不自然な沈黙
10/3 深夜0時過ぎに、ほんの一部文章を変えました。
10/7 本文を一部改稿しました。内容に変更はありません。
「ハッ、お前っておかしな奴だな」
ニックは突然笑い出した。焦ったような、戸惑ったような、とにかく酷く混乱している笑い方だ。
「俺がお前の妹達に弱味を握られている? 何だよそれ、夢でも見てんじゃねえか?」
「だって、じゃあ変じゃない。あんたがわたし達一家と関わり合うなんて、おかしいじゃないの。だってずっと、避けていたんだから」
彼はこちらを見ながら、忌々しげに煙草を握り潰した。そしてそれを投げ捨てる。
「その件については、俺からも物申すことがあるぜ。避けていたのは、俺じゃない」
ニックは睨むような視線を向けると、わたしを指差した。
「お前だ」
「わ、わたし? 嘘よ」
何を急に言い出すのだろう。
「いいや、嘘なんかじゃない、いつもお前は俺を拒絶していた。だが、それがどうした? すんだことだろう。俺は気にしない」
そう言って、彼はわたしから視線を外していく。深く息を吐くと、今の会話からも興味をなくしたように歩き始める。
「待って」
「何だよ」
「わたしが、あんたを拒絶したって……」
「何だ、その話か。もういいだろ、どうでも」
「だって、納得出来ないわよ。どうして、わたしが……」
何故、わたしのことに話がすり替わってしまうのか。ニックは自分に都合よく過去を捉えようとしている。そうとしか思えなかった。だがそんなの、許せる筈がない。
だってわたしはずっと、傷付いてきた。この男から発せられる言葉の数々に。この男から向けられる冷たい視線に。深い深い意識の底には、今もあの日の苦しみがあるのだ。
「前にお前に言ったよな? 目に見えているものだけでなく、見えないものも読み取れと」
ニックは軽くため息を吐く。
「それと同じようなことだ。お前の側から見えることと、俺の側から見えること。相手の立場に立って見れば、それぞれ違った見方になるということだ」
「あら、そう」
無性に腹が立つ。偉そうに講釈をたれる男にどうしようもなく苛立った。
何を言っているのだろう。まるでこれが正論だとでも言うかのように、自分の言い分だけでわたしを蔑んだように見下ろしている。
あんたにわたしの気持ちが分かると言うの? わたしの立場に立って自分を振り返れると? わたしのことをあんなに痛め付けた、他でもないあんた自身が?
結構じゃない。
「随分、ご立派なお考えをお持ちですけど、じゃあ、あんたには分かると言うのね?」
ニックの肩が揺れた。
「あの頃のわたしが何を思い、あんたをどう見ていたか、全て分かると言うんだ?」
冷たく彼を見るわたしの視線を受け止めて、男はぼんやりとこちらを見つめ返してきた。
淡い空色の瞳は、何を映しているのだろう。生気を少しも感じさせない、ぼやけた色に見えた。
「ガキの頃のことは、悪かったと思ってる」
彼の頭が項垂れたように俯く。
「許して欲しいーー、なんて虫がよすぎるか?」
「えっ?」
驚いた。
こんな殊勝な態度を取るこの男を、今まで見たことがない。
「許して……欲しい?」
「ああ、やっぱ無理か?」
ニックが頭を傾け顔を見せた。その表情に息が止まりそうになる。
影を差したように暗い瞳と、緩く歪んだ口元。
寂しげに虚ろう視線を、逸らすことなくこちらに向け、僅かに微笑んで見せる。そんな人が変わったような顔をする男から、目を離すことが出来なかった。
な……に?
