変化と戸惑い
「別れた?」
「ああ……」
ニックは煩わしげに、頭を強く掻きむしった。そのたび口にくわえた煙草から、小さな灰がポロポロとテーブルに落ちていく。
「ちょっと、気をつけてよ! 火事になったらどうするの」
「あーー、悪りい……」
わたしの抗議に珍しく素直に謝罪を返すと、彼は慌てて灰皿に灰を落とした。それから「熱いっ」とぼやきながら、落とした灰カスを急いで寄せ集める。
そんな彼の仕草を、リリィという名の少女は、クスクスとおかしそうに微笑んで見ていた。
「じゃあ、もしかしてこの子は……?」
「俺の娘だ。六歳になる」
「そう……、娘なんだ」
やはりこの愛らしい少女は、こいつの娘だったのか。なんとなく、悔しいと思った。わたしには自分の血を分けた子供はいない。
それにしても、この男に娘がいるなんて。わたしを苛めて喜んでいた意地悪男が、女の子の父親になってるなんてーー。変な感じ。
リリィちゃんは彼女を見つめるわたしを、くりくりとした青い瞳を輝かせ見返してくる。髪も瞳も父親とは違う。きっと母譲りなのだろう、綺麗な色だ。
「可愛い子ね。あんたに似なくてよかったわ」
「おい、どういう意味だ?」
ニックは目に見えて不機嫌になった。
嘘だ。瞳の色は違うが、面立ちはこいつに似ている。この年頃のニックの面影が、彼女にはちゃんとある。
だがわたしは、そのことを言う気はなかった。だって、六歳っていったらアレだよ? ニックの奴がひねくれた本性を表した、わたしにとっては因縁の年齢なんだよ。冗談じゃない。
「俺は、入り婿だったから、あっちの家を追い出されたんだ。で、仕方なく実家に戻って来たわけ」
ニックは、どうでもいいことのようにうそぶく。
「追い出された……?」
わたしはニックが結婚した時のことを思い出した。確か相手は、隣町の大きな商家の娘だった筈。
ニックが結婚したのは、わたし達が二十歳の時だ。
その頃のことはよく覚えている。
何故なら、その頃ちょうどわたしは、恋人だと信じていた男が、実は結婚詐欺師であるという衝撃の事実を知った時期だからだ。
この事実は、当時のわたしをこっぴどく打ちのめした。
だって、考えてもみてほしい。恋人と呼べるような相手が出来たのは、その時が初めてだったのだ。
それまでのわたしは、一家の大黒柱として忙しくしていて時間もなかった。それに赤毛の混じった茶髪のソバカス女など、そもそも誰も見向きもしないから縁すらなかった。
つまり恥ずかしながら、わたしは恋愛というものに相当遅れていた。
そんな日々に詐欺師はやって来たわけだ。そして初な小娘に、なんやかんやと世話をやいてくる。向こうからしたら下心ーーこの場合お金だーーがあるからなのだが、そんなことには全く気付かない。初めての恋に、すっかりのぼせ上がっていたからだ。
商品の卸値を水増し取引するオヤジは見抜くのに、考えてみればおかしなものである。
そんな中でも、わたしにそれとなく忠告してくれる人はいた。隣家のマチルダさんも、その一人だ。なのにわたしってば、尊敬するマチルダさんの言葉さえ、聞く耳を持っていなかった。
まさに恋は盲目で、そのままだったら店を騙し取られるのも時間の問題だった。
そんな危機的状況だったけど、ある日突然、男が逃げ出して事態は無事収拾したのである。
馬鹿らしいくらい呆気ない終わり方だ。
詐欺師が何故目的も果たさず逃げたのか、本当のところは分からない。わたしは彼に夢中だったから、仕事はとても簡単だった筈だ。
まあ実際は、捜査の手が伸びていたからだったんだけどね。彼がいなくなった後、詐欺師の話を聞きに来た人物がいる。あれは絶対、男を捕まえに来た人間に違いない。その証拠に、わたしはその人物から、恋人だと思っていた男の犯罪歴を聞いたのだから。
わたしに愛を囁いてくれた人生で初の男性が、優しくて凛々しい自慢の恋人が、言うに事欠いて結婚詐欺師? わたしを騙そうとしていたなんて。
そのことを知らされてからというもの、何もする気が起きず、死人のような顔をして店先に立つだけの毎日。
『まだ何も、騙し取られてなかったからよかったじゃない。そうなる前に相手が逃げて』
妹達や事情を知る知人がそう慰めてくれても、何の救いにもならなかった辛い日々。
そしてそんな時に、隣家から漏れ聞こえきたおめでたいニュースーー、それがニックの結婚話だったのである。
本当に、つくづくこの男はわたしを痛め付ける存在らしい。
相手は商人とはいえかなりの財産家のご令嬢で、ニックは彼女に見初められて結婚するという噂だった。逆玉か?
