優しい知らせ
「久しぶりだね。元気にしていたかい?」
ジェイコブさんは、被っていた帽子を脱ぐと照れ臭げに頭をかき、再び手にした帽子を被り直す。いつも落ち着いた彼にしては、そわそわとしたせわしない仕草だった。
彼の赤くなった頬を見て思い出した。
そうだ、わたしはこの男にプロポーズされていたんだーー。
「あ、の……、ジェイコブさんわたし……」
すっかり忘れてしまっていた。
ニックがわたしの元へと来なくなり、その為に起こった諸々の騒動や自分自身の心情の変化に翻弄され、彼から受けた求婚など記憶の隅へと押しやっていたのだ。
なんて身勝手な女だろう。
反射的に目線を下ろしたわたしに、目前の男性は優しい声をかけてくれる。
「あの指輪はしてないんだね。それが君の答えと思って、間違いないのだろうか」
顔をあげると、変わらぬ穏やかな瞳にぶつかった。責めているのではない。雛を見守る親鳥のように暖かい瞳。
「ジェイコブさん……」
「それとも君も、少しは僕との将来を考えてくれたのかな? いい年した中年の、恥も外聞もかなぐり捨てたみっともない告白だったけど」
声に出さず大きく頷く。ほんの少し、想像してしまったのは真実だ。ジェイコブさんの優しさに包まれて、安らかに暮らしたいと思った。それは幸せなことだろうと思った。
「そうか……」
彼は帽子をまた剥ぎ取り、顔の前に押し当てる。
「では無駄ではなかったんだ……、僕の……あのプロポーズも……」
くぐもった声が、ゆっくりと吐き出されていく。肩を振るわせて俯くジェイコブさんは、そのまましばらく何も言葉を発しなかった。
もしかして、泣いているの?
わたしはなんてことをしてしまったのだろう。こんなにも優しい人に、しかも初めて求婚をしてくれた男性に、何も答えてあげられないなんて。
「ごめ……なさい」
又しても涙が出てきた。今日のわたしは泣いてばかりだ。自分が傷付けたジェイコブさんにまで、情けを貰おうと泣いてみせるなんて、なんて卑しい人間なんだろうか。
「サム、いいんだ」
彼から囁き声が届く。
「君は何も悪くない。元はと言えば僕が……、入り込む余地などないと分かっていたのに、弱っている君に付け入ったのだから」
「どういう……こと?」
「君には思う男がいるんだろう?」
ジェイコブさんは帽子を顔からずらすと、こちらへ視線を向けてきた。
あくまでも静かな瞳には、涙の幕が今にも溢れそうに膨らんでいる。
「ニックを、愛しているんだろう?」
「どうして、そのことを?」
「分かるさ」
ジェイコブさんはクスリと笑った。彼が目を細めた瞬間、頬に向かって一筋の滴が流れ落ちる。
「僕は君を見ていたから、君が誰を見ているかなんて分かりすぎるくらい分かった」
それから彼は帽子で自分の顔をゴシゴシと擦った。子供みたいで恥ずかしいと呟きながら。
「こう見えて、僕は彼に牽制したりしてたんだよ。とにかく君達を引き離したかったから、僕の職場に来ないかと誘ったんだ。なのにニックにはあっさり見破られて断られたけどね」
「えっ?」
それって……。
「君は純粋な人だから、僕の策略など気付かなかったろう? 勿論、彼がうちに来てくれたら、きちんと雇うつもりだったよ」
話を切って、ジェイコブさんは大きく息を吐いた。いつの間にか涙は止まったようだ。
「君達が仲違いをしたらしいと気付いた時、チャンスだと思った。だから千載一遇の幸運だと、君の気持ちも省みず先走ってしまったのさ」
すまなかったね、ともう一度悲しげに笑うと眉を下げる。すると彼の目尻の皺が深く寄って、柔らかい表情になった。
「あの指輪だけど、君にあげたものだから返したりしないでくれよ。それから、店での付き合いは今まで通りにお願いする。それとーー」
一息ついて彼は目を閉じた。深呼吸の後に見せてくれたのは、以前と何ら変わりのない暖かい笑顔で。
「君の幸せを、君達の幸せを祈ってる。幸せになれ、サム!」
「……ジェイコブさん……」
わたしは溢れてくる涙を抑えることも出来ず、馬鹿みたいに泣いてしまっていた。無様に泣くわたしの頭を、大きな手のひらが宥めるように何度も通り過ぎていく。
「サム、泣かないで」
こんなに優しくされる資格が、果たしてわたしにあるのだろうか?
