悲しい謝罪
10/31サブタイトルと本文を一部変更致しました。
11/4 本文を大幅に改稿しました。内容には変更ありませんが、公開して一週間もたってからで本当に申し訳ございません。
11/6 ラスト近くのほんの一部、文章の語尾を変えました。再々ですみません。
もう少し寝ていたい、とベッドから離れたがらない体を気力で起こし、居間へと入ったわたしはあまりの惨状に言葉をなくした。
室内は散々たる有り様だった。理由は簡単だ。昨夜のパーティーのあと、片付けをさぼったから。
テーブルの上には食べ残しが乗った食器や酒瓶、グラスなどが残されたままになっており、床の上には、倒れたまま放置されている椅子や、こぼれたお酒か何かの汚れまである。部屋の中に残った酒の匂いと相まって、はっきり言ってとても汚ならしい感じだ。
朝の清々しい空気の中には、不似合いなほどよどんだ光景。
わたしは盛大なため息をついて、床に転がった椅子に手をかけた。
パーティーの準備は妹がしてくれたが、片付けまで頼むのは甘えすぎと言うものだろう。これはわたしの仕事である。それは分かっているのだが、どうして昨日の内にやってしまわなかったのかと悔やまれる。
そうよ。昨日だったらニックの奴にも、手伝わせてやれたのに……。
『サマンサ……』
不意にあいつの声が聞こえたような気がして、わたしは辺りを見渡した。だが、勿論誰もいない。今この家にいるのはわたし一人の筈だ。彼の声がしたと思ったのは、どうやら気のせいだったらしい。
『サマンサ……、このままじゃ、俺は……』
苦しげな甘い声が、わたしのうなじを掠めていくよう耳に響く。
嘘? やっぱりいるんじゃないの?
手にした椅子を離して、もう一度あいつの姿を探した。だがやはり静かな室内には、わたしの他には誰もいない。聞こえたと思った声は、ただの幻だったのだ。
なんてこと! 発火しそうに熱い頬を覆う。えっと、とにかく、落ち着かなくては。
『サマンサ……、俺は……』
あのあと、何を言うつもりだったのだろう? ーーじゃなくて。
これは、今聞こえている声なんかではない。ただの、耳に残った記憶でしかないのだから。一々びくつかなくてもいいの!
分かってるわよ、分かってるけど……。
『サマンサ……、サム……』
「あ〜もう!」
わたしは大声で喚くと、床にしゃがみこんで頭を振った。奴の声を頭の中から振り払いたかった。
こんなふうにわたしの中に、あいつが居座ってしまうなんて信じられない。
考えちゃいけないわ。それより、早く思い出さなければ。わたしは何をしようと思ってたのかしら? そうそう、確か片付けをしようとしてたのよ……。
ーーでも変ね。
ニックはわたしのことを、サムと愛称で呼んだりしないんだけど……。
あ〜、また!
「サム姉さんたら。何してるの?」
「えっ?」
突然聞こえてきた声に驚いて振り向けば、妹のディジーが、廊下からこちらを覗き込むようにして立っていた。
「あ、あんた来てたの。い、いつから?」
……てか、見られたかしら、今のわたしを。
「さっき来たばかりよ。姉さんたら一人でジタバタして、呼んでんのに気付いてもくれないんだもの。それに何してんだか、謎の行動始めるし」
見てんじゃないのよ!
ってか、わたしを呼んでたのはディジーだったのか。どおりで、愛称が聞こえたような気がした訳だ。それにしてもわたしってば、何でもかんでもニックの声に聞こえてるっていうの?
「な、何でもないわよ。あんたこそ何しに来たの? こんな朝早くから」
恥ずかしさのためか、声が無駄に大きくなる。
ディジーは眉間に深い皺を寄せると、目頭を押さえながら低い声を出した。
「サム姉さん……、大声は止めて。わたし頭痛いの。二日酔いみたい……」
「二日酔い?」
「そう、夕べ飲みすぎたみたい」
妹は重たい足取りで居間へと入り、手近な椅子に腰をかけた。それから机の上に残された、誰の物とも知れない水を一気に煽って息をつく。
「げぇっぷ」
「ちょっと……、ディジー」
死んだように虚ろな目を伏せて、ディジーはバタリとテーブルに伏せた。
その様子は一見気の毒にも見えるが、昨夜のはしゃぎぶりようを思い出すと自業自得とも思えてくる。
わたしは噴き出したいのを我慢して、項垂れた背中に話しかけた。
「そんな状態で何しに来たのよ。ランはどうしたの?」
「……あのね、片付けを手伝いに来てあげたんじゃないの。姉さん一人じゃ大変でしょ? ランは義母さんに預けて来たのよ」
「それは、ありがとう……。助かるわ」
結局ディジーが、片付けにも手を貸してくれるらしい。小さくお礼を返したわたしに、妹は伏せていた頭をグルリと回してこちらを向いた。
まるで病人のように青い顔をしているくせに、ぎらついた眼差しを不気味に輝かせて視線を寄越してくる。
何なのだろう、あの目付き。ちょっと怖いんだけど。
わたしは嫌な予感を振り払いながら、面妖な視線の主から慌てて目を逸らした。
「ねぇーー」
いやにドスの効いたディジーの声が、静かな室内に大きく響き渡る。
「夕べはどうだったの?」
「えぇぇっ?」
びっくりして裏返ったわたしの声の侵入を、素早く耳を塞いで防ぐと妹は顔をしかめた。
「姉さん、大声は止めてって言ったでしょ……」
「あ、ごめん……。だけどあんたが……」
変なこと聞くからでしょうがーー。
とは、間違っても言えやしないのだけど……。
これ以上こちらの動揺を知られるような言動は、避けた方がいいだろう。
だがわたしの心配は、杞憂に終わったようだった。ディジーは額を押さえて立ち上がると、先ほどまでのやり取りを忘れたかのように宣言した。
「さっ、姉さん。片付け始めるわよ」
「えっ、ディジー?」
何よ、もう聞いてこないの?
