あなたの消息
「ずっと好きだったって、何を言うの……」
わたしは驚いて妹を見返した。予想もしてなかった言葉に、心臓がおかしなくらい早く動き出す。
「どうしたのよ。そんなにびっくりして」
ディジーが歯を見せて笑顔になった。意地の悪い、作り物めいた笑みだった。
何故そんな顔をしてくるのか、妹の気持ちが少しも分からない。
「どうしてって、だってあんたが変なこと言うから」
「変なことって?」
「だからわたしが、あいつをずっと、その、好きとか……」
「好きだったじゃない。姉さんは昔から、あの憎たらしい男が」
「好きじゃないわよ! 何を言うのよ。それどころか大嫌いだった。わ、わたしはずっとあいつに、苛められていて……」
「憎んでいた?」
「そうよ、憎んでいたわ! あんたも覚えているでしょう? 父さんや母さんが死んでからのことを」
気が付けばわたしは荒い声を上げていた。わたしの側で、過去のいきさつを見てきた筈の妹が、何故馬鹿な誤解をしているのか理解出来ない。
ディジーは興奮して大声を出すわたしを、静かな声で迎え撃つ。
「わたしも不思議に思ってた。どうして姉さんは嫌いだと言いながら、あいつを待っているんだろうって」
「待ってた?」
「そうよ。ずっと待ってたじゃない。あいつが学校から帰って来るのを、わざわざ表に出て待ってたじゃないの」
わたしはびっくりして息が出来なくなった。
妹が口にしたのは、両親亡きあとわたしが泣いて暮らしていた頃のことだ。あの頃確かに、表でよく泣いていたわたしは、帰宅するニックと鉢合わせになることが多かった。でもそのせいで、心ない暴言に余計に傷付いていたのである。
それなのに、それを待っていた?
いったい、何を言い出すのか。
「あんたね、どこをどう間違えたらそんな考えに辿り着くの。わたしがあの頃表で泣いていたのは、あんた達に泣き顔を見せたくなかっただけで……」
「そうね。姉さんはいつもわたし達のせいにした。わたし達のため、わたしとヘレンのためにと色んなものを我慢して、いつもいつも自分を押さえて、そしてそんな思いを全部押し付けてきていたわ」
「ディジー、あんた。……そんな目でわたしを見ていたの……?」
わたしの動揺した顔を見て、妹はようやく表情を和らげる。罰が悪そうに眉を下げ、自らの額を押さえて目を閉じた。
「誤解しないで、わたしは姉さんを非難したい訳じゃない。わたしは姉さんに感謝してるし、ヘレンもそう。わたし達は二人共、姉さんに幸せになって欲しいし、もう二度と同じ過ちを繰り返して欲しくないのよ」
「過ち?」
ポツリと呟いたわたしの声に、ディジーは深く頷いた。
「ねえ、姉さん。不思議じゃない? どうしてあんなに深かった悲しみが、短期間で癒されたのか」
「何が……言いたいのよ?」
「わたしはね、あいつのせいだと思う。毎日飽きもせず嫌味を言ってきて、姉さんを怒らせていたあの男のお陰じゃないかって」
ディジーがわたしの肩にそっと手を置く。妹の温かい体温が、手のひらから流れ込んでくるようだった。
「姉さんはあの男とやり合うことで、元気になっていったのよ。だけどそれは、誰にでも出来ることじゃなかった。あいつじゃなきゃ、姉さんが心の底で恋をしていた、あいつじゃなきゃ無理だったのよ」
「何言ってるの! あんた、やっぱり勘違いしてる」
わたしは妹の手を肩から振り払って息を吐いた。イライラして、体の震えを抑えることが出来ない。
何故、ディジーはわたしの気持ちを惑わすようなことを言ってくるのか。何の目的があると言うのだろう。
確かに今のわたしは、あいつを憎からず思っている。でもそれは、ごく最近のことで、そんな昔からの話じゃない。
それにあいつにとってわたしは、ただの隣人でしかないのだ。そしてその隣人という関係ですら、今となってはないに等しい。
「わたしがあんた達より早く父さんや母さんの死から克服出来たのは、確かにあいつの憎まれ口のお陰かもしれない。でもそれは、恋とかそんな甘いもんじゃないのよ。わたしはあいつが憎くて、馬鹿にされるのが嫌だったから、だから……」
「弱虫だと、呆れられるのが怖かったから?」
「呆れって? ディジー、あんたねぇ……」
「それとも、学校に通えなくなった自分を、忘れて欲しくなかったからなのかしら」
「いい加減にして!」
何を言っても無駄なのか。ディジーはあくまでも、わたしの心を決めつけてしまうつもりらしい。
口を閉ざしたわたしを憐れむように、妹は優しい声を出した。
「ねえ、姉さん。あの頃あの男に憎しみしか感じていなかったと言うのなら、どうしてあいつの帰宅時間に合わせたように表にいたの? 大嫌いなあいつに遭遇してしまうのに?」
「それは……前も言ったでしょう? あんた達にーー」
「わたし達から隠れたかったのなら、部屋で泣けばすむことじゃない。それなのに姉さんは、まるであいつが帰るのを待ち構えたかのように、表にいた。それは何故?」
ディジーは笑いながら首を横に振っている。わたしの答えでは、不十分だと言ってるようだ。
「わ、わたしは……」
どうしよう。妹の疑問を晴らすことが出来ない。今まで考えたこともなかったが、言われてみればどうしてだったのだろう。
わたしは本当にニックを待っていた? まさか……。
「あの男とやり合ったあとの姉さんは、いつもカンカンに怒って家へと戻って来ていたわ。それは当然だとわたし達も思ってた。だけど同時にずっと変だと思ってたの。嫌だと言いながら、表に出るのを止めない姉さんをね」
声が出ない。
自分の気持ちが分からない。
わたし、わたしは……?
