act.5 過去─始まり─
今までに比べると長いです。
━━━━視覚には真っ赤な色。
━━━━嗅覚には鉄錆びくさい臭い。
━━━━聴覚には何も聞こえない静寂。
━━━━━そして、新紅に染まった自分の小さな手。
この寂寥とした空間に、呆然と座り込んでいた春樹は、ふと吹いた一陣の風で我に返った。
「……お、かあさ……ん……?」
小さな小さな呼び掛けに答えるものはない。
やっと周りを見ることを思い出した春樹は、うつ向いていた頭を起こした。
目に飛込んできたのは、自分を中心に其処らじゅうに飛び散っている赤い液体と、奇怪な肉片。
鱗のようなもので覆われている腕や、角がついた頭部。鷹のように巨大なコウモリの翼。足から下が潰れた人間に似た生き物。
内臓が飛び出したまま生命活動をやめた奇怪な物が、春樹の周りにゴロゴロと転がっていた。
━━そして、自分のすぐ横にうつ伏せで倒れている人間。よく知っている長い黒髪。お気に入りだと言っていたワンピース。大好きな母の匂い。
「………ぉかあ…さん……。」
おそるおそる揺すってみても、ビクともしない躯。
まだ5歳の身では難しかったが、精一杯の力を振り絞って、その躯を仰向けにさせた。
───いつも自分に笑い掛けてくれた優しい顔の母が、そこにはあった。
「…ねぇ。おかあさん。起きて……。」
何度呼び掛けても、目を開けない母。最初はか弱かった声が、だんだん大きくなっていく。
「おかあさん。おかあさん。」
いつのまにか流れ出した涙が、止まることなく母の頬に落ちていく。
幼いながらも賢い少年は、理解していた。
母はもう目覚めないと。
そして、どうしてこんなことになったのかを。
いつも通りだった。
いつものように、様々な人種の行き交う大通りを、母と手を繋いで歩いていた。
教会から流れてくる讃美歌。
バックミュージックにポップスをかけて大道芸をする人。
小さな空き地で3on3をやっているスクールの学生。
何も変わらない風景の中を、春樹は歩いていた。
一度も言ったことのない母の故郷の話を、その国の言葉で聞きながら。
「すご〜い。ぼくもそのおしろ、いってみた〜い。」
「もう少し大きくなったら連れていってあげるわよ。」
「ほんと?」
「ええ。本当よ。お母さんは嘘つかないもの。」
「ほんとのほんとだね?やくそくだよ?」
といつもニコニコ笑っている母と指切りをした。
そして、これが母と交した最後の約束となった。
父は物心ついた時には既にいなかった。
母の話では〔お空にいった〕らしい。
別に、父親がいなくても不自由することはなかったし、そのことで母を困らせたことはなかった。
たった二人きりの家族でも幸せだったのだ。
二人で住んでいるアパートに帰る途中で、運命は変わった。
人通りのなくなった道に、それは現れた。
がっちりした体に大きな角を持つ者。鎧みたいな皮膚をした者。人間の顔を持った鳥。腕が鎌みたいで目が三つある者。
さまざまなモンスターが、自分達を囲んでいた。
モンスター、魔物と呼ばれることもある異世界の怪物。
ときどきこちら側に現れて人に悪さをする。人間とは比べ物にならないほどの力を持った彼等には、いままで、たくさんの人間が殺されてきたのだ。退治屋はいるが、極少数だし、いまのように突然襲われたら人たまりもない。
もちろん春樹もその存在は知っていた。
「おかあさん…にげなきゃ……。」
春樹は母の手を必死で引っ張った。
「春樹。一人で逃げなさい。かけっこは得意でしょう?」
「で、でも…おかあさんも……いっしょに……。」
「お母さんもすぐ逃げるから、早く行きなさい。」
「だって…………。」
「はやく!!!」
そう話しているいるうちに、モンスター逹はだんだんと距離を詰めてきた。
春樹の母は、どうやって大切な息子を逃がすか考えていた。
なんの力も持たないが、やらなければならないこと。
自分の命はどうでも良かった。ただ、春樹が助かれば。
「春樹!!」
急かして下を向けば、涙を目に溜めた息子が、その涙が溢れそうなほど目を見開いて、前を見つめていた。
視線の先には、なにやら喋っているようなモンスター。なにを話しているのか、皆目検討もつかなかったが、その表情から、良く無いことだと言うことはわかった。
「春樹。どうしたの?早く逃げなさい。」
