伝えたい言葉
乗り合い馬車を降りると、辺りに立ち込む潮の香りが鼻腔に広がった。
早朝一番の便に飛び乗って、半日以上かけてやって来たのは西にある港街スルワのメインストリートだ。
この国一番の貿易港があるスルワは最近特に近代化が進み、ジェイコブさんが話していた通り、あちこちで大きな建物が建設中で活気があった。
すぐ側に建つ新しい大聖堂も完成間近のようで、作業をする男達は最後の仕上げに余念がない。光輝くようにそびえる大聖堂の建物を、口を開けて呆然と見ていたわたしは、彼らの仕事をおおいに邪魔していたようだ。
「お嬢さん、危ないから少し離れてくれないかね」
中年の男性から忠告を受け、慌ててその場を後にした。全くもって恥ずかしいこと、この上ない。お上りさん丸出しで立っていたのだから。
生まれ育った田舎町から一歩も出たことのなかったわたしにとって、都会のスルワは物珍しく刺激的な街だった。
メインストリートにあるのはどれも我が田舎町にはない、大きく立派な建物ばかりだ。
古きよき前時代に建てられた重厚なものと、現在建立が進む近代的な官舎などの建築物が、見事に調和している。
通りは広くゆとりがあり、その上を歩く人々も洗練された小綺麗な服装をしていた。彼らは皆、わたしと同じ労働者階級の者だと思うのだが、随分裕福そうに見える。
スルワの港は、近年取引する国が増えて物流が盛んになった。それに伴い、働き場所や人口も増え急速に発展している。この街に住む人々に余裕のようなものを感じるのも、そんな恵まれた環境のためなんだろう。
ニックがこの街に移り住んだのも、きっと経済状況が著しく向上しているからに違いない。
あのまま田舎でくすぶっていたら職探しもままならなかっただろうし、万が一仕事を見付けることが出来たとしても、得られる糧に大きな差が出来ていた。
広いスルワの表通りに飲み込まれたように、わたしは立ち止まった。こんなに人口が多い街で人捜しなど、無謀なことかもしれない。不安で不安で心細くなる。
だが絶対に、諦めずに見つけてやると心に決めた。わたしはあいつに、どうしても言わなければいけないことがあるのだから。
どうかすると襲ってくる不安を振り払い、見知らぬ顔ばかりの中を歩き始める。
とにかく夕方までは手当たり次第に当たって、今日が駄目なら宿を取って明日も捜索を続けるつもりだ。数日の滞在は覚悟して旅行の仕度をして来ており、その辺に抜かりはない。
大丈夫、きっと会えるはず。
気力をみなぎらせたわたしは、ジェイコブさんがニックに似た人物を見かけたという、港近くの商業通りを目指すことにした。
***
「娘を連れた目付きの悪い男? んー、知らねーなあ」
気の良さそうな酒屋の主人は、しばらく目を瞑って考えこんでいたが、首を振って申し訳なさそうに答えてきた。
「そうですか……」
ため息をついてわたしは、主人に頭を下げる。
「手間を取らせてすみませんでした。ありがとうございました」
そう礼を述べたものの、すっかり途方に暮れて落ち込んでしまっていた。虚しく繰り返された今までと同じ結果に脱力して、足を動かす力さえ湧いてこない。
時刻は既に夕刻へと差し掛かっており、通りに並ぶ商店は殆どが閉店時間を迎え、人通りも随分まだらになっていた。この店は酒屋なので遅くまで開いていたのだろう。
これでもう何人に聞いて回ったのか。港近くにある商店には、軒並み覗いて尋ねた気もするのだが、誰も彼を知らなかった。
ジェイコブさんが見かけた人はよく似た別人だったのだろうか?
彼は絶対ニックだったと力説していたけど……、。
それとも、ジェイコブさんが見たのは別の通りのことだったのか。これだけ大きな港だったら、商店が集う商業通りも沢山あるのかもしれない。
と言うか、ニックが商店に勤めていると決まった訳じゃなかったわね?
そうよ、それこそメインストリートの建設現場のどこかなのかもしれないわ。ここには客として来ていただけだったのかも……。
いや待って、だったらむしろ港で働いているって考えた方が自然じゃない?
だって建設現場はここから離れているし……わざわざ遠くまで来るかしら?
