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妹の贈り物

 

 低い声が小さく囁き返す、何度でも。

 

『ええ、とてもーー』

 

 その声が包み込むように、どこまでもまとわり付いてくる。

 

 

 わたしは自分の異常を実感していた。本格的に病気になったかもしれない。

 昨日ジェイコブさんの問いに返したあいつの言葉が、あれからずっと頭の中にある。

 離れていこうとしない、忌々しい言葉。何度も何度も蘇ってきては、昨夜の安眠を邪魔していったのだから。

 いったいどうしたと言うのだろう。あれは、あの言葉は、あいつが気まぐれに漏らした単なる呟きじゃあないの。

 なのに、わたしときたら……、それが意外なものだったからしつこく反応してしまうのか?

 経験のない天敵の言動に対処出来ず、脳が壊れてしまったのか? 分からない。

 

 窓を開けて朝の新鮮な空気に触れてみた。ひんやりとした、少し湿ったような風が肌を撫でていく。それがとても心地よい。

 眠れぬ夜のお陰で、今朝はとても早起きだ。寝坊助のわたしにしては珍しく、ニック親子の姿が現れる前に起きることが出来た。まあ、寝てないとも言うけれど……。

 ふうっとベッドの上で一息をついてみる。早起きしても動き出す気にはなれない。人の気配がない静寂な空間に、このままいつまでも身を委ねたくなる。

 いつも目覚めと共に騒々しく聞こえてくる声がなく、家の中はとても静かだった。

 

 考えたところでどうしようもないことは、そろそろ頭の中から追い出さなくてはいけないだろう……。

 

 

 

 

「姉さん、サム姉さん、いる?」

 

 暫くすると誰かが大きな足音を立てながら、家の中へと入って来る音が聞こえてきた。

 もう、何事? わたしの静かな朝は、どうやら終わりを迎えたらしい。

「ちょっと、ディジーでしょう? 何よ、朝っぱらから」

 怒鳴り込む勢いでやって来たのは、上の妹のディジーだった。

 妹は、寝起きの状態で座っているわたしに、怒ったように目を剥いた。

「やだわ、姉さん。何て格好してるのよ。もう朝よ? お隣の二人がやって来るでしょう」

 ディジーは大きな声を上げながら、持参したバスケットを居間へと運んで行く。

「いつもはもっと早いわよ。と、あんた何持って来たのよ?」

 わたしは慌てて着替えを済ますと、ディジーを追いかけて居間へと入った。

 ダイニングテーブルの上に、大きな見慣れないバスケットが置いてある……これ、何?

「わたし、今朝は早起きしたのよ。ランを起こさないように、大変だったんだから。渾身の作なんだから感謝してよね。で、あと果物がもう少しあれば完璧なんだけど。姉さん、ある?」

「はあ? ちょっと、早朝から何の騒ぎよ。果物? 何に使うのよ、そんなもの?」

 我が妹ながら、何を言っているのか分かりゃあしない。ちょっとは説明しなさいって!

 ディジーは戸棚を開けながらブツブツと何やら探していたが、不意に気づいたように振り向いて真っ青になった。

「ちょっと姉さん、その格好なあに?」

「え? 普段着だけど、いつも着るーー」

「冗談でしょう? 止めなさいよ、そんな地味な服!」

「え? 何よ、いきなり」

 急に恐い顔で人の服装をけなしたかと思うと、ディジーは戸惑うわたしを寝室へと引っ張って行く。

「ちょ、ちょっと、どうしたのよ?」

 そのあまりの血相に怯むわたしを無視して、「これがいいわ。これに着替えて」と妹が渡してきたのは、昨日マチルダさんから頂いた、あのフリフリキラキラの黄色のドレスだったのだ。

 

 

 

「うわあ、お姉ちゃん、可愛い!」

 リリィちゃんがため息のような吐息をほうっと漏らすと、大げさなほどの大賛辞をわたしに送ってくる。

 その純粋な目が痛い。だって、どっからどう見たってあんたの方が可愛いのよ。可愛いなんて言われると、正直悲しくなってしまう。

「でしょう? ディジーお姉ちゃんの力作よ。頑張ってサムお姉ちゃんのひねくれ毛を巻いて結い上げたんだから」

 ディジーはフフンと鼻息も荒く力説していた。そうなのだ、隣の息子親子が現れる前に、わたしはディジーに無理やりドレスを着替えさせられ、その上化粧と髪結いまで施されていたのである。

