知らされた現実
扉が開く音がして来客が訪れたことに気が付く。手元の帳簿から視線を外し、音のした方へ意識を移した。
出入口に立っているのは、又しても若い女性客だった。顔を上げて彼女を見るわたしを無視して、戸口の所から店内をぐるりと覗き見ている。お目当てを見付けることが出来ないと分かるやいなや、彼女は目を剥いてこちらに向かって歩いてきた。
「ニックさんはどちらにいらっしゃるの?」
ああ、まただーー。
わたしはため息を殺して彼女に微笑みかけた。
「彼はいません、お客様」
「お休みなの?」
「休み? さあ……」
「さあって、あなたね……」
わたしの要領を得ない返答に、女性の顔はみるみる赤くなっていく。
「誤魔化してないで答えてちょうだい。彼はどこにいるの?」
遂に彼女はキレたように叫んだ。流麗な弧の形を崩して吊り上がった眉と険しく細められた藍色の瞳、中央にある鼻は興奮のため広がって荒い息が出ていた。
「分かりません」
わたしは彼女の怖い顔を避けるように、帳簿へと視線を落としながら答えた。
「分からないってどういうこと?」
わたしの仕事を邪魔するかのごとく、目の前に握りこぶしをわざと落として、女性客は質問を続けていく。
「あの話、本当なの? 彼が辞めたって」
やっぱり、この人も知っている。
わたしは再び顔を上げて彼女を正面から見つめた。息をつめて見つめてくる目前の女性に、真面目な顔で答える。
「ええ、彼は辞めました」
「嘘! 本当なの? ……信じられない」
取り乱した様子の女性客は奇声を発して、大急ぎで店から出て行った。彼女が店内に滞在していた時間は、たったの数分。そんな短い時間でも充分事足りる用事だったようだ。
まるで嵐が過ぎ去ったように騒がしく女性客がいなくなってしまうと、静かな空間が戻ってきた。
これで何人目だろう。
ニックが店先に立たなくなり、彼の不在を問いつめてきた客は。
わたしは指を折って数えてみた。すると両手でも足りないことに気が付く。びっくりだ、結構な数になる。
不思議なことだがあいつは、お客様に本当に愛されていたようだ。わたしではこうはいかないだろう。
彼が我が家に突然来なくなってしばらく、彼女達も最初は遠慮をしていた。店に入ってニックの姿を探せなくても、落胆した顔こそすれ黙って適当な物を購入して帰って行く。しかしそんな日々が数日経ち、とうとう我慢の限界を越えたらしい。
ある日一人の妙齢の女性が、彼の消息を聞いてきた。
それからは、堰を切ったように我も我もと次々質問者が現れてきて……、面倒になったわたしは、彼は辞めたのだと答えるようになっていた。
あいつ目当ての客の中には、辞めたと聞いても諦めきれずに確認しにくる、さっきの女性のような人もいる。それらに一々答えていくなど、とてもじゃないが耐えられない。だから辞めたの一言で、簡単に片付けてしまったのだ。
確かにこの説明は、正確には事実と違う。あいつは元々この店に勤めに来ていた訳ではないし、そもそもわたし達に雇用関係はない。我が家に来て持て余していた暇を潰すために、気まぐれで始めた店番だったに過ぎないのだ。
それがいつの間にかわたしの、店主の地位を脅かしていたんだからふざけた奴である。
始めた時も気まぐれなら、それを辞める時も気まぐれでしかなかった。あいつにとってこの店で過ごしたことなど、その程度のことだったということだろう。
何も告げることなく、急に来なくなった。それだけが真実で、その理由や今後のことなどわたしに分かる筈がない。だって聞いてないんだもの。
だからもう辞めたのだって、言い切ってしまっても構わないではないか。どうせもう二度と、ここに顔を出す気などないのだから。
そう、そんな奴なのだ。いい加減で、他人を困らせるのが得意な勝手な男。そんな奴に義理立てする必要がある? ある訳ない。
ニックのこれからなんか、わたしの知ったこっちゃないわよ。
わたしは帳簿から目を上げて、愛着ある見慣れた店内に視線を這わせた。
誰もいない、小さな田舎の雑貨屋。ほんの数日前までは当たり前だった光景。
だが七年ぶりに舞い戻ってきた隣の息子が現れてからというもの、全く様相が変わってしまっていた。
沢山押し寄せてくる見たこともない女性客達。いつの間にかかつての常連の姿は消え、代わりに増えた新たな常連客。
そして今、それらが皆、ニックと共に潮が引くようにいなくなった。
これでよかったのだ。また以前の、細々とした商いをしていくことが出来るのだから。
そう、強く思い込もうとした。
だってそうしないと、全然違うことを考えてしまうから。
どうしてニックに、あんな態度を取ってしまったんだろう……なんて、しなくてもいい後悔にさいなまされてしまうから。
「姉さん、随分塞ぎこんでるじゃないの」