さっさとテーブルの上を片付け出した妹を、わたしは呆気にとられて盗み見た。
断っておくが、決してしつこく迫られたかった訳ではない。ええ、勿論そうですとも。
「姉さん、何じっとしてんの。さっさと動いてよ」
「わ、分かったわよ」
ディジーの鋭い声が飛んできて、わたしも急いで投げ出した椅子を掴んで立ち上がった。
***
すっかり部屋が片付き、居間が昨日以前の状態に戻った。
燐家に借りたテーブルや椅子は部屋の隅に寄せて置き、男手が来たら運んでもらうよう準備をしておく。
子供達が描いて壁に飾っておいた絵は、可愛いんで暫くそのままにしておくことになった。
妹のお陰で思ったより早く片付いた。やっぱり二人だとあっという間だわ。
「わたしが来てよかったでしょ?」
朝食の用意を始めたわたしの横で、ディジーは青白い顔で押し付けがましく口にした。
「ええ、助かったわよ。ありがとう」
「ふふ。姉さん、水一杯ちょうだい」
「あんたね、もう帰りなさいよ。本当は辛いんでしょう?」
わたしから水を受け取り、ディジーは美味しそうにそれを飲む。
「やあよ、冗談じゃないわ。わたしには使命があるのよ」
「しめい?……何よそれ」
疑問に思って尋ねると、妹はニヤリとイヤらしく口元を緩めた。
「姉さんには、秘密」
「ええっ、何でよ? 教えてくれたっていいじゃない、ケチ!」
生意気なことを言う妹を、思わず揺すってこらしめてやる。
「ちょっ、ちょっと止めて……。姉さん、揺らさないでよ、吐き気が」
ディジーの情けない悲鳴の向こうから、元気な足声が勢いよく駆けてくるのが聞こえてきた。
「サムお姉ちゃん、おはよう」
そう言って顔を覗かせたのは、昨日七歳になったばかりのニックの娘リリィちゃんだ。
「お、おはよう。リリィちゃん」
明るく輝く目にも眩しい金髪。薄く染まるピンク色の頬に、星が入ってるんじゃないのと思わず覗き込みたくなる、サファイアのような瞳。
そんなキラキラの少女を前にして、わたしは顔が引き吊ってくるのを抑えられなかった。
だって、リリィちゃんが来たとなったらアレじゃない? あいつもとうとうやって来たってことじゃない。
ど、どうしたらいいの、わたしは。昨日の今日で、どんな顔して会ったらいいのよ?
「よお」
元気に台所へと飛び込んで来たリリィちゃんの背後から、信じられないくらい不機嫌な表情のニックが顔を出す。
「お、おは……よう」
ブスッとしたその眼差しは、まるで以前の奴に戻ったみたいだ。そんなニックの仏頂面にわたしの口元まで強張ってきた。この男のムッツリ顔が、こっちにまで伝染したみたい。
なんでこんな表情なんだろ、この男は。
「あら、ニックさん。おはよう」
ニックはディジーの姿に気が付くと、ますます顔を険しく変えて悪態をつく。
「どうして、こいつまで……」
「あら、今何か仰った、ニックさん?」
「いや、何も」
ディジーとニックは、お互いを牽制するかのように見つめ合った。って言うか睨み合ってるようにも見える。少なくともニックは、間違いなくディジーに対して鋭い視線を投げ掛けていた。
驚いた。この二人が、対立している姿を見るのは初めてだ。以前はともかく、ニックが離婚して再び戻って来て以降は見ていない。だってニックは、不自然なほどディジーに同調していたから。だからわたしは、彼が妹に弱味を握られているのかと疑ったくらいだったのである。
だけど考えてみたらこの二人、元は決して仲が良かった訳ではない。と言うことは、つまりどういうこと?