 いつもは化粧っ気のないわたしが、頬紅を叩いたり口紅を塗りたくったりしているのだ。妹の素早くも丁寧な仕事によって、まあまあ見れる顔にはなっていた……と言うか、とんでもない事態になっている。

 何せ、そばかすはほとんど目立たなくなっており、それどころか色白にさえ見える肌に、赤い口紅が妙にこっ恥ずかしい。いや、こっ恥ずかしいじゃなくてイヤらしい。はっきり言ってイヤらしいのだ。

 髪の毛も赤茶けていて普段はボサボサヘアなのに、緩く編んで上げた巻き髪が何とも言えない妖しい雰囲気を出している。うなじにかかるフワフワと風になびく解れ毛が、我が事ながらゾクゾクするほど色っぽいのだ。

 何、これ? どこの場末よ、全く。濃いわ、濃すぎるのよ何もかも。わたしじゃないみたい……、恥ずかしすぎて死にそうなんですけど。

「ふふ、最近巷で流行っている高級娼婦風を真似て盛ってみたの。自分ではとても出来ないけど、他人でなら試せるものね。全部イメージ通りよ。姉さんて化粧映えするのねえ」

 ディジーが満足げに言うと、リリィちゃんがきょとんとした目で不思議そうに聞いてきた。

「こう……きゅう、しょおふってなあに?」

「な、何でもないわよ、リリィちゃん。それよりパパはどこ? 何故、一緒じゃないの」

「パパ? パパならお店だよ、多分」

「そっか、ねえ、パパ呼んで来てくれる? お姉ちゃんの支度出来たって」

 は? 何ですって?

「う、うん」

 ディジーはにこやかにリリィちゃんを追い出した。それから口笛を吹きながら、化粧道具の片付けを始め出す。

 わたしはそんな妹の前に立ちはだかって、力一杯喚き散らした。

「ま、待ってよねえ、支度って何? ニックを呼んでこいとは何なのよ。あんたいったい何考えてるの。冗談じゃないわよ、わたし着替える。こんな場末の女みたいな顔で、何で他人に会わなきゃならないのよ」

 わたしは焦っていた。この姿で、あの男の前など出れる訳がない。

「サム姉さん、このお化粧は場末の女じゃないの。妖艶さと上品さのギリギリの色気を追及した、流行の化粧法なんだから!」

「何よ、じゃあ、あんたがすればいいでしょう? とにかくわたしはいやだからーー」

 ニックが来る前に落とさなければ。急いで寝室を出ようとして、廊下を歩いて来る人影にぶつかりそうになる。


 

「お姉ちゃん!」

「きゃっ」

 

「お、おいっ!」

 

 ぶつかりそうになったのは、リリィちゃんに手を引かれ、こちらへ向かって来ていたニックだった。

 

 

 

  ***

 

 

 

『うわっ、誰かと思っただろ。何だお前その顔は、どうしたんだ? はっきり言うけど似合ってねえぞ、止めとけ止めとけ』

 

 これが、わたしを見たある男の感想である。

 

 妹のディジーが大満足して作り上げた、妖艶と上品との境界線に位置する、巷で大流行の高級娼婦風化粧を見た、隣の男の何と第一声だ。

 そしてその力作は男に出会ったあと、ものの見事に壊してやった。あとに残ったのは、いつもの化粧っ気のないわたしの顔だ。まあ、ドレスだけは、どうしても着て欲しいとリリィちゃんに頼まれ、実はいまだに着ているのだが。

 それにしても全く、何てデリカシーのない人間なのだろうか、こいつは?

 いや、別にね、わたしはディジーの肩を持つ訳じゃないのよ? 現に本音を言えば、わたしもニックの奴と同じ意見だもの。まさに『何だ、その顔は?』よ、自分の顔だけど。

 ーーだけどねえ、もうちょっと言い方ってあると思うの。「綺麗だけど、もっと抑えた色の方が君には似合うと思う」とか、「そんなに白くしなくても、いつもの肌の方が健康的でいいと思うよ」とか、何かあるでしょう、相手を傷つけない言葉というものが?

 それが、何?

