思いの行方
「パパも、その子を知ってるの?」
リリィちゃんが驚いたようにニックに問いかける。
「そ、その子って?」
娘からの、疑問と一緒に向けられる不信感を漂わせた視線に、奴は口籠って慌てた。慌てたせいで、煙草の煙を変なふうに吸い込み咳き込む。
「だから、その意地悪な男の子よ。サムお姉ちゃんに酷いことを言った子。パパもその時近くにいたんでしょ?」
「い、いや……リリィ、パパはその時ーー」
「どうしてお姉ちゃんを庇ってあげなかったの? 可哀想じゃない」
少女はいつになく厳しく父親を責めた。娘にとって父は正義のヒーローだ。それなのに何故、意地悪な男の子から『か弱い女の子ーつまりわたしー』を助けなかったのかと責めているのだろう。
それはねリリィちゃん。お姉ちゃんに酷い言葉を投げつけた男の子はパパだからなのよ。
だから、庇うなんて出来なかったの。だって、張本人なんだから。正義のヒーローなんかじゃなくてね。
「や、だからリリィ、あのな……」
救いを求めるようにこちらを見るニックに、わたしは舌を出して笑ってやった。
リリィちゃんはわたしに背を向けて、ニックに詰め寄っているので、こんな芸当が出来るというわけだ。
ニックがわたしの思惑に気付いたらしく表情を消す。
ふふふ、やられたらやり返せよ。これはね、わたしを馬鹿にした報いなんだから。
「本当に男の子って意地悪だわ。特にお姉ちゃんに酷いことを言ったその子は、もう最悪よ、最低!」
リリィちゃんは大きな声で少年時代のニックを断罪した。
少し気分が晴れたわたしは、目の前ですっかり無表情になってしまった男を、そろそろ許してやろうかと思い始める。
仕方ないわね、そう思って口を開きかけた時だった。煙草の火を消して娘の耳元に顔を寄せたニックが、「ドブスなんて言ってない」といきなり語り出したのだ。
「え、そうなの?」
「ああ、そんなことは一言も言ってなかった」
ニックは真面目腐った顔で大きく頷く。愛する父親の真剣な物言いに、少女の声のトーンはほんの少し弱くなった。
ちょ、ちょっと。その流れだと、わたしが嘘付きということになってしまうじゃないの。どういうつもり?
せっかく許してあげようと思ったのに、そんな気が消えてしまった。こうなったら徹底抗戦してやろうじゃない。
わたしは大声を上げた。
「嘘よ、言ったでしょう。そりゃあ確かに、はっきりブスとは言ってなかったかもしれないけど。でも、言ってるようなものじゃないの。似合ってないとは言ったんだからね」
「そうなの、パパ? 似合ってないって言ったのは、本当なの?」
再び険しくなる娘の表情に、ニックは苦笑を浮かべた。その余裕を取り戻したような表情が、また腹立たしい。この男ってば、わたしを完璧無視してリリィちゃんだけに話しかけている。
「ああ、確かに言ってたな。昔のことなのに、お姉ちゃんはよく覚えてるよ」
はあ〜? 何その態度。やっぱりこいつはこんな奴だったんだ。わたしにとっては、生涯の天敵でしかないのよ。
「酷い、パパ嘘ついたの? 似合ってないなんて、その子すごく酷いこと言ってるじゃない!」
興奮したように怒って喚き散らすリリィちゃんを、宥めるようにニックは彼女の肩を抱いた。
「ああ、そうだな、酷い奴だ。だが、その子は決してお姉ちゃんのことをブスだとは思ってなかった」
え?