そんな噂もわたしを傷付けた。だって、こっちは不幸のどん底にいたのに、なんであんな嫌な奴が幸せになれるの? 真剣に神を呪ったものだ。
落ち込んでいたわたしの前に、ある日ニックがやって来た。
小さな雑貨屋の中に入って来た目付きの悪い男に、わたしは挨拶すらしたくなかった。無視するわたしに、ニックは怒ったような顔を向ける。
『お前、客に声もかけないのかよ』
『あんたは客じゃない』
『俺は、客だ。買い物に来た』
『あっそう、いらっしゃいませ。さっさと買ってとっとと帰ってくれる?』
そんな感じのやり取りを続けた後、ニックはわたしを睨み付けて立ち尽くしていた。わたしは彼を見ないように、わざとらしく背中を向けてやる。
しばらくすると後ろから、唸るように低い声が聞こえてきた。
『何だこの店、ろくなもんを揃えてねえな。店員は鬱陶しい泣き虫女だし、二度と来るかよ!』
そしてニックは、捨て台詞を残して出て行ったのだ。本当、何しに来たのか分かりゃしない。
あの日がニックと会話をした最後となった。
その後、彼は結婚してこの町を出て行き、二度と帰って来ることはなかった。
ーーなかったのに
「おい」
「何よ?」
「何故、笑う?」
「何故って……」
まずい、まずい。人の不幸は笑っては駄目だ。たとえ、相手がニックでも。
「気のせいよ、笑ってなんかいないわよ? それで、続きだけど、何故、ディジー達の頼みを聞くことにしたの?」
「ああ、そうだな」
ニックはリリィちゃんの口をナプキンで拭うと、遊びに行くよう促した。彼女は飛び跳ねるように椅子を下りて、居間を出て行く。
娘を見送る父親の優しい眼差しに、何故かモゾモゾとして落ち着かない。
何だろう、すごい違和感がある。
「お前も知ってるだろう? うちの洋裁店を姉貴夫婦が継いだの」
彼が口を開いた。わたしは訳の分からない違和感を、取り敢えず無視することにする。
「ええ、急におじさん達が引退するって言うからびっくりしたわよ。でもそれがどうしたの?」
最近になって、隣の洋裁店は店主が交代した。おじさんから娘のマチルダさんに代わったのだ。おじさんはもう楽させてもらうよと、笑っていたのだけど。
ニックがため息をつくように煙を吐き出す。顔からはいつもの険しさが取れて、憂いのようなものが浮かんでいた。
「そのせいで、姉貴と義兄さんの仲が、すっかりおかしくなってしまったんだ。自分達が本格的に経営に乗り出すことになって、二人の意見が真っ向から対立してな」
「そんなふうには見えなかったけど……」
マチルダさんと婿のジンさんは、町内でも評判のおしどり夫婦だ。職人気質なマチルダさんと接客上手のジンさんは、なかなかいいコンビなのである。
その二人が対立してる? 信じられない。
「他人の前ではやらないさ。だがな、本当に今、口もきかない状態なんだ。お陰で家の中は最悪。そんなところへ俺が帰って来たもんだから、親父やお袋までピリピリするし……。正直昼間だけでも、あの家から離れることが出来るのはありがたい。俺はともかく、リリィの奴には居場所がない」
「ふうん」
わたしの不審げな声に、ニックは顔を上げて視線を寄越す。
「まあお前には、俺がそばにいるなんて不満だろうけど」
吸っていた煙草をクシャッと灰皿の上で潰すと、彼は空になった食器を抱えて立ち上がった。
「だがな、一時休戦しないか? 今はお互い手を組んで、何か良案考えた方がいいと思うぜ。そうだろ、泣き虫女」
ニックはニヤリと嫌味っぽく笑うと、背中を見せた。その余裕を感じさせる態度が、決定的だった。
休戦て……、いつもあんたの方が吹っかけてきてたんじゃないの! いや、それよりもーー。
何だか、変わった?
わたしはニックの後ろ姿に、もやもやとした気持ちをぶつける。
「ちょっと、ここにいるつもりなら、その泣き虫女ってのは止めなさいよ、分かった?」
彼は笑い声を上げて片手を振った。
七年という月日は、幼なじみを色々と変えていた。
そのことに気がついて、わたしは酷く焦っていたのだ。