仲良しな二人
「ほら、もういいだろ。どけよ」
ニックは荒々しくわたしの肩を押した。彼から微かに煙草の香りが漂ってくる。こんなに近い距離感は初めてのものだ。
「いつまで人にすがっているんだ? 図々しい」
押されたわたしは、背後の整理棚に背中が当たって我に返った。「いったーい!」てほどでもないけど、癪に障るから大げさに喚いてやる。
「痛いじゃないの!」
ニックは背中を向けたまま、興味もなさそうに呟いた。
「すっ転ぶところを助けてやったんだ。感謝されることはあっても、文句を言われる道理はないぜ」
「何ですって? 元はといえば、あんたの足に躓いたんじゃないの」
「悪かったな、長い足で」
うう……、ああ言えばこう言う。何て、腹立つ男かしら。しかも顔すら向けずに言い返してくるとか、有り得ない。
わたしはこちらを見ようともしない、失礼な男の首根っこを掴まえた。そしてそれを、力一杯引っ張てやる。
「ちょっと、こっちを向きなさいよ!」
「うわっ!」
完全に油断してたニックは、突然後ろから襲ってきたわたしに驚いてバランスを崩した。彼はそのまま倒れるように、わたしと一緒に整理棚に背中をぶつける。
「何をする!」
火を吹くように怒る、奴の顔が傍にあった。
淡い空色の瞳が怒りのために大きく見開き、その瞳の中にわたしが映っている。
「おい、泣き虫女、ふざけるな。危ないだろう」
すぐ目の前で罵倒されているのに、何も言えなくなる。いつものわたしなら、考えられないことだった。
何故、黙ってるって? それは、だって……。
「パパ……」
小さな声がして、いつの間にかリリィちゃんが立っていた。
「どうした、起きたのか?」
わたしの横から急いで飛び出ると、ニックは膝をついて娘と目線を合わせる。
「うん……」
寝起きのうっとりとした顔で、リリィちゃんがぼんやりと答えた。
なんて可愛い仕草なんだろう。まさに生きたお人形だ。わたしが彼女ぐらいの頃に、喉から手が出るほど欲しかったお姫さま、じゃないわね、なりたかったお姫さまだ。現実には、どう考えても無理だったけど。
その理想のお姫さまが憎い男の娘とは、人生とはなんて無情なのかしら。本当に、今のこの現状を過去の自分が知ったら、おそらく目を回して怒るに違いないわ。何故その男と一緒にいるの、ってな具合にね。
リリィちゃんはわたしのベッドで昼寝をしていて、つい今しがた目覚めたところのようである。店の方から人の気配がするので、こちらまでやって来たらしい。
彼女はだいぶ頭がしゃんとしてきたようで、顔には、おずおずとした躊躇うような表情まで浮かんできていた。金の巻き毛に青い瞳、お話の中の天使みたいで愛らしい。
この子の別れた母親も、きっと手離したくなかっただろうに。無理矢理ニックの奴が、拐うように連れて来たのだろう。なんて迷惑な男なんだ。母親といれば、お嬢様として贅沢に暮らせていたのに。
「ねえ、パパ。お姉ちゃんと何してたの?」
「何って、お話してただけだよ」
ニックはぶっきらぼうに答えるが、リリィちゃんは納得しなかったようだ。
「本当に? 喧嘩をしてたんじゃ、ないの?」
わたしは驚いた。子供の洞察力は侮れない。口喧嘩をしていた時の状況を知らなくても、目にした一瞬で微妙な空気を敏感に捉え、その場の雰囲気を的確に察知してしまうのだ。
「け、喧嘩なんてしてないとも!」
ニックは大げさなほど、身振り手振りを交えた笑顔になっていた。それはもう不自然なほどだ。そんなにわざとらしいと返って怪しいと思うんだけど、いいのかそれで?