わたしなら多分来ないわね。買い物なら近くで簡単に済ませるのが普通よ。
と言うことは、やっぱり彼は港に勤めているのよ。決まりだ、直接港に行った方がいい。そうね、今日はもう無理だから、明日ーー。
「娘さん、ちょっと娘さん!」
「……は、はいっ」
ぼんやりと考え事をしていたわたしは、酒屋の主人の前に立ち止まって営業妨害を続けていたらしい。
やっと彼の声に気付いて返事をしたわたしを、主人は呆れたように見つめていた。
「あんた、その荷物、旅行者なんだろう? 宿は決まってるのかい?」
中年の主人はわたしの持つ、古くさい旅行鞄を見ながら問いかけてくる。父や母が使っていた物でかなりの年代物だったが、これしかないので持って来ていた奴だ。ちょっと、恥ずかしいかも……。
「いえ、まだでして……」
「まだだってえ? 若い娘さんがまた、随分のんきなもんだね。暗くなったらここらも色々無用心なんだよ。そろそろ宿を取った方がいい」
「ええ、でも……」
夕焼けに染まる街並みを眺めながら、返事に詰まって言い淀む。
わたしは決して『若い娘さん』ではない。ただの婚期を逃した行き遅れで……いや、それはいいか。問題はーー。
「どうしたんだい?」
「わたし、宿の場所を知らないんです……。どこにいけばよいかご存知ですか?」
そう、全くの旅行初心者なので何をどうすればよいか、分からなかったのだ。主人は仰天したように小さな目を見開いた。
「何だって、宿のある場所を知らないだってえ? 近頃の娘は度胸がいいと言うか、無謀と言うか……」
酒屋の気のいい中年の店主は、ヘラヘラと笑うわたしを見て絶句していた。
「ほらっ、これでも飲んで待っていなさい」
店主が、お湯にお酒を少量落とした飲み物を持ってきてくれた。
「あっ……、ありがとうございます」
わたしは店の奥にある、普段主人が店番をする時に座っている椅子に腰掛け、頂いたお湯割りを口にした。
ずっと歩きづめで声を出してきていたので、喉がカラカラだった。優しい気遣いにジンとしてくる。
「美味しいです」
わたしの言葉に満足したように、主人は目を細めてこちらを見ていた。
宿の場所も知らないお上りさんのわたしに呆れた主人は、すぐさま知り合いに声をかけてくれた。
商工会の顔だというその人がまた知り合いを当たってくれ、安くて安全だという宿をなんとか探してきてくれたのだ。
それでなんと、その宿の人が、もう薄暗いということでわたしをここまで迎えに来てくれるらしい。至れり尽くせりの丁寧な扱いに思わず恐縮してしまう。
「何から何までお世話になりまして、ありがとうございました」
「いいんだよ、こんなことぐらい。……あんた訳ありなんだろう?」
不憫な子供でも見るように、店主は生暖かい視線を寄越してきた。
「えっ?」
「だから、逃げた亭主を追っかけているんだろう? 早く見つかるといいね」
はっ? 逃げた亭主?
「ち、違います。亭主なんかじゃ、わたしは未婚で……」
この店主、わたしを娘さんと呼んでたが、やはり単なる社交辞令だったのか。おかしいと思ったのだ、『娘さん』だなんて。
慌てて反論するわたしを店主は益々憐れんでくる。
「違うのかい? じゃあなんでまた、子持ちの男なんか……」
「う……、それは……」
弱った、 何も言えない。なんでって聞かれても、やはり端から見ると異常なことなのだろうか。女の身で男を捜し回るのは。
「おいおい、その辺で勘弁してやれよ、ダリオさん。人には言えない事情もあるのよ」
その時、扉が開いて大柄な男性が入って来た。
「マッシュ、あんた何しに来たんだ?」
店の主人ーーダリオさんが髭もじゃのその男性に声をかける。
「何って、あんたがお客さんが宿を探してるって言って来たんだろ」
マッシュと呼ばれた男性は、真っ黒な髭をワシワシと引っ張りながら不服そうに漏らした。
「なんだ、そうかい。いや、あんたが来るとは思わなかったから」
ダリオさんはわたしを振り返り、店へと入って来た男性を説明してくれる。
「マッシュはここらの商店主の中では顔役なんだ。あんたの宿を探してくれたのもこいつなんだよ」
「それは……、本当にありがとうございます」
わたしは椅子から立ち上がり、マッシュさんに向かって頭を下げた。
髪の毛と髭で顔が半分埋もれた男性は、こちらに向かって笑顔で近寄って来る。
「いや、いいよいいよ、奥さん。じゃあんたが、逃げた亭主を探してるご婦人なんだね?」
「えっ? いえ、わたしは……」
ダリオさんの方を向くと小さな目をバチバチとウインクさせて、マッシュさんに通じない合図を必死で送っているではないか。
この誠実そうな酒屋の主人が、わたしのことをなんと伝えたのか分かって、火を吹きそうなほど顔が熱くなった。
もう、恥ずかしいじゃないの、ダリオさん……。
だが今は、我が身の醜態を恥じている場合ではない。
とにかくそれよりも、マッシュさんが現れたということは、彼が宿まで送ってくれることに変わったのだろう。
腕捲りした肘から手にかけて、モサモサとした毛に覆われた逞しい腕を晒すマッシュさんを見て、わたしはゴクリと喉を鳴らした。
暗い夜道を見知らぬ大きな男性と歩く自分を、少しだけ想像する。それは思ったよりも勇気がいる行為だった。
ちょっと恐い……かなぁ? いや、いい人だとは分かってるのよ! 分かってるんだけど……わたしってあんまり経験ないから。だから色々と、その、男の人にびびってしまうと言うか……。いや本当、どっからどう見ても立派なおばさんなんだけどね。
「それはそうとマッシュさん、あんたが彼女を宿まで連れて行ってくれるのかい?」
ダリオさんが、わたしと同じ疑問を目の前の男性にぶつける。
髭を蓄えた大柄な男性は、その質問に手を振って返事を返してきた。
「いやいや、俺じゃないよ。俺はこの店まで宿の人間を連れて来ただけで……」
そう言いながらマッシュさんは背後に向かって、「お客さんだぞ」と声をかける。
その声に呼ばれ、大きな男性の陰から若い男が遠慮がちに出て来た。マッシュさんの影に、どうやら今まですっぽりと隠れていただけらしい。
一緒に歩くのが自分の倍はありそうだと感じていた男性ではなく、別の人間だと分かりホッと安堵の息を溢した。内緒だけど。
宿の人間とおぼしき男は頭を下げ、わたしの前へとやって来た。
「ようこそ、スルワの街へお出で下さいました。この度は当宿をご利用下さり、ありがとうございます」
そう言って顔を上げた男を見て、わたしは大声で叫んでしまう。
「ニック!」
「サ、サマンサ……」
そこにいたのは、わたしを見て驚愕の表情を浮かべて立ち尽くすニック・バーナーだったのだ。