「どういうこと?」
リリィちゃんがキョトンとして問い返す。
「じゃあどうして似合わないなんて言ったの?」
「うん……」
ニックは躊躇ったようにいったん口を閉じると、ゆっくりと息を吐き出して重い口を開いていく。
「そいつは、本当は違うことが言いたかったんだ。だけど、言えなかった。ほんのちょっとの勇気がなくて、意地を張ってしまったんだよ」
「勇気って……、その子は弱虫だったの?」
「そうさ、とっても弱虫で意地っ張りなクソガキだった」
この男は何を言ってるんだろう? わたしは耳がどうかしてしまったんじゃないだろうか。
「じゃあその子は、お姉ちゃんに酷いことを言うつもりはなかったのね」
リリィちゃんは漸く安心したように表情を緩めた。気力が抜けて放心したように脱力した彼女に、ニックは優しい声で話しかける。
「ああ、バカなガキだったんだ。どうしようもないくらいにな」
「すぐにごめんて謝ればよかったのよ」
少女は無邪気な顔で頬を膨らませて呟いた。父の顔を恨めしそうに見上げて、教え諭すように偉そうな口調で言う。
「リリィだったら、ごめんなさいって言ってきたら許してあげたのに。本当、馬鹿な子ね」
ねえ、お姉ちゃんと、リリィちゃんはわたしの方を向いた。ニックが彼女に釣られるように顔を上げてこちらを見た。
その陰のあるせつなげな顔に、心臓がおかしいくらい騒ぎ出す。
わたし、本当にどうしちゃったんだろう。こいつの顔見て動悸が激しくなるなんて。なんだか顔が熱くなるなんて。
「そうかな、すぐに謝ればよかったかな」
ポツリと呟くニックの、眉を下げて力の抜けたような顔は、情けないほど頼りない表情で。あのピクニックでの、「許してほしい」と言ってきた時と同じくらい寂しげで……。
そんな顔をされたら、どうかしてることを口走りたくなっちゃうじゃない。
もう、とっくに許してるわ、とーー。
「そうよ。だけどよかった」
リリィちゃんはあふと小さく欠伸をしながら呟いた。少女はそのまま、ニヤニヤとした微笑みを浮かべてテーブルに伏せ目を閉じる。
「パパとお姉ちゃんは仲良しなんだよね? その子と違って」
「えっ?」
「リリィ?」
「だってリリィは見たんだもの。あの……、花畑で…」
幸せそうな笑顔を浮かべたまま、リリィちゃんはスウッと眠ってしまった。
今の発言に驚いて凍り付いたように固まってしまった、大人達を置いてきぼりにして。彼女のスウスウという規則正しい寝息だけが、静かな居間の中に響いていた。
もうリリィちゃんたらやっと眠たくなったのね。それにしてもさっきまで普通に話していたのに、いきなり眠るなんてびっくりするじゃない。可愛いなあ。
ーーなんて現実逃避している場合ではないわ。
どうしたらいいのよ、こんな状況でぽいっと放り出されて。
「まいったな、見られてたのか……」
ニックが、心の底から後悔しているとでも言いたげな、暗い呟きを漏らした。
そのいかにも被害者ぶった言い方に思わずムッとなる。
「なによ、あんたがあんなことしたからでしょ。自分が悪いんじゃないの」
分かる? あんたは被害者じゃないの、加害者なのよ。
「あんなことって?」
「だから、キ……」
そこでニックが、笑顔でこちらを見ていることに気が付いた。危なかったわ、こいつの口振りに乗せられてキ、キスとかほざいてしまうとこだった。危ない危ない。
「もう、いいわよ。済んだことだから!」
なんてことかしら。この男はこんな時でさえ、わたしをからかって面白がっているらしい。
どうせわたしのことを、恋愛経験も少ないオールドミスだと馬鹿にしているに違いない。この男のそんな意地の悪い思惑に、これ以上引っ掛かってたまるもんですか。冗談じゃないわ。
わたしが奴からプイッと顔を背けグラスを手で持て遊んでいると、横でリリィちゃんを抱き上げたニックが立ち上がる気配がする。
え? もしかして……
「帰るの?」
わたしは奴の行動に驚いて、歩き始めたニックの背中につい問いかけてしまった。
何故だか分からないが、この男が帰るという選択肢がこの時のわたしにはなかった。不思議なことに。
だから本当に驚いてしまったのだ。でもよく考えれば当然のことだった。
リリィちゃんが眠ってしまったのだから、奴が残る理由はない。そっか、そうよね。だってリリィちゃんが残りたいって言ったから、今まであんたは残ってたんだものね。本当は早く引き上げたかった筈だ。
だけど、どうしてなんだろう。どうしてわたしは、そのことに落胆しているのか。
今まさに帰ろうとしているニックの背中に向かって、あり得ない台詞を口にしそうになるくらい、ショックを感じているのか。
帰らないでーー
「リリィを寝かせて置ける場所はないか?」
彼が娘を抱いたまま振り向いてきた。
「えっ?」
「だから、リリィを寝かせときたいんだよ、少しの間。いいだろ少しぐらい、ベッドを借りたって。このままだとこいつが風邪をひく」
「帰るんじゃ……ないの?」
「帰った方がいいのか?」
わたしが気が抜けた声で尋ねると、ニックは表情を和らげて逆に問い返してくる。
「何よ、帰りたいんでしょ?」
「帰りたくない」
ニックは強い口調で言い切り、リリィちゃんを抱いたまま居間を出て行った。
「ちょっーー」
ちょっと、待ってよ。今の言葉はどういう意味?