こんな取り立てて魅力もない、地味で平凡な若くもない女に。
生意気で口ばかり、人の謝罪すら受け入れられず避けて逃げ回る。可愛げなんかどこを探したって一つもない、愚かな女に。
だから、ニックだって呆れたんだ。わたしの手の届かないどこか知らない場所へと、今度こそ本当に行ってしまったんだ。
「そんなに優しくしないで下さい。わたしはどうしようもない人間なんです……。自分だけが被害者だと思い込んで、説明をしようと何度も話しかけてくる彼を無視し続けた。わたしは被害者なんかじゃない……。だってわたし自身が望んだ結果だったんだから……、なのに彼から否定されることを恐れるあまり、全てのことから、目を瞑ってしまった大馬鹿者なんです」
一気に吐き出した言葉に、癒すようゆっくりと動いていた手が止まった。ピクリと固まった指が、戸惑っていることを伝えてくる。
困惑した彼の眼差しと出合い、わたしはようやく我に返ることが出来た。
「あ、わたしったら……」
どこまでこの男に甘えてしまうんだろう。こんなことを無意識とは言え彼に訴えるなんて、可哀想にとでも慰めて欲しかったのだろうか。
「すみません、わたしったら何てことを……。今のは忘れて下さい、何でもないんです」
それではこれで、と頭を下げ引き揚げようと背中を向けたわたしに、ジェイコブさんの低い声が追いかけてきた。
「待ってくれ。もしかして君達は、まだ仲違いしたままなのか?」
そして尚もしつこく質問を重ねてくる。
「答えて欲しい。ニックがいなくなったと言うのは、本当のことなのか、サム?」
「……本当です。彼は、行き先も告げずいなくなってしまったんです。全てわたしの……、わたしの浅はかな行動のせいなんです」
嫌だ、また涙が出てきてしまう。この優しい人の前で、同情を買うような醜態はもう晒したくないのに、どうしてこうなの、わたしは……。
そうか、とジェイコブさんは深い息をついて続けた。
「サム、僕はね、昨日まで西にある港街まで出かけていたんだ。君も知っているかな? 今あの街では建設ラッシュでね、人手が全然足りないんだよ。それで少々遠方になる僕の所にまで、付き合いのある親方衆から仕事の依頼がきたんだ」
彼は帽子を再び被り直し、突然脈絡のない話を始めてくる。
金物職人であるジェイコブさんの工房が、建具類など広範囲に渡って仕事を請け負っていることは知っていた。だがそれが、今の話と何の関係があるのか。
意味が分からず彼を凝視してしまうわたしを、声の主は苦笑混じりに見返してきた。
「それでようやく出来た製品をやっと納品して帰ってきたところさ。だからニックのことは、実は今日噂で初めて聞いたんだ。その時はまさかと思ったんだが、本当のことだったんだね」
「ジェイコブさん、あの……?」
何が言いたいの?
目の前で仕事の話を切り出した男性は、深い愛情を感じさせる穏やかな笑顔を一変させて、青年のようにいきいきとした表情になり、片目を瞑って続きを口にした。
「ねえ、サム。僕はニックの居場所を知っているかもしれない。そうさ、きっとあれはニックだったんだよ」