わたしは言葉をなくして、ニックを見つめていた。彼もわたしに応えるように、黙って見返してくる。
「もう! 何やってるの二人とも。遅いじゃないの!」
突然足元から、怒りをはらんだ大声が上がった。
我に返るように視線を外したわたし達は、そこにいるリリィちゃんに気付く。何てこと、彼女を忘れていたのだ。
小さな少女は、荒い息を吐いて震えていた。額や首筋には玉のような汗を掻いており、美しい金髪は乱れている。きっと、いつの間にか独りになっていることに気が付き、慌てて戻って来たのだろう。途中で転んだのか膝に擦り傷が出来ていた。
「リリィちゃん、ごめんなさい!」
わたしが謝ると、青い瞳から涙がこぼれ落ちた。
「悪い、リリィ」
ニックが娘を優しく抱き締める。
「悪かったな、恐かっただろう?」
「恐かったに決まってるじゃない! ……待っても待っても誰も来ないんだもん! リリィを置いて、どっか行っちゃったかと思ったよお!」
泣きじゃくる少女の背を彼は柔らかく撫で、悪かったと何度も口にしていた。自分達の言い争いに気を取られ幼い少女を忘れていたなんて、わたし達は大馬鹿者だ。
おとなしく泣いていたリリィちゃんも暫くすると気がすんだのか、父親の腕を逃れ歩き始める。彼女は振り返ると前方を指差した。
「ねえ、この先に湖が見えたの。リリィ、あそこに行ってみたい!」
その顔には涙のあとが残っているのに、本人は泣いたことなど忘れてしまったように笑顔を見せていた。
子供ってすごいなあ。ちょっと前のことまで忘れてしまうんだ。
わたしはリリィちゃんから見捨てられ、呆然としたように座っているニックの背中に目を向けた。
少し前の、せつなげな眼差しが目の前にちらつく。どうしよう、わたしは忘れられそうもない。
「そうだな、そこに行って傷を洗おう」
彼が立ち上がって、行くぞとでも言うように首を振った。休戦の合図ということらしい。
「そうね、行きましょう」
わたしも頷いて歩き出した。
***
「ねえ、お姉ちゃーん、見て見てー!」
湖のほとりで、リリィちゃんがわたしに手を振る。その手をすぐさま水につけ、「冷たーい」とはしゃぎながら高らかに笑う。
少女の嬉しそうな笑い声に、わたしもつられて笑い返した。
わたし達はリリィちゃんに連れられて、彼女が言っていた湖にやって来た。そこは子供の頃から、何度も泳ぎにきた懐かしい場所だ。
すぐにニックが水で濡らしたナプキンで、娘の膝の上を軽く拭く。取り敢えずの応急措置を済ませると、湖の側で食事を取った。
食事が済むと、早速湖へと走り出すリリィちゃんとニック。わたしはこの場に残り、二人の姿を見守ることにした。
心地よい風と楽しげな歓声。小さな娘と一緒になって、水をかけ合う恋人同士のような父親。
ニックからはもう暗い陰りはなかった。その無邪気にさえ見える笑顔を盗み見る。
いったいアレは何だったのだろう? 見つめ合うようになってしまった、アレは……何だったのだろうか。
大きく笑う二人の声が響いてきた。リリィちゃんのかけた水で、ニックは濡れ鼠になってしまったようだ。頭を回して水滴を振り巻きながら、嬉しそうに娘を追いかけている。
「馬鹿……」
わたしがこんなに悩んでいるのに、あんたは何でそんなにのんきなの? 何を考えているのよ、さっぱり分からないわ!
親子の姿に小さな痛みを感じて目を閉じた。
二人の仲睦まじい姿が何だか辛いだなんて、それはやっぱり、わたしだけがこの中で異質の存在だからなのか?
わたしも両親が亡くなる前、そう今のリリィちゃんより少し大きい頃、この湖に家族でやって来たことがある。
あの頃ディジーはまだ赤ちゃんで、ヘレンは生まれていなかった。動けない母さんの代わりに、父さんと二人今のニック達のように遊んだ筈だ。
そしてその場には、ニック達のバーナー家も一緒にいたのだ。
「お姉ちゃん!」
ハッとして顔を上げると、すぐ側にリリィちゃんが立っていた。
「ど、どうしたの?」
考え事をしていたためかうまく表情が作れない。リリィちゃんは不思議そうにわたしを見ていた。
「ねえ、遊ばないの?」
わたしはチラリと水辺に視線を投げかけた。ニックがぼんやりと、こちらを向いて立っているのが見える。あの側に、今は行きづらい。
「う……ん。お姉ちゃんは食べすぎでお腹が苦しいから、今は無理ね」
「何でぇー、一緒に遊ぼうよう!」
リリィちゃんが、わたしの腕を無理やり引っ張っていく。
「あ、あの、リリィちゃん……?」
「リリィ!」
湖からきつい大声がかかり、彼女は腕を止めた。
「お姉ちゃんに無理言うんじゃない、パパと遊ぼう。こっちにおいで」
だがリリィちゃんは、いつまでもわたしを見ていて動こうとしなかった。
「サムお姉ちゃん、どうしても駄目?」
「リリィ!」
「もう! パパは黙っていて! 今は、サムお姉ちゃんと話をしているの。ねえ、お姉ちゃん?」
彼女の寂しそうな目を見ると辛くなってしまう。だけど……。
わたしが少女にごめんと声をかけようとした時、目の前に逞しい腕が現れ視界を遮った。
「リリィ……」
いつの間にか側に来ていたニックが、いきなり娘を抱き上げ木立の方へ連れて行く。
「もうパパ、止めて! お姉ちゃんと遊びたいの」
抗議の声を上げて暴れる娘に、ニックはウインクを返した。
「そんなこと言っていいのか? いい所へ案内してやろうと思ったのにな。パパのとっておきの場所なんだが」
「えっ、本当?」
リリィちゃんの顔に再び笑顔が戻ってくる。
「行く行く、行きたい!」
とっておきの場所ーーって、まさか……?
「お前も、来るか?」
歩きかけた背中が、挑むように聞いてきた。
「こんな所に一人残っても、つまらないだろう? 一緒に来いよ」
ニックが誘う場所には心当たりがあった。
そこにはいい思い出なんてない。それも全部この男のせいなのである。
それなのに、何故わたしが、あんたと一緒に嫌な思い出の場所に行かなきゃならないの?
「……行くわ」
だがわたしは気持ちとは裏腹に、何故かこの時行くと答えてしまっていた。