突然背後から声が聞こえ、わたしはハッと目元を押さえた。目尻に浮かんできていた汗とは違う液体を、素早く拭い妹へと振り返る。
「デ、ディジー。来てたの?」
常とは違って硬い表情のディジーが、住居の方から顔を出していた。また勝手に上がり込んでいる。今日はいったい何しに来たのか。
「何か用事? ランもいるの?」
「ねえ、悲しいんでしょう?」
だがわたしの問を無視して、妹は逆に質問してくる。
「悲しいって、何が?」
わたしの返した答えに、妹は目を見開いて突っかかってきた。
「呆れた。自分の気持ちさえ誤魔化しているの? 鏡を見てみなさいよ。どんな顔してるか確かめてみるといいんだわ。あのふざけた詐欺師、あいつがいなくなった時だってここまで酷くはなかったじゃない」
「何を怒っているのよ」
「呆れたって言ったでしょう。怒ってなんかいないわよ!」
そう言う妹の顔は、どう見ても怒りをあらわにしている。何故叱られてしまうのか、わたしには分からなかった。
「この前リリィちゃんに会ったわ」
強張った冷たい声が聞こえてきた。だがわたしは、それにすぐさま反応してしまう。
「リリィちゃんに? いつ?」
リリィちゃんーー、ニックの幼い一人娘。
わたしはもうずっと、彼女に会っていなかった。
あの日ニックがリリィちゃんを追い帰して、わたしにパーティーの夜の真相を告げた日以降、彼女もまた我が家に来ることはなかった。
父親がやめてしまった訪問を、娘だけが続けるのも難しいだろう。そう思って仕方がないと諦めていた。
彼女はまだ七歳の幼い少女で、何をするにしても親の思惑から抜け出して行動するのは困難だ。彼に止められてしまえば、たとえお隣同士という気安い距離でも、行き来は出来なくなってしまう。
彼女の明るい笑い声や微笑ましい会話、それらをたまらなく身近に感じたくても、わたしは家族でもなんでもない。
彼女との時間を要求する権利など、ほんの少しだってないのである。
せつなかった。
会いたくて、チラリとでも少女の姿が見れるかもと表を歩いてみたりもしたが、ニックに禁止されているのか、外遊びをする姿さえ見かけることが叶わなかった。
それがどんなに寂しかったか分かるだろうか。
いつの間にか小さな少女が、わたしの中でとても大きな存在になっていたことに今更ながら気付かされた。そう、その父親に負けないくらいに。
「どこで会ったのよ、ねえ!」
「ちょっと前かな。ランに会いに来てくれたのよ」
わたしの必死な問いかけにも、ディジーの表情は和らぐことはなかった。妹はプイッと目を逸らして、感情のこもらない声で続ける。
「お別れの挨拶にね」
「お別れ? どういうこと!」
わたしは驚いて妹に詰め寄った。今の言葉が信じられない。何かの聞き間違いではないのか。
「ニックさんが実家を出て行くの。それについて行くんじゃない。父娘なんだもの、当たり前でしょう?」
淡々とした答えが返ってきた。わたしの動揺とは対照的に酷く落ち着いている。
「元々彼は、ずっと実家に世話になるつもりなどなかったのよ。仕事を見つけたら、出て行くと言ってたんだから。小さい子供がいると、職探しのために動くのがままならないから、取り敢えず戻って来ただけで、友人や知人に仕事のつては頼んでいると言ってたわ」
「職探し……?」
「ええ、そうよ。仕事をしなくちゃ生活出来ないじゃない、当然でしょう。子持ちの独り身のせいで、なかなか仕事が見付からなかったみたいだけど、ようやくいい所があったって言ってたわ」
「う、嘘……」
頭を、固い岩か何かで打たれたみたいだった。ディジーの声が随分遠くで聞こている。
「嘘じゃないわよ。もう二人とも、とっくに行っちゃったわ」
「な、ど……どうして?」
どうして、そんな……。わたしは何も聞いてない。わたしに何も告げずに、ニック達は去って行ったと言うのか。
本当のことだとは思えなかった。妹の態度を見れば、嘘なんか言ってないことぐらい分かる。
分かるけど……。
理解したくなかったのだ。二人がお隣にいないなんて。
知らない内にどこかへ行ってしまったなんて、どうしても……。
「どうしてって、姉さんのせいじゃない。姉さんが自分の気持ちに素直にならないからでしょう」
「わたしのせ……い?」
ディジーは何を言っているのだろう。
妹から吐き出された言葉を受け止めることが出来ないで、わたしはぼんやりとこちらを睨んでくる視線と目を合わせた。
逸らしていた顔を向き直し、ディジーはわたしを正面から見つめていた。
そして目に溜まった涙を溢れさせながら、興奮したように大声で叫ぶ。
「ずっとあの男を好きだったくせに、どうして自分のことなのに分からないのよ、馬鹿!」
妹の涙混じりの鼻声が、客のいない店内に響き渡っていた。