ディジーはニックから不意に視線を逸らすと、わたしの方に顔を向けた。その顔は不適に笑っていた。
いやあんた、顔色凄く悪いのよ、分かってるの?
「ま、いいか。姉さんわたし、やっぱり帰るわ。まだ気分が悪いし」
「そう、気を付けてね」
「え〜、お姉ちゃん、帰っちゃうの? ランは?」
フラフラと居間を出て行くディジーの後を、リリィちゃんが纏わりつくように追いかけて行った。
「サマンサ、あの……」
「えっ?」
二人の姿が消えてしまうと、遠慮がちな低い声が聞こえてきた。
声のした方に振り向けば、ニックがわたしをまっすぐ見ている。
淡い空色の柔らかな瞳とまともに目を合わせ、わたしは再びパニックに襲われたみたいに落ち着かなくなる。
彼はいつの間にか険のあった目付きを消し、こちらを気遣うように見つめていた。
二人きりだ。突然気付いた。
そうよ、ディジーとリリィちゃんが出て行ったら、ここにはわたしとニックの二人だけで……。
「お前、大丈夫か? その……、体のことだが……」
「か、体?」
もう、嫌だ。なんてこと聞くんだろう?
わたしは立っているのも耐えられなくなり、その場にしゃがみ込んでしまった。ニックの顔など見ることは出来ない。目を隠して早口で捲し立てる。
「だ、大丈夫よ、別に。そういうあんたは?」
顔が熱い。きっとこいつからは、わたしの醜態が丸見えだろう。いい年こいて慌てふためいて、本当に自分が恥ずかしい。だけど、どうしようもない。これがわたし。
「俺は平気だよ。……ったく、お前は変わってるな」
彼が小さく笑い声を漏らした。それから、こちらに近付いてくる。
「な、何……がよ……?」
このわたしの声ってば、何でこんなにみっともなく震えてんだか……。
それとニック、それ以上近付いてこないで。駄目だったら、困るじゃないの。
「ほら、立てよ。そんなところにしゃがんでたら汚いだろ?」
彼が優しくわたしの手を取り、ゆっくりと体を立たせた。
目の前に見慣れた男の顔がある。でもその表情は少しも見慣れていない、温かい眼差しで。
そんな深い思いやりに溢れたような瞳と目を合わせていると、打って変わって、熱かった夕べの視線が思い出されてきた。
ねえわたし達、昨日お互いを確かめあったんだよね? あんたはあたしに激しく奪うようなキスをしてきて……。わたしはとっても幸せだった。
何だろう、この気持ち? 心も体も満ち足りているような、何とも言えない穏やかな気持ち。
でも一つだけは、はっきりと分かるんだ。
そうそれは、今もあんたからのキスを待っているってことーー。
「あいつ、どうだった?」
「あいつって?」
頭の中でニックのことばかり考えていたわたしは、彼の質問の意味が分からず聞き返した。わたしったら何考えてたんだろう。馬鹿みたいに浮かれた気持ちが、顔に出てなかったことを祈るしかない。
ニックは少し苛立ったように答える。わたしとは全く違うことに、思考を奪われていたらしい。
「ディジーだよ、お前の妹の」
「ディジー? ディジーなら、昨日飲み過ぎたらしくて、二日酔いになったらしいわよ。他には特に何もなかったと思うけど……。でもそれがどうしたの?」
何故ディジーのことなんか聞いてくるのだろう。
ニックはこちらを訝しむよう見つめてきたあと、深いため息をついた。
「いや、いい。それよりも、サマンサ」
彼の空色の瞳に真剣な光が宿る。
「昨日は、すまなかった。お前に……、無理を強いるつもりじゃなかったんだ。許してくれ」
「えっ?」
どういうこと?
「……謝っておきたくて、本当に悪かった」
意味が分からなくて、わたしは混乱していた。
ニックはわたしの前で、目を閉じて頭を下げている。なんだか最近、こいつのこんな姿ばかり見ている気がする。
どうして謝るのだろうか。そんなに酷いことを、わたしはされたと言うのか?
彼は顔を上げ、更に苦しげな表情になった。まるでこれから、とても言いにくいことを口にするのだと言ってるよう。躊躇ったように移ろう目線と硬く強張った口元、彼の緊張がこちらにまで伝わってきた。
「それで頼みがあるんだ。こんなことお前に頼むのは筋違いだと思うんだが……」
薄い唇が重たそうに動く。
「頼む、お願いだ。昨日のことは誰にも言わなーー」
彼の言葉は、大きな音と共に途中で遮られた。
目を丸くした男が、こちらを驚きの表情で見返してくる。
「誰にも言わないわよ」
わたしは、ジンジンと痛みを訴えてくる手のひらをもう一方の手で包み、赤い頬をした憎たらしい目の前の男を睨み付けた。
「安心してよ、もう忘れたから!」
そう大声で叫んで、奴の前から逃げ出した。惨めで、どうしようもないくらい惨めで、昨日の記憶とともに消えてしまいたいほど悲しかった。