店主と店員
9/30、午前8時過ぎに少しだけ文章を修正しています。内容は全く変わりません。
またもお見苦しいことをしてしまいまして、すみません。
まずい。
非常にまずい。
まさか、こんなに時間が経っていたとは思わなかった。
赤く染まる夕焼け空を眺めため息を漏らす。外に出てみて気付いたのだが、太陽に照らされて明るかった筈の周囲が、いつの間にか一変してしまっている。
陽気に笑う燐家の女主人の顔を恨めしく思い出した。ニコニコと笑う彼女の口車に乗せられた自分を歯がゆく思ってはみても、時間は戻りはしないのだけれど。
だけど……これだけは言わせてお願い! マチルダさんから試着を頼まれた時はすぐに終わると思ってたのよ、わたしは。本当よ? ちんたらのんびりと、店の外で遊んでくる気は更々なかったの。
けれどマチルダさんが、鏡の前にわたしを立たせたまま、ドレスに色々とアレンジを始め出して……。もう止めて、困りますと言っても止めてくれなくて……、それで結局、長居することになってしまったのよ。はあ〜あ。
気がつけばこんな時間。いつもならニックの奴がとっくに自宅に帰る頃。
慌てて隣家の洋裁店を飛び出して来たけれど、時既に遅し。店主がこんなに店を放っておいてと、きっと嫌味をいっぱい言われるだろうあの男に……、うう〜。
そんな訳で、わたしは自分の店である雑貨屋になかなか入ることが出来ないでいた。
お店の前をウロウロして扉を押そうと身構えるのだが、どうしてもあと一つ勇気が出て来ない。
躊躇する理由は、時間以外にもあった。
慌てて隣家を飛び出したので、実は試着したドレスを着替えていなかったのだ。それというのもマチルダさんが急かすように早くしろと追い立て、もうそれあなたに上げるから持って帰りなさいと押し切られ、拒否するわたしを無理矢理外へと放り出したのだ。
いやーー、他人のせいにするのはよくないだろう。どう考えても、きっちり遠慮をしない自分が一番悪い。
だけど……、
どうしたらいいのだろう?
わたしは情けなさで途方に暮れながら、自分の着ているフワフワのドレスを見た。
明るい淡い黄色のドレスは、袖が膨らんだ流行のデザインをしていた。胸元は襟が大きく開いており、貧相な胸が見えないかと心配になる。その胸元の縁取りに、持参したレースがさりげなく付け足されていて、胸のすぐ下を大きなリボンで縛ると裾までは柔らかく広がったラインの、シンプルながら若々しい華やかなドレスだ。
そう、間違っても二十七のおばさんが着るものではない。
こんな可愛い格好をしたわたしを見たあいつが何て言うか、簡単に想像出来てしまうから恐い。
『鏡を見ろよ、バーカ』
絶対、そう馬鹿にするのに決まっている。何故なら既に六歳の時、あいつにはそう口にした前科があるのだから。
ま、バーカはさすがにナイかもしれないが……。
ああ〜と叫んで頭を掻きむしりそうになった時、背後で名前を呼ばれた気がして振り向いた。
「こんなところで、どうしたんですか? サム」
振り返った先に、大事な取引先の一人である、金物細工職人のジェイコブさんが立っていた。
「あ、あらジェイコブさん、どうしたっていうか……」
ちょっと……、今の変な顔見られてないわよね?