「お前のベッドでいいか?」
彼はどんどん先へ進んで行く。わたしは慌てて追いかけた。
「待ってよ」
わたしの寝室に入る気なの? 今まで一度だって入って来なかったくせに。この家で共に過ごすようになっても、絶対に入って来なかったじゃない。
「もう、待ってったら!」
奴のシャツを背後から引っ張った。ニックがこちらに顔を向ける。途端に自分が、とんでもなく大胆な行動を取った気がしてきた。
目の前から向けられる強い視線が痛い。
「あ……、あの……、ベッドなら、ヘレンの元の部屋にあるわ。そこでさっきまでランも眠っていたし……」
ニックの瞳が射抜くように見つめてきた。そんなきつい視線に晒されると、まともに話すことも出来なくなってしまう。
ああ〜、わたし。本当に変だ。
「そうだな。お前の部屋に入るなんて、いくらなんでも不躾だった。悪かったよ、すまない」
彼はわたしを暫く見つめていたが、不意に瞳を逸らすと再び歩き出した。
「やっぱり、帰ることにする。よくよく考えたら、お前に迷惑をかけているしな」
何ですって?
「ーー本当に悪かった。それと、今夜はリリィのためにパーティーなんか開いてくれて、ありがとな。こいつも凄く喜んでーー」
わたしはこちらに背を向けて、ずんずんと外へと向かう男のシャツをもう一度引っ張った。
「お、おいっ、何だよ?」
ニックが驚いて顔だけ振り向き抗議の声を上げる。迷惑そうに眉を寄せる憎たらしい顔をした男に、わたしは自分でも分からない激情をぶつけていた。
「『何だよ』はこっちの台詞よ! 何なのよ、あんたは!」
わたしの激しい言葉の攻撃に、彼は一瞬怯んだように黙り込む。嵐が来る前の鳥さえ一羽も飛んでいない不気味に静かな空のように、その空と同じ色の瞳が不安げに揺らいでいた。
だけど止められなかったのだ。一旦こぼれ出した感情の高ぶりは、わたしの理性という防波堤を軽く飛び越え、弱音など絶対見せたくない男の前で、全部まき散らかしてやりたいと息巻いていた。
悔しかった。わたしばかり、こいつに振り回されているということが。
子供の時は、いわれのない悪意に傷付けられて。
そして、今は……、
変わらない悪意とそれに反するように、時々見せるからかいとも意地悪とも違う、柔らかくて暖かささえ感じさせる優しい視線に。
いったい、どういうつもりなの? 何が言いたいのよ!
あのキスはどういう意味だったの? 何故、何も言ってくれないの?
どうして、わたしに思わせ振りな態度を取ってくるのよ?
ずるいわ!
わたしはニックのシャツの襟を力一杯掴むと、彼の頭を強引に引き寄せて、驚いてポカンとしているその形のよい唇を、無理やり奪ってやったのだった。