絡まる絆
薄い花びらが、一枚一枚丁寧に刻まれている可憐なデザインの指輪が、薬指で光を弾いて存在を主張してくる。
意匠を凝らしたその美しい細工を、ぼんやり眺めつつわたしは密かにため息をこぼした。
『サム、返事は今すぐでなくていいから……。ゆっくり考えて、そして答えを聞かせてほしい』
ジェイコブさんの穏やかな、だが強い決意を感じさせる静かな声が耳に残る。
わたしにとって生まれて初めてのプロポーズは、意外な男からだった。
彼の言葉に、答えを出さなくてはいけない。煌めく指輪が、必死で想いを伝えてきた男性の、硬い表情と重なってくる。
また一つ、小さな息が口から外へと出て行き消えていった。
こんなわたしでも、プロポーズにささやかな憧れを持っていた。
だけど年を重ねるごとに、所詮叶わぬ夢だったと思い知らされていったのだ。わたしに求婚する男など現れない。このまま気ままに独りで生きていこう、そう決心するに至ったのである。
思い返せばあの詐欺師ですら、はっきりとした言葉など口にしなかったではないか。思わせ振りに振る舞って、それに初なわたしが踊らされていただけ。
真摯な求婚をしてくれた男性は、ジェイコブさんただ一人だ。
鈍感なわたしは、彼の気持ちに全然気付かなかったから、喜びより驚きが大きかったが嬉しくない筈ない。
そう、嬉しかった。
彼の温かい言葉が、すさんで荒れていた心を優しく包んでくれた。あの穏やかなぬくもりの中で、ずっと守られて過ごせていけたらどんなにいいだろう。
だけど……。
どうしてなの?
どうして嬉しい筈なのに、どんよりとした曇り空のように重たい気分が晴れていかないのは。
どうして……?
「うわあ〜、お姉ちゃん。綺麗ね、その指輪」
寝室で一人、ぼんやりと指輪を見ていたわたしに気が付きリリィちゃんが側にやってくる。
「ねえ、どうしたの、それ?」
「もらったのよ」
少女の好奇心に満ちた瞳に後ろめたさを感じながら、わたしはぶっきらぼうに答えた。
「ええ〜、いいなあ」
リリィちゃんの素直な感想がチクチクと胸に突き刺さる。彼女は単に指輪が羨ましいだけなのだ。女の子だもの。キラキラしたアクセサリーは誰でも好き。
分かっているのに引け目をかんじてしまうのは何故?
「お姉ちゃん、見せて見せて」
リリィちゃんはわたしの手に小さな指で触れてきた。彼女の手が指輪をはめた薬指を捕える。
「駄目よ」
わたしは思わずその手を払って右手で指輪を覆った。
リリィちゃんの驚いたような丸い目と視線が合う。
「ごめんね」
見られたくない。指輪を嵌めた手を背中に回して、彼女の視界から隠した。
「こ、これは大事なものなの……。だから、なくなったら困るのよ」
だって、わたしはまだジェイコブさんに返事をしていない。だからあの求婚はまだ保留の段階でしかなく、この指輪もわたしの物だと決まったわけではないのだ。
「い……や」
リリィちゃんの表情が暗く翳った。青い瞳が、今にも泣きそうな色を帯びていく。
「嫌だ、ねえお姉ちゃん、見せて! 指輪を見せてよ!」
「リリィちゃん?」
「意地悪しないで、リリィにも見せて。……お願い見せて」
少女の顔が突然くしゃりと歪んだ。そのまましゃくりあげたように泣き始めた彼女は、わたしの腕を掴んで体ごとぶつかってくる。
「サムお姉ちゃん、リリィのこと、嫌いになったの? そんなことないよね? 嫌いになんて、なってないよね?」
「どうしたの? 嫌いになんかなるわけないじゃない。リリィちゃんのこと、わたしは大好きよ」
わたしは驚いて小さな背中を抱き締めた。リリィちゃんの震える体が、嗚咽とともに大きく揺れている。
「だって、だって……、お姉ちゃんとパパ、変なんだもん……。ま、まるで、喧嘩したみたいに、く……口きかないし……」
彼女の瞳から次々大粒の涙がこぼれてきた。
「リ……リィが、リリィ……が、パーティーの日に、無理やり仲直りってしたから……。だからお姉ちゃんとパパが……おかしくなっちゃった」
「違う! 違うわリリィちゃん。お姉ちゃんとパパがおかしくなったのはあなたのせいじゃないのよ!」
わたしは彼女を抱く腕に力を込めた。泣きべそをかくリリィちゃんの、赤くなった鼻の頭に唇を寄せ彼女の不安を取り除く。
「だけど、だけど……、お姉ちゃんとパパが……、喧嘩ばかりしてたママとパパみたいなんだもん。お姉ちゃんが……、リリィやパパのことを、嫌いになったママみたいなんだもんっ」
そう叫ぶと少女はわたしに抱きついてきた。しがみついてくる肩から、切れ切れの息がしゃっくりのように漏れていた。
ハッとした。もしかして両親の不仲を思い出したのだろうか。父親を避けてしまうわたしに、母親の姿を重ねてしまったのか。
嫌だ。そんな女と一緒にされたくない。
わたしは、素直で健気なリリィちゃんが愛しいほど大好き。わたしはそんな彼女を深い愛で育ててきたニックが……。
自分の視界が涙で滲むのを感じながら、わたしは夢中になって言葉を吐き出した。
「違う、違うわ。わたしはリリィちゃんが大好き。物凄く大好きなんだから」
「本当? サムお姉ちゃん嘘じゃない……?」
リリィちゃんが頭を上げてわたしを見返してきた。涙と鼻水で赤く腫れた顔が痛々しい。