「お店に入らないのですか?」
ジェイコブさんはわたしの動揺など物ともせず、ごく自然に聞いてくる。
「勿論、入りますけど……、ジェイコブさんこそどうしたんですか?」
「ああ、わたしは、あなたが戻られるのを待ってたんですよ、サム」
「わたしを?」
彼は頷くと、目尻に皺を寄せ微笑んだ。
近所で金物細工の工房を開いているジェイコブさんは、腕のいい職人だ。
工房では、扉や引き戸の取っ手など建造物用途の金物から、鍋や皿などの道具類、果てはアクセサリー等の装飾品に至るまで、幅広く注文を請け負って仕事をしている。
彼の工房では商品の販売もしているのだが、ある時そのあまりに美しい仕事ぶりに見惚れてしまったわたしの『とても素敵です!』の言葉に感謝してくれて、以来うちの小さな雑貨屋にも品物を卸してくれるようになった。
品物は主にアクセサリーで、その丁寧な仕上がりに熱烈なファンも多い。
それを破格の値段で卸してくれるため、お手頃な価格で販売することが出来、店頭に出せば飛ぶように売れる目玉商品の一つになっているのである。
そんないい人のジェイコブさんは独身だった。
金物屋を経営している腕のよい職人で、しかも性格は穏やかで人当たりがいい。なのに、四十歳を越える年齢でありながら、いまだ『独り』なのである。
その点だけが、彼の唯一のマイナスと言えるかもしれなかった。
何故こんなにいい人が未だ独り身なのかーー。確かに彼は男前ではない。背も低くてちょっとぽっちゃりした中年体型だし、頭は禿げてこそないが相当薄毛であり将来に不安を残す……。
え? 充分理由は分かる? そ……、そう?
と、とにかく、ジェイコブさんを見ていると、自分の未来が透けて見えてくるからせつない。多分わたしもあと数十年したら、彼のお仲間の一人になるのだろう。そうしたら、よい茶飲み友達になれるかもしれないけど。
「わたしを待っていたって……、何故ですか?」
「ええ、今日また商品を持って来たんですがね。昼間に来たらお客さんが凄い多くて、ニックが一人でてんてこ舞いしてたんです。彼があまりに大変そうだったんで、わたしは昼は遠慮することにしたんですよ」
「そうだったんですか……」
何てこと。そんな他人から見ても深刻な事態だったとは。
「それでサムがいるだろう夕方に、出直して来ようと思って今来たとこなんですが……。いや、丁度よかった、君に会えて」
「それは、何度も足を運ばせてしまいすみませんでした。昼はちょっと出ていましてーー」
わたしがジェイコブさんに頭を下げつつ誤っていると、いきなりお店の扉が開いた。
「おい、いつまでも店先で話さなくてもいいだろう? とっとと中に入ってもらえよ」
そう言いながら顔を出したのは、不機嫌そうな表情のニックだった。
「まあ、素敵だわ。いつも本当にありがとうございます」
ジェイコブさんが持ってきてくれた数点の商品を手に取り、わたしはその美しさに感嘆の息を漏らした。本当に彼の作品は、いつ見ても見惚れてしまうから不思議だ。艶やかなデザインの精巧な細工のネックレスなど、今回も素晴らしい物ばかり。
「いえいえ、そんなことはありません。サムからわたしの商品はすぐ売り切れるとお褒めの言葉を貰ったからこそ、わたしは張り切って作ることが出来るのです。だからもし、この品がよく出来ているとしたら、それはサムのお陰なんですよ」
「またそんな! ジェイコブさんたらお上手ね」
わたしは照れ臭くて彼の腕を思い切り叩いた。苦笑を浮かべながらジェイコブさんは、力強く言い切る。
「上手だなんて、わたしは本当のことを言ったまでで」
わたし達が談笑していると、ニックがお茶を入れてやって来た。彼はジェイコブさんの前にそのお茶を置くと、わたしには水の入ったコップをこれ見よがしに置いていく。
「お茶をどうぞ、ジェイコブさん。うちの店主がお待たせしてしまって、申し訳ない」
「いや、そんなお構いなく。だが、ありがとう、ニック」
ジェイコブさんは美味しそうにお茶をすすった。わたしはヨダレを我慢しながら彼のお茶を睨む。忌々しいことに、ニックはお茶の入れ方が上手いのだ。
なのにわたしには水なのか……、ふん、アンタの気持ちはよーく分かったわ。
「そんな、甘やかしてはよいことないですよ。だいたい店主たる者、店をほっぽって遊びに行くなど言語道断だ。責任感というものが欠如していますよ」
「何ですって?」
「俺は一般論を言っている。お前に何か反論があるのか?」
「な、ないけど……」
「こんな素晴らしい商品を持ってきてくれた大事な職人さんを待たすなんて、とんでもない奴だ。ジェイコブさん、ガツンと一度言ってやって下さい。あなたに言われたら改まるかもしれない」
ニックの奴は不自然なほどに愛想よく、ジェイコブさんに笑顔を振り撒きながら、わたしのことを扱き下ろしていた。
よっぽどわたしを馬鹿にしたいらしい。それとも帰りが遅くなったことが、そんなに許せないと言うのだろうか?
