その4
「もう、なんなのよう」
今日もサムは泣きながら家の中に逃げ込んできた。
「泣き虫女、泣き虫女って人のこと馬鹿にして」
リビングのテーブルに着くやいなや、悔しそうに声を漏らす。その背中に、ヘレンがおっかなびっくりで声をかけた。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
サムは慌てて顔を上げて、取り繕ったような笑顔になった。でも涙の跡は消せてない。痛々しい顔で笑うサムにヘレンは気まずげに黙ってしまった。サムの空元気な声がする。
「ヘレンたら、なあに? わたしは大丈夫だよ」
「へレン、ちょっと顔かしてくれる?」
「ディジー、びっくりした」
廊下へと出てきたヘレンを待ち構えて、わたしは自分達の部屋に引っ張って行く。サムはリビングに残ったままのようだから、内緒話を聞かれることはないだろう。
部屋についたら早速わたしは切り出した。
「あんた、さっきのサムをどう思う?」
妹は少し考えて答えを出す。
「凄く変、どうしたの?」
さすが我が妹。サムの普段と違う様子に気がついていたらしい。
わたしはヘレンに、ついておいでと顎を振った。
「あんた、サムのことは好きよね?」
ヘレンはキョトンとして頷く。なんのことだか、まるで分かってない様子だ。
「好きだよ。ディジーは、あんまりだけど……」
「何ですって?」
「な、何でもない。お姉ちゃんがどうしたの?」
話を長引かせるのも馬鹿馬鹿しい。わたしはヘレンにチョイチョイと指を振って、声を潜めた。
「これは特殊任務よ。危険と言えば危険な仕事だけど、サムのためには絶対やらなきゃならないの。危ない橋を渡るから、充分注意してね。ところで、あんた口は堅いわよね?」
物騒なことを口にするわたしに、ヘレンは疑い深げな目を向けた。
「えっと、……多分。ディジーの言ってること、意味分かんないけど」
生意気なことを言う妹を外へ連れ出し、コソコソと辺りを窺いながら隣家の敷地内へ潜り込む。
「ねえ、ディジー。バーナーさん家に用事なの?」
「シッ、静かに。この家の悪魔に見つかったらどうするのよ」
わたしはヘレンの頭を押さえつけ、裏庭へと回り込んで側の窓から中を覗き見た。
「悪魔って何のこと? ねえ、何のことなの、教えて!」
静かに中を探ろうとするわたしを、ヘレンが暴れまくって邪魔をする。もう、あの悪魔ニックに見つかったらどうするのよ。こっそり奴の弱点を探しに来たのに。
「ディジー、何か言って!」
ヘレンを無視するわたしに、ついに妹はキレた。おとなしい子だと思ってたのに意外と気が強かったんだ、この子ってば。
「静かにしてったら、見つかるでしょ」
わたしは慌てて妹を怒鳴りつける。その声は意図したものより大き過ぎたらしい。わたし達の上から、いやに低い声が降りてきた。
「へー、誰に見つかるんだ?」
聞き覚えがある声にわたしは竦み上がった。
「ニ、ニックーー」
絶句するわたしを、まさに悪魔の笑みを浮かべたニックが、窓から上半身を乗り出してからかうように見下ろしていた。
「で、俺に何の用だ?」
ニックはふんぞり返ってえらそうに聞いてくる。
わたしとヘレンはニックの馬鹿力に取り押さえられ、いとも簡単に捕まってしまっていた。
それから小突かれるようにバーナー家の居間に連れて来られて、今こうして尋問を受けているってわけだ。
「あ、あんたに用なんかないわよ。勘違いしないで」
わたしはヘレンを庇うように前へ出て、ニックの奴に啖呵を切ってやった。力だけしか自信のないお馬鹿男なんて、わたしのこの口で丸め込んでやるわ。覚悟しろ。
「なんだあ、その口のきき方。お前ガキだからと思って舐めた口きいてっと、痛い目みせんぞ、コラァ」
ニックは座っていたのに急に立ち上がって、わたし達に向かって凄んできた。
分かる? いきなり自分より大分背の高い男が覆い被さってきたの。いくらわたしだって、そりゃびっくりしたわ。びっくりし過ぎて、考えてたプランなんか吹っ飛んじゃったわよ。
信じられないわよね、わたしとヘレン、この時まだ九歳と五歳よ。凄みを見せなきゃ黙らせることが出来ない、そんな相手でも何でもなかったわけよ。
「な、なによ、脅したってあんたなんかちっとも怖くないんだから」
「なんだとぉ?」
「サムを苛めるのはやめて! あんたのせいでずっと泣いてるんだから」
怖くないと言いながら、わたしは体中を震わせて弱々しい声を出していた。目の前のニックに対する怒りと恐怖で、頭の中はいっぱいだった。
ヘレンはわたしに泣きながら、必死でしがみついている。それなのに姉であるわたしが、情けない弱音を吐くわけにはいかなかったのだ。
「あ、あいつ……、ずっと泣いてんのか……?」
不思議なことにニックの声のトーンが和らぐ。
「そうよ、あんたのせいで家でも外でもずっと泣きっぱなしよ」
「他には?」
「えっ?」
「他には、何か変化ないか……?」
「変化?」
わたしは意味が分からなくてニックを見上げた。憎たらしくて仕方のない悪魔は、珍しく真面目な顔で立っていた。
「変化って?」
ニックのただならない雰囲気に飲み込まれ、わたしまでおかしくなる。相手の勢いが弱まった今がチャンスだと言うのに、わたしは何にも言えなくなった。
カチコチに固まったわたしとヘレンに、ニックはじりじりと近づいてくる。
「たとえばだな、俺への怒りで負けず嫌いに目覚めたとかーー」
「な……に、それ……?」
怖い!
