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星降る廃屋と、地を這う3人の修復師  作者: 紅茶


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五章

二〇二六年、十月中旬。

千葉県山武さんむ市の北総台地は、秋の深まりと共に透明度を増した空気に包まれていた。かつて「廃屋」と呼ばれ、近隣住民からも忌避されていた築百年の古民家は、今や「サジタリウス(星見邸)」という名のカフェ兼ゲストハウスとして、奇跡的な変貌を遂げていた 。


週末のランチタイム。


重厚なけやきの扉が開くたびに、カランコロンというアンティークベルの音が鳴り響く。


店内は満席だった。


三島茜みしまあかねがこだわり抜いた「星空のような漆喰壁」は、秋の柔らかい日差しを受けて複雑な陰影を描き出し、客たちはその背景でスマートフォンを掲げ、写真撮影に興じている 。


四方田翔よもたかけるが仕掛けたTikTokのハッシュタグ「#星降る廃屋」は、都市部の感度の高い層に深く刺さり、連日予約の取れない盛況ぶりを見せていた 。


厨房では、茜が戦場のような忙しさの中で、しかし優雅に手を動かしていた。


彼女が作る「三日間煮込んだ山武市産トウモロコシのポタージュ」は、その非効率な製法ゆえに一日限定二十食だが、それが逆に希少価値を生み出し、開店と同時に完売するキラーコンテンツとなっていた。


ホールの司令塔を務めるのは、二ノ宮律にのみやりつだ。


元銀行員の彼は、タブレット端末に表示される予約状況と客の滞在時間をリアルタイムで監視し、無駄のない動線でスタッフに指示を出している。


彼の胃ポケットには常備薬の胃薬が入っているが、ここ数週間、その封を切ることはなかった 。


すべてが順調だった。


かつて「無謀だ」「ゴミ拾いだ」と笑われたプロジェクトは、数字という揺るぎない結果を伴って成功していた。


しかし、その完璧なシステムの中心に、ぽっかりと空いた穴があった。


オーナー、相馬健人そうまけんと

彼はカウンターの隅で、ドリップコーヒーを落としていた。


その手つきは手慣れたものだが、視線は手元にはない。窓の外、色づき始めた杉林の向こうにある「虚空」を見つめているようだった。


かつて、泥だらけになって廃材を運び、「ここを宇宙と交信できる場所にするんだ!」と叫んでいた太陽のような熱量は、今の彼からは感じられない 。


「……健人さん、オーダー入ってますよ」


律が低い声で注意を促した。


健人はハッとして、「お、悪い悪い」と力なく笑った。


その笑顔は、かつて律が広告代理店時代に見た、クライアントに頭を下げる時の「業務用の笑顔」に似ていた。


閉店後。


静寂が戻った店内で、四人は遅い賄いを食べていた。


売上報告をする翔の声だけが響く。


「本日の売上、過去最高を更新しました。客単価も安定しています。来月の予約率も80%を超えました」


「すごいね」


健人が呟いた。


「……すごいよ、お前らは。俺がいなくても、もう完璧に回ってる」


その言葉に、茜がフォークを止めた。


「どういう意味? 健人さんがオーナーでしょ?」


「そうだけどさ。……俺の仕事、もうなくね? 掃除はルンバより律の方が上手いし、宣伝は翔のスマホ一台に勝てないし、料理は茜ちゃんの独壇場だ」


健人は立ち上がり、店の奥にあるソファへ向かった。


そこには、彼の宝物であり、呪いでもある「レンズの割れたフィルムカメラ」が置かれていた 。


亡き親友、レンの遺品。


過労死した友が夢見た「自分の店」を作る。その約束を果たすために、健人は走ってきた。


だが、店は完成した。


約束は果たされた。


ゴールテープを切ってしまったランナーは、その先に続く道を見失い、ただ立ち尽くしていた。


「……燃え尽き症候群ですね」


翔が冷静に分析した 。


「目標達成型の人間によくある傾向です。特に健人さんのような『着火剤イグナイター』タイプは、燃やすべき薪がなくなると、自分自身を焼き尽くしてしまう」


律は、ソファでカメラを磨く従兄弟の背中を見つめ、胸の奥が痛むのを感じた。


(違う。それだけじゃない。彼は罪悪感を感じているんだ)