だが、わたし達の間を流れる冷ややかな空気に気付かないのか、ジェイコブさんはのんきにもとんでもないことを質問してきた。
「ところで随分仲がよろしいようだが、お二人はどういったご関係ですか?」
その質問に、飲みかけの水を危うく吹き出しそうになる。
仲がよい?
ちょっと何聞いてるのよジェイコブさん! 質問のくだらなさに焦って慌ててしまうわたしと、こちらを興味深げに見つめる質問者。そんな微妙な空気の中を突然大きな声が遮った。
「俺達は、単なる雇われ店員と店主ですよ」
ニックは呆れるくらい落ち着いた声で、馬鹿馬鹿しいなと言葉を続ける。
「関係……、俺達の関係ね、ーー」
それから堪えきれなくなったのか、ブッと噴き出しそのまま笑い出した。
何よ、いったい……。
まるでこっちを嘲るようなニックの態度を見ていると、わたしの顔が発火でもしたように熱くなってくる。本当失礼な奴だわ。
「ーー俺は、女房に追い出された出戻り男ですからね。困って仕事を探していたらサマンサが雇ってくれたという訳ですよ。関係と言えば、家が隣同士と言えるだけですかね」
嫌味な男は薄笑いを浮かべながらも、スラスラと出任せを並べ立てていた。
ふざけてるとしか思えない。
だってさ、こいつを雇った覚えはないってのに、この堂々としたまでの言い種をどう思う? 勝手にこの男が店員の真似事をして、わたしの店主という立場を怪しくしているというのにである。
雇ってるだって? 給料なんか払う約束してませんからね!
「そう……だったんですか」
しかし、人のよい紳士のジェイコブさんは、すっかりニックを信じてしまったようだ。
彼はフムフムと独り言のように「成る程、仕事を探していたんですね」と呟くと、急に思いついたように顔を上げニックに問いかけてきた。
「だったら、うちの工房に来ませんか? 今とても忙しくて一人でも人手が欲しかったんです。給料もうんと弾みますから、どうですかね?」
それから遠慮がちにわたしの顔を窺いながら付け加える。
「失礼ですが、こちらよりは多目の給金を出せると思います。考えてみて下さい」
え、ジェイコブさん?
それってもしや、ニックに、仕事を依頼している……の?
「有難いお話ですがーー」
店員を語る男は目を細めて小さく笑うと、店内を見回してため息をついた。
「せっかくサマンサが雇ってくれたので、今はこいつの手助けをしてやろうと思います。何しろ営業時間に関係なく、ぽっと店を開けて帰って来ない、頼りない店主ですからね。放っとけませんよ、とんでもないことをやらかしてしまいそうで」
彼の返事に、わたしもジェイコブさんも驚く。
ジェイコブさんはがっかりしたような顔で残念そうに、「そうですか。でもいつでも気が変わったら言ってきて下さいね。歓迎しますから」と何回も口にしていた。
いったいどこを気に入ったのやら、さっぱり分からないけど?
「サム、そのドレスだけど……」
店を出るジェイコブさんが、扉の前で振り向いた。
「えっ?」
そうだった。すっかり忘れていたけど、わたしってば不似合いな可愛いドレスを着ていたのだわ。
「へ、変でしょう? お、お恥ずかしいわ」
どもりながら狼狽えるわたしに、ジェイコブさんは優しく笑う。
「とんでもない。とてもよく似合っています」
それから彼は、わたしの背後にも語りかけた。
「ね、あなたもそう思うでしょう、ニック?」
ーーええっ? ちょっと聞くの?
わたし達に一斉に視線を注がれた彼は、一瞬怯んだように顔を歪ませた。だが次の瞬間、観念したように俯いて答える。
「ええ、とてもーー」
それはとても、小さな声だった。