彼女の丸い目に大きく頷き返す。
「ええ本当よ。信じてくれる?」
「じ、じゃあパパのことは? パパのことも好き……?」
「それは、もーー」
「よすんだ、リリィ!」
背後で突然低い声が響いた。思わぬ侵入者に動揺して、声を切ったわたしの横を大きな影が通り抜ける。
「悪かった、サマンサ。リリィが我が儘を言って」
ニックの声がすぐ耳元で聞こえた。途端に夢から覚めたように現実が戻ってくる。
今わたし、何を言おうとしていたの? 『それはーー』のあとを何と続けようとしていたのか。
彼の手が、リリィちゃんの肩にかかり思わず少女を抱いていた手を離した。それから条件反射のように俯く。
駄目だ。現実を思い出すと素直な自分には戻れない。娘には優しい父親でも、わたしには全然違う顔を見せてくる男を、どうしても視界に入れる勇気が湧いてこないのだ。
「べ、別に……。我が儘なんかじゃないわ。わたしは本当に、リリィちゃんが好きだもの」
無言の視線が耐えられなくなり、わたしは苛立つように顔を背けた。
何故、何も言わないのだろう。いつもは煩いくらい弁解してくるくせに。
「パパ、お願い! リリィ、お姉ちゃんにまだ聞きたいことがーー」
「止めるんだ!」
大声で少女の懇願を止めたあと、ニックは強引に娘を自分の方へ引き寄せて彼女の目線まで屈んだ。
「お前が聞きたいことは代わりにパパが聞いておく。だから、今日はもうマチルダ伯母さんのとこへ帰るんだ」
「嫌、嫌よ……。リリィは自分で」
「リリィ、お願いだからパパの言うことを聞いてくれ!」
泣きじゃくる少女に、彼は有無を言わさず命令を繰り返した。
「パパの馬鹿! リリィの気持ちなんか、何も分かってない」
リリィちゃんが顔を真っ赤にして捨て台詞を吐いて出て行くと、ニックの視線が再びわたしに戻ってくるのを感じた。
緊張で肩をいからせるわたしに、彼は苦笑を漏らす。
「心配するな。あいつと同じ質問なんかしないから」
「べ、別に心配なんか……」
どうしよう。声が震えてしまう。足にもまるで力が入らなくて、ニックの前から逃げることさえ出来ない。
相変わらず顔を向けないわたしに、ニックはため息をついた。彼はポツリと呟く。
「あの日みたいだな」
「あの日?」
「ああ、ほら俺が結婚前に、一度お前の店に来たことがあったろう?」
「ああ、あの時のことね……」
嫌な思い出だ。古い記憶が甦り、わたしはすぐ側に立つ男を睨み付けたくなった。
詐欺師の男に騙されて塞ぎ込んでいたわたしの前に、結婚が決まり明るい未来に輝いていた、幸せ一杯のこいつが現れた日のことだ。忘れてなんかいない。惨めな思い出。
「あの日のお前も、こんなふうに俺を見なかった」
ニックの声が自嘲めいた笑い声を滲ませる。
何故そんな声を出すのか? 辛い思いをしたのはわたしの方よ。
「見たくなかったのよ、あんたなんか。あの時のわたしは最悪だったんだから」
そうよ。どんなに辛かったと思うの? どうして不幸なわたしを嘲笑うかのようにやって来たあんたに、愛想を振り撒いてやらなきゃいけないのよ。
「分かってたさ、俺だってお前の気持ちぐらい。だから、だから俺はあの時……」
「えっ?」
ニックが苦し気に絞り出した言葉に反応して、わたしは無意識に彼の顔を見上げた。
淡い空色の瞳が、真っ直ぐこっちを見つめてきていた。
苦悩するように眉をしかめ、唇を噛み締めて、叱られた少年のように頼りなげな顔をしている。
何日振りに見たのだろう。憎たらしくて、でも一旦見つめてしまうと逸らせなくなるこの顔を。
馬鹿よ。あれほど我慢していたのに。
わたしは両手で顔を覆って彼の姿を隠した。でないと言ってはならないことを、口走りそうだったのだ。
お願い、わたしを好きになって。わたしの気持ちを受け入れてーー
ニックはそんな頑なな態度を取るわたしに、言葉をなくしたように黙り込む。
長い沈黙のあと再び紡がれ始めた声は、先ほどまでとは何かが変わっていた。
「ジェイコブさんは、いい人だ。あの得体の知れない詐欺師とは違う」
酷く優しい声だった。だけどとても素っ気ない。一切の感情を殺したような淡々とした響きの言葉が、否応なしに耳に入ってきてわたしの気持ちを更に暗くしていく。
何故この声が、こんなに寂しく聞こえてしまうのか。どうしようもないほど諦めの悪い人間なのか、わたしは。
「何も悩む必要はないさ。お前はあの真面目な男に、安心して飛び込んでいけばいい。ーーお前はまだ汚れてなどいないのだから」
「えっ?」
ニックは驚いて彼をまじまじと見つめるわたしに、眉尻を下げ柔らかい笑みを投げ掛けてきた。
今、何を言ったの?
「ずっと言わなくて誤解させて悪かった。あの晩俺とお前の間には何もなかったんだ。お前はすぐ眠ってしまったから、何かあったと勘違いしてしまっただろう? だが真実は違う。お前が気にやむことは何もない。だから安心して、あいつと幸せになれよ」
彼は小さな声でそう告げると、背中を見せ寝室から出て行った。呆気に取られたわたしに、言葉の意味を問いただす時間も与えぬほどあっという間に。
そしてこの日を境に、二度と店にはやって来なくなったのだった。