのは、今私はすごく幸せだということ。
緑生い茂る山の中、娘のさくらが楽しそうにてくてくと走っているのを見ると、頬が綻んでしまう。
「子供たちの笑顔ってどうしてあんなに輝いているんでしょうね」
私の隣で友永さんが微笑む。きっと今の私と同じような表情だ。
「穢れを知らないから、じゃないですかね」
私は今近所の裏山に来ていた。ここは子供の遊び場の定番で、娘のさくらとその友達の幼稚園児たち以外にもたくさんの子供が笑顔で遊び乱れている。ところどころ中学生くらいの子たちも見えるけど、平均年齢は小学校低学年くらいな気がする。
私と友永さんはいわゆるママ友。といっても友永さんは何人も子供がいて、まださくら一人しか生んでいない私にとっては先輩なんだけど。
さくらと彼女の娘さんのゆりちゃんが仲よく、いつの間にか私たちも気が合っていたのだ。今日の私たちは子供たちの引率だ。
「みんな幸せそうだね」
友永さんのしみじみとした言葉に私は「ええ」と頷く。そして、あの言葉を口にする。
「幸せの基準って、何なんですかね」
経験則的に「どうしたの?」なんて怪訝そうな顔をされると思ったけど、以外にも友永さんは即答した。
「心の奥から叫べること、じゃない?」
いつもは私の言葉を受け取った側が言葉を見失うのだけど、今回は逆に私が言葉を見失ってしまった。
「……なんですか、それ?」
「綿貫新次郎の歌詞よ」
あー、と私は納得して小刻みに頷く。
綿貫新次郎というのは友永さんが大好きなロックボーカリストだ。青春時代に彼を知り、それからファンであり続けているらしい。私はあまり綿貫新次郎に詳しくないのだけど、友永さんは二言目には「綿貫新次郎が」と接頭するものだからある程度の情報を知ってしまっている。
「なんていう歌ですか?」
正直なところ、あまり興味はない。でも、こう訊くと友永さんは喜ぶし、彼女の笑顔は見ていて気持ちいいから、いつもそう聞いてしまう。
「『Introduction』って歌よ」
生きていて 心の奥から叫べる機会って あんまりないと思う だから それがあった時 あなたは ある意味 幸せなのかもしれない
彼女は空に刷毛でスケッチするように、柔らかく、澄んだ声で発音した。
その後、フッと笑って半ば恥ずかしそうに歯を見せた。「いい歌詞でしょ?」
「ですね」
そういう幸せの基準もあるのね。
新規開拓のために手に取った知らない若手作家の小説に力強い才能を感じた時のような、親心にも似た不思議な感情が込み上げてきた。
そして、ここから見える景色もどこかいつも違って見えた気がした。まるで、いつもよく見る海の、日の出を初めて見たような。輝く太陽が水面をキラキラと照らしている神秘的な情景に、私の目も輝く。
そんな時だった。
――ァー
「今の、なに?」
遠くから、何かが聞こえた。
「子供の泣き声かしら」
友永さんが腰を持ち上げた瞬間、
――ァー
もう一度鳴った。
でも、二度目だからか友永さんの発言の後だからか、それがはっきりと『子供の泣き声』であることが分かった。
「もしかして、さくら……?」
嫌な予感に、胸が締め付けられる。
そして、もう一度、
――アァアアアアアアアア!
そして、止まった。
ドクッ、ドクッ、と心臓が重いうねりを上げる。ざわざわと暗がる子供たちの声に、太陽が隠れる。
木陰、茂み、いくらでも隠れる場所のあるこの森の中に、突如として殺人鬼が現れたような血の気さえもした。
「おかあさーん!」
そんな中茂みの向こうから現れたのは友永さんの娘のゆりちゃんだった。
「ゆり、どうしたの?」ゆりちゃんに視線を合わせてしゃがむ友永さんの目は安心と不安に揺らいでいた。
そして、ゆりちゃんの言葉に、私と友永さんの揺らぎが止まる。
「さくらちゃん見てない?」
× × × ×
「おかあさん、これ、たんじょうびプレゼント」
数週間前、私は誕生日を迎えた。この歳になって誕生日なんてさほど嬉しいものじゃないと思っていたけど、この瞬間、考え方が変わった。
「これ、なに?」
「おはな! きのう、うらやまで見つけたの!」
無垢に目を輝かせるさくらの手には白い菊の花があった。それを受け取ると、裏にピンセットが付けられているのが分かった。
「じつはね、これ、わたしとおかあさんでおそろいなの」
少しだけ照れながらさくらはポケットからもうひとつ同じ物を取り出した。そして、自分の胸に付ける。
「おそろい!」
にこにこと満面に笑うさくらを見て、私は思った。
幸せの基準を、私はずっとずっと、申し訳がないくらいに超えていると。
× × × ×
胸につけた菊のブローチがバラバラに散ってしまいそうになるほど、私は一心不乱に走った。
「さくら! 返事して!」
枝で休む小鳥がバサバサと羽を広げるほど、私は叫ぶ。
「返事しなさい!」
それでも、返事は聞こえない。
まだかくれんぼを続けているつもりなのだろうか。
そうであってほしい。
そうであって……。
今、子供たちや友永さんとあちらこちらに散ってさくらを探している。子供たちはさくら以外みんなかくれんぼを中断してさくら捜しを手伝ってくれているのだ。
もし見つけたら、大きな声で合図する。
この山は広いけど、そのほとんどが立ち入り禁止エリアで、ロープで仕切られているので実質あまり広くはない。当然そこを超えないという約束だった。