「わたしが姉さんの気持ちを理解出来るようになったのは、ずっとあとよ。自分も恋をするようになって初めて、嫌いだと言いながらあいつを意識してしまう姉さんの心が、手に取るように分かりだしたの」
「ディジー……、わたし、わたし……」
そうだったのか?
わたしはずっと、ニックに恋をしていたの?
思い返せば、あいつから最初に投げ掛けられたきつい言葉。その言葉にショックを受けてそれ以降、自分の気持ちに封をするようになったのかもしれない。
ニックから向けられるのは、いつだって冷たい言動ばかりだった。
それに傷付きながらも、彼との接点を手離せなかったのは何故なんだろう?
あいつが結婚すると聞いた時、直前で失恋したことなんかよりもっとずっと大きく、惨めで寂しくて、まるで独りぼっちになってしまったみたいに感じてしまったのは、恋をしていたから?
呆然と立ち尽くすわたしの背を、妹は包み込むように抱き締めてきた。
「驚いてるのね、分かるわ。今の今まで気付かなかった鈍感な姉さんだもの。だけど今は自分の気持ちに気付いてる。そうなんでしょう?」
「どうしたらいいの……? ディジー、わたしどうしたら……」
涙と鼻水で汚れた顔を近付け、嗚咽まじりの声を出して妹にすがりつくわたしを、ディジーは励ますよう一層強く抱き締めた。
「気付いたんなら、素直になればいいのよ。前のように自分を偽っちゃ駄目!」
自信を持ってと妹は力強く背中を押してくれる。その一言に励まされながらも、肝心なことを思い出してしまい、ささやかな勇気が剥ぎ取られていくようだった。
肝心なことーー、それはニックの気持ちだ。
わたしが好きだと言ったら、あいつはどう思うだろう。あいつはわたしの好意に嫌悪感を持たないだろうか?
いや、きっと持つに決まっている。だってわたし達は天敵同士。ずっと対立していたのだから。
「やっぱり駄目。無理だわ。あいつは……ニックは、わたしなんか嫌いなのよ……。だってわたしは、目障りな泣き虫女なんだから」
「馬鹿っ!」
頬を張られたみたいに目の覚めるような大声が聞こえてきて、驚いて声の主を見つめた。
わたしと同じように、涙と鼻水でグチョグチョのディジーが恐い顔で睨み付けてくる。
「ディジー……?」
「そんなこと、なあんにも心配しなくていいの! 姉さんはあの情けない男に、当たって砕けてくればいいのよ」
「えっ? 砕けてって、ディジー……」
「もう、いいから! 覚悟を決める! いいわね?」
妹はそう叫ぶとわたしの体を力一杯押して、「ニックさんの居場所を、今すぐ聞いてくるのよ!」と店の外へと放り出した。
***
「ごめんなさい。わたしにも教えてくれなかったの」
マチルダさんはわたしの落胆した顔に、申し訳なさそうに頭を伏せた。
「まだ仕事が安定しないから教えられないって。頑固な奴で言い出したら聞かないから、わたしもそれ以上聞き出せなかったの」
「じゃあ、誰にも言わずに彼はいなくなったんですか……」
全身から力が抜ける。
わたしは崩れ落ちるように、隣家の洋裁店の床にしゃがみ込んだ。
マチルダさんが慌ててわたしを助け起こしてくれ、そのまま店内にある腰掛けに座らせてくれる。
「大丈夫よ。安定したらまた連絡してくると思うわ。そんなに情け知らずな子じゃないもの」
「それは……、いつだと思いますか?」
思わずマチルダさんの袖口を引っ張って問いかけた。わたしの真剣な眼差しに、彼女は眉を下げ柔らかい表情を向ける。
「そうね、一年……、早くても半年はかかるでしょうね。器用な子じゃないし、一人で娘と暮らすのだから、最初は日々の暮らしだけで手一杯だと思うし……」
「一年……」
わたしは彼女の服から手を離し顔を覆った。
一年なんて、時間がかかりすぎる。
それじゃ遅い。遅いのだ。
きっとそんなに時間が空いてしまったら、わたしのちっぽけな勇気なんて、風に吹かれてどこかへ飛ばされてしまうだろう。
それにニックには素敵な相手が現れるかもしれない。わたしと違って、あいつは女性に好かれる質みたいだから。
どうすればいいの。せっかくディジーから勇気を貰い、ニックの行き先を尋ねに来たというのに。どこに行ったか、マチルダさん達すら知らないなんて。
絶望感に打ちひしがれて黙り込んでいると、マチルダさんは労るように優しい声で話しかけてきた。
「サム、あなた。もしかしてあの子のこと……」
「い、いえ。そんなんじゃありません……、わたしはただ……」
わたしは衝動的に彼女の言葉を遮った。
駄目だわたし、何を否定してしまったのだろうか。ニックの消息をわざわざ聞きに来たのだ。見え見えじゃないの。違うと言ったって、これ以上ないくらいあからさまだ。
そんな自分があまりにも滑稽で、どうしようもなく恥ずかしかった。
マチルダさんの視線に晒されるのさえ、耐えられない。
「わたし帰ります。失礼しました」
急いで立ち上がって戸口の方へと向かう。慌てたような彼女の「サム、待って」と言う声が追いかけてきたが、足は止められなかった。
マチルダさんを振り切り洋裁店を出たわたしは、前の道に立つ人影に気付いて小さく声を上げた。
人影がゆっくりと振り向く。
「サム、よかった。会えて」
わたしを柔和な笑顔で見つめていたのは、金物細工職人のジェイコブさんだった。