そう言ったとたん、春樹が叫んだ。
「やめろ。おかあさんには、てをだすな。」
「は…るき……?」
「だめだ!だめ………ぜったいに………。」
小刻に体を震わせながらも、かばうように春樹は前に出た。
「なんでおかあさんなんだよ。どうして……。」
「春樹。いったい何を……。」
そこで言葉は途切れた。モンスターがまた話出したからだ。
「な…に…?だれ?それ。」
春樹の呟きは、大きな衝撃をもたらした。
春樹はモンスターと話している。その言語を理解しているのだ。
「春樹………どうして………?」
もはや春樹には、母親の声は聞こえていなかった。
春樹にはなぜか、モンスターがなにを言っているのか分かった。
『あの女だ。コロセ。コロセ。』
「なんでおかあさんなんだよ。どうして…。」
『……様のご命令だ。』
「な…に…?だれ?それ。」
モンスターはニヤリと笑っていった。
『━━様だ。』
一瞬、ブルブル震えていた体が止まった。
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁ。」
次の瞬間、春樹の絶叫が響き渡った。
「やめろぉぉぉぉぉ………。」
「春樹?落ち着きなさい。…どうしたの?」
春樹の母はなだめようと、春樹を抱き締めた。
それにも気付かず、春樹は、頭を抱えて叫び続けた。
「いたい。いたい。いたい。いたい。いたい。うぁぁぁぁ。」
頭がハンマーで殴られているような激痛が走った。それと同時に、躯中の血液が沸騰するみたいに熱かったし、心臓が飛び出るほどの吐気も襲ってきた。
「…あ…っいよぅ……。いた……い……。たす………け……て…。」
「春樹!しっかりしなさい。どうしたっていうの?」
先程の衝撃なんて何処かへ吹き飛んでしまった。
自分の腕の中で、大粒の涙を流しながら、全身で痛みを訴えてくる息子に、どうにもしてあげられない事が悔しかった。
ただ抱き締めて小さな背中を撫でてやることしか出来ない。
モンスターの事なんて、もはや眼中には無かった。
どうすれば、息子の苦しみを和らげてあげられるか。それしか頭になかった。
モンスターの口から溢れたその名前を聞いた瞬間、心臓が1メートルぐらい跳ね上がった気がした。それから躯を巡っている激痛の嵐。なんとか耐えようとはしているが、所詮は五歳児。内臓を引き千切られるような痛みには、我慢できなかった。
「いたいよ……。い…たい……。」
「大丈夫。大丈夫。」
母が抱き締めてくれているのには気付いていたが、苦痛の中、ほんの少し残った理性が、危険を知らせていた。自分の危険ではない。母の危険だ。
「お…かあ…さん。……はやく、は……なれて……。」
「何を言ってるの!!……春樹、はやく逃げなさい。お母さんは大丈夫だから。」
「ちがう!はやくぼくからはなれて……。」
「……………どうしたっていうの?」
「は……や…く……。う……ぁ……ぁぁ………。」
だんだん何かが近付いてきているみたいだった。自分の中を、何かが早く出たいと這いずり回っていた。
春樹は自分の腕を抱き締めて、その感覚に耐えていた。痛みは相変わらず収まらないけれど、その奇妙な感覚が気を、紛らわせてくれた。
━━━━━━━ドクン━━━━━━
「うわあああぁぁぁぁぁぁ!!!」
一際心臓が大きく跳ねた時、体を駆け回っていたものが、外に飛び出した。
その後のことは良く覚えていない。ただ躯が泡立つような感覚と、幾つもの悲鳴、竜巻のような騒音と…………自分を呼ぶ、母の小さな声。
どのくらい時間がたったのか分からない。数秒だったのか数時間だったのか。
ただ気が付いたら、あの真っ赤な世界にいた。
自分の身に何が起こったのか、全く理解できなかった。
血の海に座り込んでいる自分。
傍らで動かなくなった母。
鉄と、肉の焼ける臭い。
春樹は、それらをどこか冷めた目で見ていた。見ているようで何も写していない瞳。
────────────。
ふっと蘇った声。
嵐の中で唯一聞こえた小さくて、
それでいて優しい温もりに満ちた聲。
───生きなさい。───
最後に聞いた母の声を思いだし、苦痛であっただろうに、穏やかな死顔を、春樹は静かに見つめた。
流す涙をそのままに、春樹は、どこか現実味のない中で、悟った。
〈…………ぼくが、おかあさんを、ころした…………。〉