思わぬ接近
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「あら、じゃあまたこの町で暮らすことになったの? そりゃあまた、大変だったねぇ」
興味津々といった朗らかな婦人の声が、小さな雑貨屋の店内に響き渡る。その問いに、いつもより若干、浮かれたような男の声が答えた。
「ええ、まあ、お恥ずかしいことに、またこちらに戻ってくることになりました。いやね、ちょっと、羽目を外しすぎたと言うか、女房の奴に愛想を尽かされてしまいましてね。全く亭主の浮気ぐらい甲斐性じゃないですか? 目を瞑ればいいのに女房ときたら、ーーいや、もう女房じゃなかったな。ハハ、まいった」
「やだねえ、ニックちゃんてば、相変わらず調子いいんだから」
老婦人はニックの腕を思い切り叩いた。
ニックちゃんーー?
それから、ホホホホハハハハと馬鹿らしい高笑いが続く。
わたしは聞きたくもない会話が聞こえてくることに苛つきながら、目の前の帳簿を睨んでいた。しかし、数字を睨み付けても、少しも頭に入ってこない。
「それで、これからどうするのよ?」
ニックと楽しげに会話を続けているのは、三軒先に住んでいる話し好きのおばあさん、ダリアさんである。うちの店に、自分の作った小物を時々置かせて欲しいと持ってくる、元気なご老人だ。
「ああ、仕事を探そうと思ってたんですけど、チビがいるんでなかなか難しくて……」
ニックの、苦笑混じりの声に、ダリアさんの弾んだような声が被さった。
「あら、あんた子供がいるのかい?」
「ええ、娘が一人。仕方ないから、この店で雇ってもらおうかって思ってるんですよ。サマンサとは幼なじみだし、自由がきくから」
は・あ?
目が点になる発言がニックから発せられ、わたしは反射的に彼を見た。そして笑顔の奴とバッチリと目が合う。不愉快なほど、好感のもてる笑顔じゃないの。ちょっと、普段とギャップがありすぎるんだけど、どういうこと?
「まあ、そうなの。サムちゃんとねぇ……」
ダリアさんはニヤニヤと不気味な笑みを浮かべて、こちらを見ていた。あらあら、まあまあそうなの、とわたしとニックの顔を見比べながら、したり顔で頷いている。
その声の響きに不穏なものを感じて、わたしは思わず帳簿から抜き出した数字を書き取ると、急いで二人に近寄った。
「ダリアさん、これが売り上げよ。この前持って来てくれたバックとハンカチが数個、それからパッチワークの壁掛けが売れたわ。後、最近若い女の子に流行ってるのか、匂い袋が売れるの。ほらハーブの香りがする奴よ。あれを、また持ってきてくれない?」
彼女に明細を強引に押し付け、委託料を引いた売上金を金庫から用意してさっさと渡す。途端にダリアさんには、素の笑顔が戻ってきた。
「まあ、今回は多いわねぇ。嬉しいわぁ! ようし、こうなったら張り切って次を持ってこなくちゃね」
「匂い袋は必ず持って来てよ」
「オッケー、オッケー、任せて、任せて。新作も期待しててよ。それじゃ、そろそろ帰るとするかね」
わたしのお願いに上機嫌で返事を返すと、鼻歌を歌いながらダリアさんは扉に近付き、やおら振り向いた。
「ねえ、あんた達、付き合ってるのかい?」
ニヤニヤと意味有りげに笑う老婦人に、わたし達は不意を突かれて固まる。
ちょっと、冗談?
「違う、違う、とんでもない!」
わたしは大声で激しく否定をして、ニックを振り返った。
「ねえ?」
ほら、あんたからも何か言いなさいよ! 何、突っ立ってんのよ!
何故か反応の遅い男に、鋭い視線で合図を送ってやるのだが、無言で見つめ返してくるだけだ。
「ああ……」
ニックは慌てるわたしを鼻で笑うと、気だるげに前髪をかき上げ、見たこともない涼やかな笑顔で、目前の老婦人にさらりと切り返した。
「いやだな、ダリアさん。俺とサマンサはただのお隣さんですよ。ガキの頃から知ってる兄弟みたいなもんですからね、こいつなんて」
しかし、ダリアさんも負けてはいない。てか、信じようよ、他人の話は素直にさあ。
「何言ってんの。わたしとじいさんだって、幼なじみみたいなもんだよ。子供の頃からの顔見知りだからね。それに、そんなことより、あんた達がこの店で二人仲良く商売しているのが、何よりの証拠じゃないのかい?」
はあ? いや、ナイナイ、それは絶対ナイ!