サバイバーズ・ギルト。


自分だけが生き残り、夢を叶えてしまったことへの負い目。


成功すればするほど、その光の強さに比例して、レンという影が濃くなる。


「あいつに見せたかったな」という言葉は、「あいつを置いて、俺だけが幸せになっていいのか」という問いかけに聞こえた 。









十月二十五日、月曜日。

定休日の午後、一台の車が星見邸の砂利道に入ってきた。


黒塗りのレクサスLS。


泥の跳ね上げ一つ許さないような、威圧的な光沢を放つ高級車だった。


「……予約のお客さん? 今日は休みだけど」


茜が庭のハーブに水をやりながら首を傾げた。


運転席から降りてきたのは、サングラスをかけた屈強な運転手。


彼が後部座席のドアを開けると、そこから一人の女性が降り立った。


年齢は四十代前半。


イタリア製の仕立ての良いパンツスーツ。ヒールのある靴で、不安定な地面をものともせずに歩く体幹の強さ。


その瞳は、律がかつて丸の内のオフィス街で嫌というほど見てきた、「数字で人を値踏みする」種類の色をしていた。


「……ここが『サジタリウス』? 随分と牧歌的な場所ね」


女性はサングラスを外し、古民家を見上げた。


その視線は、建物の「風情」ではなく、「減価償却」と「資産価値」を計算しているように見えた。


店の中から、物音を聞きつけた健人が出てきた。


彼は女性の顔を見た瞬間、凍りついたように立ち止まった。


「……真宮、さん?」


真宮陽子まみや ようこ


かつて健人が勤めていた広告代理店時代の、最大にして最恐のクライアント。


現在は外資系不動産ファンドの日本代表を務め、「死に体の企業を安く買い叩き、解体して高く売る」ことから、業界では「解体屋クラッシャー」の異名を持つM&Aのスペシャリストだった 。


「久しぶりね、相馬くん。……随分と落ちぶれた格好をして」


真宮は健人のヨレヨレのTシャツを一瞥し、冷ややかに微笑んだ。


「でも、いい顔をしていないわね。成功した店のオーナーとは思えない。……まるで、出口のない迷路に迷い込んだネズミみたい」


「……何しに来たんですか」


健人の声が低くなる。普段の彼にはない、警戒心に満ちた声だった。


「ビジネスの話よ。……単刀直入に言うわ。この店と土地、そして『サジタリウス』というブランドを、弊社に譲渡してほしいの」













リビングルームのちゃぶ台に、分厚い革のバインダーが置かれた。

真宮陽子は、茜が出したハーブティーには口もつけず、一枚の書類を提示した。


【事業譲渡提案書:買取提示額 5,000,000円】


その数字を見た瞬間、律の呼吸が止まった。

五百万円。


健人がこの廃屋を購入した金額の十倍以上。


改装にかかった費用や、健人の個人的な借金を差し引いても、四人全員に百万円以上の現金が分配できる金額だった。


「……正気ですか?」


律が震える声で尋ねた。


「この建物の法定耐用年数は過ぎています。不動産としての評価額は、土地代を含めても五十万がいいところだ。桁が一つ違います」


「あら、元銀行員らしい計算ね」


真宮は面白そうに律を見た。


「でも、私が買いたいのは『柱』や『屋根』じゃないわ。あなたたちが作り上げた『物語ナラティブ』よ」


彼女はタブレットを取り出し、翔が運用するSNSのデータを示した。


「都市部の若年層に対する圧倒的なリーチ。古民家再生というSDGs文脈でのブランド価値。そして何より、この『星見邸』が持つ熱狂的なファンコミュニティ。……弊社が計画している会員制グランピングリゾートの『核』として、このブランドは非常に魅力的よ」


翔が眼鏡の位置を直し、高速で思考を巡らせた。


「……つまり、M&Aによるブランド買収アクイジションですね。五百万は、将来収益フューチャー・キャッシュフローを見越したバリュエーション(企業価値評価)としては、妥当……いや、破格です」


「話が早くて助かるわ」


真宮は翔に微笑みかけ、そして健人に向き直った。


「相馬くん。あなたはもう、ここでやるべきことを終えたんじゃない? 燃え尽きた灰の中で、過去の亡霊を続けるのは辛いでしょう?」


健人の肩がピクリと震えた。

彼女は知っていたのだ。レンのこと、そして健人が抱えるサバイバーズ・ギルトのことを。


「この五百万は、あなたの『手切れ金』よ。過去への贖罪はもう十分。この金で、あなたは本当の自由を手に入れて、次の旅に出ればいい。……残された彼らにとっても、悪い話じゃないはずよ。百万円なんて、お小遣いにしては十分じゃない」


健人の肩がピクリと震えた。彼女は知っていたのだ。レンのこと、そして健人が抱えるサバイバーズ・ギルトのことを。


「……突然そんなことを言われても、決められるわけがない」


健人が絞り出すように言うと、真宮はゆっくりと立ち上がった。


「そうね。一週間あげるわ。来週の月曜日、同じ時間にまた来る。賢明な判断を期待しているわよ」


真宮が去った後、リビングには重苦しい沈黙が横たわっていた。五百万円という「劇薬」は、結束していたはずのチームに、目に見えない亀裂を入れていた。







真宮の訪問から三日が過ぎた。

星見邸の営業は相変わらず順調で、客足が途絶えることはなかった。しかし、営業終了後の四人の間には、見えない壁がそびえ立っていた。


五百万円という「劇薬」は、結束していたはずのチームに、目に見えない亀裂を入れていた。


「……僕は、受けてもいいかなと思いますよ」


沈黙を破ったのは、最年少の翔だった。

彼はMacBookの画面を見つめたまま、感情を排した声で言った。


「感情論抜きで計算してください。この店のブームは、いずれ去ります。設備は老朽化し、修繕費は嵩んでいく。ピークアウトする前に『利確エグジット』するのは、経営戦略として正解です」


