変わりゆく日常
「だからね、聞いているだけでしょう。勿体ぶらずに教えてくれてもいいじゃない」
客で賑わう雑貨屋の店内で、商品の品だしをしているわたしに、妹はしつこく追いすがってくる。
こっちを睨むように見据えてくるディジーに、わたしは呆れながらも返事をした。
「もう、あんたもしつこいわね。これ以上何を話せばいいの? 湖に行った時の事なら、戻って来た日に既に話したと思うけど」
「姉さんたら! わたしが聞きたいのはそんなことじゃないわよ」
「じゃあ何よ?」
わたしの問いにディジーは息をのんで黙り込む。それから、「何よ、本当にイケズなんだから!」と叫ぶと、店から住居の方へと大股で歩いて消えて行った。
何と言うか……、疲れる妹だわ。
わたしはディジーの去った後をぼんやりと見送って、店内に目をやった。わたし達のやり取りに、注目していたような視線は感じない。ほうっと息をつく。
いや別にね、他人になら聞かれてもいいのよ……、何のことか分かりはしないだろうし。でも約一名、今の会話を聞かれたくない奴が、この中にいるんだよね……。
妹はわたし達を無理やりピクニックへと送り出したあの日以来、頻繁に店に現れるようになっていた。
店にやって来ると一方的に質問を振ってきて、満足のいく答えを得ることが出来ないと拗ねて怒るを繰り返している。
そんな状況にほとほと困ってはいたけれど、ディジーはいつも娘を連れて来るので、姪とリリィちゃんはよい遊び友達となっていた。
幼い二人の少女が仲良く遊んでいる姿は愛らしく、ランの母である妹を無下に追い返すことが出来ない。それを見越しているのかどうか知らないが、ディジーは懲りもせずたびたび顔を出して来るのだった。
そして、妹の来襲以外にも頭が痛くなる問題があった。
「おい、サマンサ」
「えっ?」
「お買い上げだ」
ニックがわたしを大声で呼び、自分の前に立つ二人の女性に頭を下げている。
女性客は彼に笑顔を返しながら、わたしが近寄ると露骨に嫌な顔をした。
「ありがとうございます。こちらをお買い上げでらっしゃいますか?」
彼女達の、不満顔になど負けられない。わたしは笑顔を張り付けて、お買い上げとおぼしき髪飾りと石鹸を受け取る。
代金の額を伝えると、二人は顔を見合わせてあ〜あとぼやき始めた。
「なんでニックさんから、おばさんに代わるのかしら?」
「ねえ、本当」
おばさんて……、わたしのことよね?
成る程、このお嬢さん達はどう見てもまだ十代。咲き誇る薔薇も恥じらって項垂れそうな、娘盛りを謳歌している模様。わたしのような年齢になるなど、遠い未来のように感じているのだろう。
だけど、
だけど甘いのよ、あなた達。
ほらよく言うでしょう? 花の命は短いの。あなた達の輝くように美しい季節も、あっという間に終わるのよ。短い天下を、せいぜい楽しんでらっしゃいな。ふうんっだ。
ニックは既に、別の客の接客に当たっていた。そちらの方から楽しげな声が上がって、二人は羨ましそうに視線を向けた。声はおもに客人である、見事な体格のご婦人のモノだったけど、そんなことは関係ないらしい。
彼らの様子をちらちら見ながら、目前の女性客は不満をブツブツと口にしている。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ〜」
わたしはさっさと彼女達から代金を頂いて、お帰りいただくことにした。二人が名残惜しげに店から出て行くと盛大に息を吐く。
本当にやってられない。最近は毎日、こんなことばかりだ。
いつの間にか店主である筈のわたしは、ニックのさばいた客から代金を貰うという、補助的な役回りを押し付けられている。その際客から、がっかり顔を向けられるという嬉しくないおまけ付きである。
明らかにまずい状態だと思う。冗談ではなくこのままだと本当に、この店はニックの店だと周囲から認識されてしまうような気がするのだ。
頭が痛かった。
だけど、仕方がないのかもしれない。今やここは、ニック目当ての客で溢れているのだもの。売り上げに貢献しているのは、ニックであってわたしではない。
そう、わたしは何の役にも立っていない。
そこまで考えてハッと気が付いた。嫌だ……、わたしはまたニックに嫉妬している。
「おい」
「えっ?」
声と共に誰かの手が肩に置かれたことに気付く。
ニックが眉間に皺を寄せ、わたしの側に立っていた。
「な、何よ?」
ちょ、近付かないでよ、離れてちょうだい。
さりげなく歩いて彼から距離を取ると、気を悪くしたのか、奴の表情がますます険しいものに変わっていく。
「客が退いたぞ。この辺で休憩にしないか?」
「えっ?」
いつの間に?