頭と両手を同時に振るわたしを、ニックはしらけたような視線で切り捨て、ダリアさんに向き直った。
「だから、それこそが誤解なんですよ。チビがいるって言ったでしょう? こいつに昼間、娘の面倒みてもらおうと思ってね。だって暇じゃないですか、この女。嫁にも行かず、のんびり暮らしてるんだから。第一俺は、ついこの間女房と別れたばかりなんですよ。こんな奴と付き合うなんて、考えられないですね」
「なんだ、そうなのかい? わたしはてっきり……。がっかりだね〜。だけど、ニックちゃん、あんた浮気して別れたんでしょう? 女房がいるいないは、あんたには関係なかったんじゃないのかい?」
老婦人の鋭い突っ込みに、ニックは爆笑した。
「違いない! ダリアさんには叶わないな」
ニックの奴はよっぽどおかしいのか、腹を抱えて笑っている。わたし、ちっとも面白くないんですけど。
ダリアさんも、酷いよ。結局、わたしが嫁にも行かず云々の辺りで、信じたんでしょう? ふーんだ、そこで信じたんだ。
「本当に変わらないね、ニックちゃんは。いくつになっても、茶目っ気あって」
扉のそばでダリアさんは、目を細めてクスクスと笑っていた。もしかして今不機嫌なの、わたしだけ?
そんな一人でブスッとしているわたしに、彼女は悪戯っぽく目配せしてくる。
「だけどニックちゃんてば、しばらく見ない内にいい男になったねえ。そう思わないかい、サムちゃん?」
は?
全く思いませんけど?
「わたしが、あと二十歳若かったらねえ……」
ダリアさんは、うっとりしたようにニックを見つめていた。
「やだなあ、ダリアさん。二十歳じゃあ、俺はまだかなり年下ですよ?」
もう、本当にイケズなんだからニックちゃんは〜と言いながら、元気な老婦人は帰って行った。
お客、もとい近所のおしゃべりご婦人が帰ってしまうと、店の中には嘘のような静けさが戻ってきた。
人が一人減っただけでこんなに違うのかと、もう一人いる筈の存在を確かめたくなる。カウンター代わりのショーケースに肘をついて、彼は確かにそこにいた。
なんだ、やっぱりいたの……。物音一つ立てないからいないのかと思ったわ。
わたしは急いで視線を逸らし、帳簿を片付けようと店の奥にある整理棚へ向かう。ニックは、ダリアさんが持ってきた委託品を興味深げに眺めていた。
恐ろしく静かだ。
何故だろう、なんだか精神的に激しく疲れている気がするわ。この静けさが気まずいとか思うなんて、病気としか思えない。きっと、あれね。不愉快な男のせいね。なんか目眩まで感じてくるし。
わたしはふらつく頭を抱えて、ニックの後ろを通りすぎようとして、彼の足に躓く。
体が傾いて、転びそうになった。
「ちょっーー」
間髪入れずに、大きな腕が伸びてきた。そして倒れそうなわたしを力強く引っ張り、床との激突から救い上げる。
「危ないな」
顔を上げるとすっきりと伸びた首筋が見え、ため息とともに漏れた声が耳をかすめていく。
「どうしたんだよ、泣き虫女。お前まともに歩くことも出来ないのか?」
「え?」
目の前には、暴言を吐く見慣れた唇。その唇のまわりに、確かにあった無精髭はいつの間にか綺麗に剃られており、形の良い顎がどうだとばかりに視界に飛び込んできた。
「え? あ、あの……?」
何が起きたの? 今、わたし……?
慌てて手を動かせば、広くて硬い男のシャツの上を、這うように指が動く。
嘘、まさか、これって?
驚いて手を離した。
気がつけば、わたしはニックの胸の中にいたーー。
大嫌いな隣の息子の、腕の中に抱き止められていたのだ。