だが、父親とわたしを交互に見つめ、リリィちゃんは不安そうに呟くのを止めない。
「嘘、……本当は喧嘩をしていたんでしょ? リリィのことで喧嘩して……」
「ち、違う、違う。何を言うんだ」
娘の悲しげに揺れる瞳に、ニックは慌てたように立ち上がった。それからわたしの前にやって来ると、いきなり肩を抱いてきた。
『ちょ、何してんのよ?』
小さく抗議の声を上げたわたしを、威嚇でもするかのように鋭い目付きで睨みつけ、彼は小声で囁いてくる。
『いいから、話を合わせろ。訳はあとで話す』
ちょっと、何よ、その顔。だがムカつく男は、わたしを無視して娘に笑いかけた。
「ほら、リリィ。パパはお姉ちゃんと仲良しだろう? なあ、泣きーーじゃないサマンサ、俺達仲良くしてたよな?」
ちっ、何だその台詞? 子供目線とはいえ気色悪いなあ。だけど、もう本当不愉快極まりないけど、……仕方ないか。他ならぬリリィちゃんのためだ。
「ええ、ニック。わたし達、喧嘩なんてしてないわよねーえ。だって仲良しさんですもの」
ふふふふ……と引き吊った笑顔で見つめ合うわたし達に、リリィちゃんはおずおずと聞いてきた。
「本当に喧嘩じゃなかったの?」
「そうだとも!」
「勿論!」
少女の煌めく青い瞳が疑うように細くなる。
「本当に?」
「本当、本当!」
更にピッタリと近づいて、大きく頷き合うわたし達。このままだと顔がくっつくよ、全く。
「そっか……」
リリィちゃんはにっこりして嬉しそうに呟いた。
「二人は仲良しなんだね?」
「そうだよ」
「さっきから、そう言ってるでしょう」
「よかった〜、だからパパの顔が赤かったんだあ」
は?
「な、何言ってるんだ、リリィ」
ニックは煩そうにわたしの肩から腕を上げると、クスクスと笑い声を立てる娘の側に急いで行く。
「さっきリリィがパパの顔を見たとき、赤かったんだもん、ほっぺた。だから、また喧嘩してたと思ったの。でも違ったんだね、よかった〜」
凍りついたように動かないニックの後ろ姿を、わたしはぼんやりと見つめた。
本当に、奴の顔は赤かったのだろうか? 実は、わたしの目にもそう見えたのだ。あの、二人で整理棚にぶつかった時に。
ニックがわたしを見て顔を赤らめているように見えたから、何も言い返せなくなったのだ。意味が分からなくて。
まさか……、
まさかこいつ、わたしを好きなのかしら? ま、まさか?
「リリィ、変なこと言ってないで、手を洗って居間に行くんだ。おやつがダイニングテーブルに置いてあるから」
「独りで食べるの嫌だよ。パパ達も来る?」
「ああ、お姉ちゃんと大事な話が済んだらな」
「大事な話?」
娘の顔が陰ったのを見て、ニックは焦ったように言い直した。
「違った、仕事の話だ。とにかくすぐに行くから、先に食べていろ」
「う……ん」
少しの間グズグスと渋っていたリリィちゃんが、漸く居間へと消えたあと、ニックは大きくため息を吐いてこちらの方へと顔を向けた。
その顔は赤らんでなどいなかった。いや、寧ろ青いくらいである。
ーーこの顔のどこが赤いって?
ニックがわたしを好きなどと、有り得もしない妄想を働いて、ジタバタと慌てていたわたしは、稀に見る馬鹿みたいだ。
とにかく今の一連の出来事は、わたしの記憶から抹殺するしかない。でないと、恥ずかし過ぎて生きていけない。よし、強く願ってーーハイ、消えた!
「さっきは悪かった」
暫くわたしの様子を訝しんで見ていたニックが、何故か謝罪の言葉を口にする。
「何が?」
ごめんなさい、わたし先ほどのことは記憶にありませんの。だから何のことか分かりませんわ。って、ふざけてみても、しっかり覚えているけど、ふん。
「リリィの様子がおかしかっただろう?」
なんだ、そのことか……。娘のことよりも謝ることがあるんじゃないの? 駄目だね、わたし。どうしてもこいつを恨みがましく見てしまう。
「そう言えば、自分のことで喧嘩したとか変なことを言ってたわね。それのこと?」
「ああ……」
ニックは苦悩の表情を浮かべ、胸ポケットを探った。そして、煙草を切らしていたことに気づくと軽く舌打ちをする。
彼は躊躇うようにわたしを見ていたが、小さく息を吐いてゆっくりと話し始めた。
「リリィが、あんなふうになってしまったのは俺のせいなんだ。俺と、あいつの母親……別れた嫁さんのせいなんだよ」