「お前な……、何回呼んでもボォーとしてたから、残りの客は俺が全部会計を済ませたぞ。お陰で喉がカラカラだ」
「そ、そうだったの? それはごめんなさい……」
ん?
ってか、なんでわたし、謝らなきゃいけないの? 会計だけをわたしに任す、あんたがどうかと思うんだけど?
「まあ、いいけどさ。リリィが世話になってるんだし……」
ニックはわたしから視線を逸らし、先に住居の方へと足を進めた。
「うまい茶を入れてやる。早く来い、サマンサ」
「う、うん」
わたしは彼の後を一歩遅れてついて行った。気まずくて一緒になど歩けない。
ニックは気付いているのだろうか?
あの日以降、わたしのことを『泣き虫女』と呼ばないことを。どんなに止めてと言っても、絶対止めなかった意地の悪い呼び方をしてないことを。
それに、アレ。
アレは何だったんだろう?
花畑の中で、ニックがわたしにしてきたことだ。
アレってやっぱり、キ、キス……じゃないかしら?
いかに恋愛に疎いとはいえ、わたしにだってキスの経験くらいある。相手が例の詐欺師だけというのが悲しいが、皆無ではないのだ。
その数少ない経験から考えても、ニックとのアレはキスだったとしか思えない出来事だった。
それにあのキスは、今までのモノとはまるで違っていた。
たとえて言うなら、今までのキスは、全部が冗談だったんだよと教えられたかのようなーー。甘い感覚と痺れるように襲ってくる快感。声も吐息も、思考でさえもとろかすような、極上の口付けだったのだ。
「おい、お前……」
「な……に?」
ヤバい、何考えてたんだろ、わたし。
「そんなに腹減ってるのか? 口開けてヨダレ垂らして」
「ヨダレ? 嘘でしょう?」
わたしは慌てて口元を拭った。信じられない、ニックとのキスを思い出してヨダレって……。
「ああ、嘘だ。騙されたな」
わたしの慌てぶりを見て、目の前で男は眩しいほどの笑顔で笑う。その顔に何も言えなくなってしまう。
こいつの笑顔に心がざわめくなんて、わたしはおかしくなってしまったんだろうか。そうよ、おかしくなったに違いない。全てはあのキスのせい。いったい、どうしたらいいの……?
わたしが今一番頭を痛めていることーー、それはニックとの、過去にはなかった距離感だった。
「ええっ! それ本当なの?」
わたし達が居間に入ると、ディジーの興奮したような声が聞こえてきた。
妹はこちらを見るや、顔を青くして急いで口をつぐむ。リリィちゃんの弾んだような声だけが、その場に取り残されていた。
「うん。本当よ、リリィ見たもの」
「何の話?」
「えっ、サムお姉ちゃん? あのねーー」
わたしが不思議に思い問いかけると、リリィちゃんの口を両手で塞ぐ影がよぎる。驚くほど素早い動きだった。呆気に取られたわたしの前で、妹は芝居がかった声で騒ぎ出す。
「やあだ、リリィちゃんたら。ディジーお姉ちゃんの恥ずかしい話を言いふらさないでよ。表を歩けなくなっちゃうじゃないの」
「へ? 何のこと?」
「ああ、姉さん? お聞きの通りよ。リリィちゃんにね、わたしの失敗を見られていたらしいの。恥ずかしすぎて、どうにかなっちゃいそう」
随分大げさな言い方だ。ディジーが失敗ごときを恥ずかしがる娘だとは、今の今まで知らなかった。
「リリィちゃん。お姉ちゃんね、みんなに知られたくないの、さっきのこと。だから誰にも内緒ね」
ディジーが片目を瞑って少女に目配せをすると、「うん、分かった!」と嬉しそうに笑ってリリィちゃんが答えを返す。
怪しい。なんだかプンプン匂うわね。
「じゃ……あ、わたしそろそろ帰ろうかな。夕飯の支度しなきゃ」
わたしの視線に、妹はわざとらしく話題を変えた。そわそわとしながら帰り支度を始め出す。そんな妹の姿に、少女は敏感に反応した。
「ええ〜! ランちゃん、もう帰っちゃうの?」
リリィちゃんが悲鳴のような声を出して、姪のランとぎゃあぎゃあ騒ぎ始める。二人の子供に文句を言われディジーは困ったような顔をしていたが、そうだと目を輝かせた。
「ねえ、もうすぐリリィちゃんの誕生日でしょ? ここで一緒にパーティーしましょうよ!」
「えっ、本当に? やったあー!」
ディジーの出任せのような提案に、子供達が大喜びで飛び跳ねていた。