翔の言葉は、山羊座特有の冷徹なリアリズムに基づいていた。


彼は農家の父が「良いものを作っても金にならない」現実に苦しむ姿を見て育った。

「情熱」や「愛着」が、いかに脆く、金の前で無力かを知っている。


だからこそ、彼は「確実な勝利キャッシュ」を選ぼうとしていた。


「……翔くん、本気?」


茜が信じられないものを見る目で翔を見た 。


「ここは、私たちが作った場所だよ? あの壁の色も、床の傷も、全部意味があるの。それを、知らないおばさんに売るの?」


「売らなきゃ、そのうちただのボロ屋に戻るだけです」


翔が少しだけ声を荒げた。


「茜さんだって、別に田舎のカフェの料理人がゴールって訳じゃないですよね。貴女は美大生で、何かをなしたいという思いがあったはずです。ここにいるのは、あくまでも休養が目的で、いずれは本当のやりたいことのためのスタートを切るはずですし、僕はそうすべきだと思っています」


感情的には納得できない。

しかし彼の真意は表面的な感情論ではなく、誰よりも将来を見据えている。

長い付き合いと言うには半月は短すぎるが、しかしそれでも、茜には翔がただの合理主義者でないことは理解していた。

何より自分が目を背けていた事実を突きつけられて、何も反論ができずにいた。


翔の言葉は、彼特有の冷徹なリアリズムに基づいていた。農家の父が「良いものを作っても金にならない」現実に苦しむ姿を見て育った彼は、「情熱」や「愛着」が金の前でいかに脆いかを知っている。だからこそ「確実な勝利」を選ぼうとしていた。しかし、その言葉の裏側で、彼自身がギュッと拳を握りしめていることに、まだ誰も気づいていなかった。


翔の視線が、健人に突き刺さる。

健人は、ソファに深く沈み込んだまま、天井を見上げていた。


「……健人さん、何か言ってください」


律が懇願するように言った 。


「あなたがオーナーです。あなたが『売らない』と言えば、この話は断れます。……でも、もしあなたが『自由になりたい』と思っているなら……僕たちは、あなたを止める権利はない」