ニックがいつもと違い過ぎて怖くてたまらない。
「ひっ、ひえっ」
「うわぁぁん、誰かぁ」
わたしとヘレンが本気で泣き始めたので、お店の方から慌ててやってくる足音が響いてきた。
「ちょっと、坊や、あんた何やってるの。こんな小さい子を泣かせて!」
それはニックのお姉さん、頼れる味方、マチルダさんだった。
ニックはマチルダさんによってこってりしぼられたあと、当たり前のように居間から追い出された。
奴はわたし達を名残惜しげに横目で睨んでいたけど、マチルダさんが指をボキボキと鳴らしてみせたら、すごすごと背中を向けて逃げていったのである。
ああ、爽快。わたしとヘレンを怯えさせた罰だ。ざまあみろって感じ。
「ごめんね、ディジーちゃん。弟の奴がしょうもなくて」
「いいえ、マチルダお姉さん。ありがとうございました。すっごく助かりましたぁ」
「ん〜、可愛い。ディジーちゃんもヘレンちゃんも、うちの子にしたいくらいだわ」
マチルダさんは八年前に結婚しているけど子供はいない。おかげでわたし達のことも、まるで実の子のように可愛がってくれている。
「サムは? 元気にしている?」
マチルダさんが姉さんのことを尋ねてきてくれたので、わたしは思い切ってニックの悪行を洗いざらい吐いてやることにした。
直談判は失敗したけど、根回しだったら負けないわ。
静かに耳を傾けてくれるマチルダさんに、わたしは力説してサムの悲劇を語っていった。
わたし達の姉さんが、どれだけあいつに苦しめられているか。
あいつがどれだけ、サムを不幸のどん底に落としているのか。
そりゃあもう、必死になって伝えたのである。
なのにーー、
マチルダさんは苦笑を浮かべて、わたし達を眺めているだけだった。
「ニックに制裁を加えてください」
わたしのお願いにも、彼女は困ったように首を傾げてクスリと笑うだけだった。
「悪いけど、それは出来ないわ」
「ええっ!」
「どうしてですか?」
わたしとヘレンは信じられない返事に大声で詰め寄る。マチルダさんならニックにきつ〜い雷を、きっと落としてくれると思っていたのに。
相変わらずの優しい笑顔で、マチルダさんはこちらを見返していた。
「それはね、さっきの下校時の暴言についてだけど、あれは不器用なあいつなりの、精一杯の励まし方だって分かってるからかな。だからごめんね。もうしばらく、あいつのやること黙って見守っていてほしいの」
わたしもヘレンもチンプンカンプンな説明だったけど、マチルダさんは自信たっぷりに請け負ってくれた。
「大丈夫、その内やめると思うから。いくら何でもこれ以上嫌われたくはない筈だからね」
「どういう意味ですか?」 わたし達の不審げな顔を見て、マチルダさんはブブッと噴き出す。
も、も、駄目、とか、お腹を抱えて笑い転げる隣家のお姉さんに、不満でいっぱいだったことも目をつぶって、我慢することにした。
何故なら頼れるお姉さんのマチルダさんが、
「大丈夫、もしもあいつがどうしても悪事をやめなかったら、わたしが必ずお仕置きをしてやるから心配しないで。ディジー、ヘレン、何かあったら、いつでもわたしに言ってきてね」
って力強い言葉を言ってくれたから。
だからわたしは今日のところは取りあえずこれでいいかと刃を収め、ニックのこれからを見張っていくことに決めたのである。
「でも、お姉さん。わたし、どうしても分からないの。何故ニックは、サムをいつも苛めるの?」
わたしのその問いに、マチルダさんはくすぐったそうに肩を竦めて微笑む。
「そうね、いつかディジーにも分かる時がくるわ。うん、もう少し大人になったら……ね?」
「ふうん」
それは今のサムよりも大人になってからーー、と言うことなのだろうか。
だって、サムってばわたしから見れば充分大人に見えるけど、何一つ分かってないみたいだったから。
この時に生まれたわたしの疑問が解けたのは、マチルダさんの言うとおり、それから数年後のことだった。
しかし、サムはいくつになってもニックの真意に気づかなかったから、わたし達はこの後も随分この二人に苦労させられたって話である。