 人の顔を見て奇声を発したあと、爆笑ってそれ何なのよ? それって大人の男のとる態度? 信じられないわ、今どき鼻水垂らした少年でもしないわよ。そんな失礼なこと。

 本当、一々神経を逆撫でする男よね、アンタは。

 

「おい」

「何よ?」

「お前な、考えてることが駄々漏れなんだよ。気をつけろ!」

「あら、そう。分かってもらった方が、こちらも助かるからよかったわ。駄々漏れで」

「あのな……」

 

 ニックは苦虫を噛み潰したように、顔をしかめてわたしを見下ろした。そんな奴を無視して、駆け足で追い越していく。

 わたしとニック、それからリリィちゃんの三人は、のどかな田園風景の中をそれぞれ思い思いに観賞しながら、のんびりと歩いていた。つまるところわたし達は、突然朝から奇襲をかけてきた妹のディジーによって、強制的に休暇を取らされてしまったというわけだ。

 町を少し歩けばなだらかな丘陵地帯が広がっていて、ピクニックにはもってこいのスポットが至るところに転がっている。

 ディジーが持って来たのは、サンドイッチやパンやジャム、ワインや水が入った水筒に、薫製肉やソーセージなどが入ったバスケットだった。

 妹はそれを持って出かけろと、わたし達に言ってきたのである。

 

『うっかりしてて、果物を切らしてたの。だから姉さんとこにあるかなと思ったんだけど、まあいいわね、これだけでも』

 

 ディジーは笑顔でバスケットをニックに押し付けると、早く出発しろと脅してくる。

 

『で、でもね。店はどうするのよ? わたしもニックも出かけたら誰が見るの?』

 

 わたしが必死で抵抗すると、やおら妹は泣き出した。

 

『酷いわ、姉さん。わたしがせっかく休暇をプレゼントしてあげようと思って、今朝早起きして頑張って用意してあげたのに、人の好意を無にする気なの?』

 

『い、いや、それは有難いと思ってるわよ。まあ、出来たら、前もって連絡をして欲しかったけど……。でも、これはそういう意味じゃなくて、店をね……』

 

 嘘泣きだとは分かっていても、わたしは妹達の涙にとても弱い。昔の悲しみに暮れていた時代を、どうしても思い出してしまうからだ。

 

『店のことなら大丈夫。わたしが見ててあげる。昼には旦那がランと一緒にこっちに来るし、全然余裕よ』

 

 やはり、ディジーは泣き真似をしていただけだった。次の瞬間にはケロッとして、歯を見せて笑ってるのだから。分かっているのに強く出られないのだ。本当に甘いな、わたしは。

 

『姉さん、店は大丈夫だから息抜きして来なさいよ』

 

『で、でも……』

 

『サムお姉ちゃん、わたしお外に行きたい……』


 わたし達姉妹が揉めているところに、リリィちゃんが寂しそうに呟いて、結局ピクニックへ行くことが決定となってしまった。

 ディジーは満面の笑みで『ごゆっくりー』と叫んでいたが、あの子はいったい何がしたいんだろう。全然分からないわ。

 

 

 

「それにしても、あんたはなんで何も言わなかったのよ、ディジーに」

「別に、特に言うこともないからな」

 ニックはムスッとした表情のまま、黙々と歩き続ける。時々一人先頭を走るリリィちゃんに、「気をつけろ」と注意を繰り返しながら。

 そんな横顔を見ていたら、どうしても腑に落ちなくなるのだ。思えば最初からおかしかった。この男が妹達の言うことを素直に聞くなんて、以前には絶対になかったことなのだから。

 

「何か、変だわ」

「あ?」

「あんたがたいした理由もなく我が家に関わろうとするなんて……、どう考えても変じゃないの」

「だから、それはーー」

「そうよ、やっぱりおかしいわ。今回のことも、それからそもそも、わたしと一緒に過ごすようになったことも」

 わたし達はずっと天敵同士だったのよ。六歳のあの時から友人ですらなかったのに。そうよ、いつだって、会えば傷つけあっていたんだわ。それがどうして、今、一緒にピクニックに行く羽目になるのよ?

 どう考えたっておかしい。

 

 ニックはポケットから煙草を出すと口にくわえた。焦れたようにマッチを擦るが、なかなか火は点かず呪いの言葉を吐き捨てる。

 その仕草は、苛立っているようにしか見えなかった。

 

「ねえ、何か弱味でも握られてるんじゃないの? 妹達に。そうなんでしょう?」

「はーー、何を馬鹿な……」

 

 彼は取り繕ったように笑う。だけどわたしは気がついてしまったのだ。

 マッチを持つニックの指が、小刻みに震えていたことを。




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