もしかして、と思うものの、さくらがかくれんぼでそんな卑怯な技を取るとは思えなかった。
「ハア、ハア……」
脇腹が痛み、息が切れる。足を止め、うつむいて息を整える。
随分山は駆け登ったから当然だろう。
次の一歩を踏み出そうとした時、視野の右端の奥に何か黄色いものが映った。
その一歩を力づくで止めると、全ての色が消えて時間が止まったような感覚がした。
鼓動が皮膚の裏を打ち、全身に響く。それがまたどこかに跳ね返って、撹乱する。
時間が再び歩み始めたのは、その黄色がロープだと気付いた時。立ち入り禁止エリアを示すロープだ。
ふう、と一安心したのも束の間、そのすぐふもとにピンクの何かが落ちているのが見えた。
そしてまた時間が止まったのは、それがポーチだと気付いた時――さくらが身に付けたポーチだと気付いた時。
「さく、ら……?」
実際どんな速度で歩いたのか分からない。もしかしたら走ったのかもしれないし、這いつくばったのかもしれない。気がつくと世界がモノクロになり、そのピンクだけが自分のすぐ足もとに、色を帯びて感じた。
そして、かくれんぼは終わった。
「さくら……?」
さっきの角度からは茂みで死角になっていたところに、ひとりの小さな女の子が倒れていた。それが誰かなんて、母親に分からないはずはない。
「さくら!」
すぐに私はさくらを抱きあげた。しかし、まるで眠っているみたいに動いてくれない。いや、さくらはいつも眠りが浅くて、お昼寝の時は私が息をひそめないといけないほどだったはずだ。
なのに、
「なんで、起きてくれないの?」
震えた手でさくらの胸に手を当てる。でも、何も反応がない。
これは、私の手が震えてるから……。そうだよね、絶対そうに決まってる。
その時、さくらのおなかに何か茶色い跡がこびりついているのが見えた。
最近のさくらは食べる時によく服にこぼしてしまう。でも、こんな土みたいな色の食べ物あるだろうか。
ない。これは正真正銘の土だ。
おなかのたった一点――数センチほど――だけに土がついている。こんなこと、転んだだけであり得るだろうか。
様々なことが頭を巡り、ごちゃまぜになる。
「さくら!」
何が何だか分からない。
「さくら!」
ただ分かるのは、私がとても大きな声で叫んでいるということ。
「さくら!」
喉が張り裂けそう。肺が破裂しそう。手がちぎれそう。脚が砕けてしまいそう。
「さくら!」
何度叫んだのかすらも分からない。自分が今どこにいるのかも分からない。目がぼやけて、もうその意味を成していない。
喉が張り裂けたかもしれない。肺が破裂したかもしれない。手がちぎれたかもしれない。脚が砕けたかもしれない。
何も、私は分からない。
内臓破裂。
そんな物騒な言葉をぶつけられることになるかもしれない、と考えている人はこの地球に一体何人いるだろう。少なくとも私は違う。
それからの私は気力を失っていた。気が付けば病院にいて、気が付けば娘の死を宣告されて。気が付けば全部からっぽだ。
さくらは殺された。子供とはいえ、転んだだけで内臓なんてそうそう破裂するものじゃないし、そもそも誰かに蹴られた跡があったのだから。
その犯人が捕まって重たい刑に処されたのだとしたら、少しは気を取り戻せたかもしれない。でも、そうはいかなかった。
犯人が分からなかったわけではない。
小学生だったのだ。
しかもその子供はさくらを殺そうとして殺したわけでもなく、十分に反省していて情状酌量の余地があるとみなされた。つまり少年院すら免れて無罪だ。
電気を付ける気力もなく、カーテンを閉め切った部屋で、私はぼーっと座っていた。テレビを見る気にもなれない。この前まで毎週欠かさず見ていたニュースもバラエティーも、全部アスファルトほどに退屈に思えて、見られなくなった。
チャイムが鳴った。
またか、と思う。
マスコミが訪れたのだ。
いつも通り無視しようと思ったその時。
ピリリリリ
携帯電話が鳴った。
画面には「友永さん」と書かれている。
すると、あの時の彼女の言葉がふと脳裏によぎった。
生きていて 心の奥から叫べる機会って あんまりないと思う だから それがあった時 あなたは ある意味 幸せなのかもしれない
叫んだら、幸せになれるの?
私はゆらゆらと玄関へと歩いていた。そして、久々にその扉を開ける。
パシャパシャ
軽々しいシャッター音が耳に障る。
パシャパシャ
眩しい光に一瞬目を細めてしまう。
「――さん! ――ですか!?」
「――さん!」
現れてみたはいいものの、次々と質問をぶつけてくる記者の声が上手く聞きとれず、取り憑かれたように立っているしかできなかった。
そんな時だった。
「――犯人の小学生に何か言いたいことはありますか?」
その声だけがはっきりと脳の奥まで届いた。
一瞬だけ意識を取り戻した気がした。でも、次の一瞬ではまた取り憑かれたようになってしまっていた。
ぼーっと立ち尽くす、という意味ではない。
発狂だ。
「法に裁けないなら! 私が! 私が殺してやる! 出てきなさい!」
喉が張り裂けそう。肺が破裂しそう。手がちぎれそう。脚が砕けてしまいそう。
久しぶりの感覚だった。でも、何かが違う。
「殺してやる!」
苦しめ。人殺しの名札をつけられて、一生いじめられろ。
いくら泣いても、いくら恨んでも、いくら叫んでも、ひとつも幸せなんて感じられなかった。