律の分析思考もまた、揺れていた。

経営コンサルタントとして客観的に見れば、このM&Aは「成功事例」だ。


ボロボロの廃屋を再生し、大企業にバイアウトする。


それは、彼らが「社会的に勝利した」証になる。


「……考えさせてくれ」


健人が絞り出した言葉は、それだけだった。


彼はカメラを掴み、逃げるように部屋を出て行った。


夜の冷たい空気が、リビングに吹き込んだ。


かつて台風の夜に一つになった「地」と「火」の結束は、皮肉にも「成功」という現実を前にして、バラバラになりかけていた 。






週末。山武市の空は、不穏な鉛色に染まっていた。


気象庁は、急速に発達しながら北上する「爆弾低気圧」への警戒を呼びかけていた 。

このまま行けば、暴風域は山武市に直撃するとのこと。


中心気圧は950ヘクトパスカル。


それは、半年前の台風を遥かに上回るエネルギーを秘め、月曜日に暴風域が千葉県を直撃する予報が出ていた。


奇しくもそれは、真宮が回答を聞きに来る約束の日の前日だった。



「……気圧が下がってる。頭が痛い」


茜がこめかみを押さえて厨房に立っていた。

彼女の鋭敏な感覚は、大気の異変をいち早く察知していた。


「風速予測、25メートル。……まずいな、この進路は」


律がスマホの画面を見て顔をしかめる。


「直撃コースだ。明日の昼前には大荒れになる。外回りの飛散物を片付けないと」


だが、店内の空気は、嵐への警戒よりも、昨夜の議論の余韻で重く澱んでいた。



翔は黙々とパソコンに向かっていた。


彼が作っていたのは、真宮に提出するための「事業譲渡契約の補足資料」だった。


売却に向けた準備を、彼は誰に言われるでもなく一人で進めていた。


「翔くん、手伝って」


茜の声が少し棘を帯びていた。


「どうせ明日売っちゃう家なんだから、台風対策なんて適当でいいでしょって思ってるの?」


「……そんなことは言っていません。資産価値を下げないための保全メンテナンスは当然の義務です」


翔は画面から目を離さずに答えた。その冷たさに、茜は唇を噛み締め、一人で庭のテラコッタ鉢を片付けに向かった。


律は胃薬を水なしで飲み込みながら、空っぽの健人のロッキングチェアを見つめていた。





十月三十一日。月曜日。

午前中から空が急激に暗くなり、横殴りの雨と突風が吹き始めた。ゴーッという地鳴りのような音が、杉林から響いてくる。


「……健人さんは!?」


律が叫んだ。


その時、玄関のドアが乱暴に開かれた。

ずぶ濡れになった健人が飛び込んできた。


手には、ホームセンターで買ってきたブルーシートとコンパネが握られていた。


「おい! 手伝え! 屋根だ!」


健人の顔は蒼白だった。


彼が一番に守ろうとしたのは、彼自身の「夢」の象徴であり、この家の最大の弱点である「ガラス屋根」だった 。


レンとの約束を果たすために、古民家の屋根を切り欠いて作った天窓。


構造計算を無視したその「異物」は、強風に対してあまりにも脆弱だった。


バキッ!!


頭上で、何かが砕ける音がした。

全員が息を呑んで見上げた。


吹き抜けの天井。その高い位置にあるガラス屋根に、亀裂が走っていた。


飛来物が直撃したのだ。


「……嘘でしょ」


茜が口元を押さえた。


「水が来るぞ!!」


健人が叫んだ瞬間、亀裂から雨水が噴き出した。

それは単なる雨漏りではなかった。


滝のような濁流が、一階のカフェスペースへ――彼らが半年かけて磨き上げた床や、茜が描いた絵や、翔が選んだ家具へ――降り注いだ。


「守れ! 店を守るんだ!」


健人が梯子はしごに飛びついた。

だが、律は動けなかった。

翔も、茜も、動けなかった。


(……売るなら、守る意味があるのか?)


その迷いが、彼らの足を止めていた。

もうすぐ手放す場所だ。

五百万円に変わる商品だ。


命がけで守る価値が、今のここにあるのか?


その一瞬の躊躇が、致命的だった。

健人が一人で屋根裏に上がり、ブルーシートを広げようとしたその時。


突風が吹き込み、ガラスが完全に砕け散った。


「うわあああッ!」


破片と共に、健人の体がバランスを崩す。

落下する。


「健人さん!!」


律が叫び、体が勝手に動いていた。

理屈ではなかった。


損得勘定でも、資産価値でもなかった。

ただ、「仲間を死なせたくない」という本能だけが、彼を突き動かした。









律は滑り込むようにして、落下してきた健人を受け止めた。

激しい衝撃が走り、二人もろとも泥水浸しの床に転がる。


「……いってぇ……」


健人が呻く。

奇跡的に、大きな怪我はないようだ。

だが、頭上の大穴からは、暴風雨が容赦なく吹き込んでくる。


店は、見るも無残な姿になっていた。


「……なんで助けた」


健人が泥だらけの顔で律を見た。


「もういいだろ。壊れちまったよ。……これでもう、売ることもできない。五百万もパーだ」


健人は力なく笑った。

それは、すべてを諦めた者の、乾いた笑いだった。


「これで自由になれるな。……レン、俺はやっぱり、ダメだったよ」


その時。


バシッ!


乾いた音が響いた。


翔だった。


翔が、健人の頬を殴っていた。


いつも冷静で、一度も感情を爆発させたことのない翔が、拳を震わせて立っていた。


「……ふざけるな」


翔の声が震えていた 。


「ダメだった? 五百万がパー? ……そんなことのために、僕たちは半年間、泥水をすすってきたんですか!」


翔は、自分の胸倉を掴むようにして叫んだ。


「僕は、計算しましたよ。何度も計算しました! 損得で言えば、売るのが正解だ。でも……でも、僕の計算式には、この『泥』の価値が入ってなかった!」


翔は床の泥水をすくい上げ、健人に見せた。


「親父の野菜と同じだ。効率が悪くて、泥臭くて、金にならない。……でも、だから美味かったんじゃないですか! だから、お客さんは来てくれたんじゃないですか! 健人さんが『ここで星を見たい』ってバカみたいに言い続けたから、僕たちは集まったんじゃないですか!」


翔の目から、涙が溢れていた。

高校生の少年が隠し続けてきた「熱い情熱」が、決壊していた。


「壊れたなら、直せばいいでしょう! 修復師なんでしょう、僕たちは!」


「翔くん……」


茜が、翔の隣に立った。

彼女は、厨房から持ってきたボウルとタオルを手にしていた。 


「私もやる。……私のスープは、まだ完成してない。こんな雨なんかで、薄めさせない」


律が立ち上がった。

胃薬の瓶を、ゴミ箱に投げ捨てた。


「……健人さん。翔くんの言う通りです。資産価値ゼロ? 結構じゃないですか。マイナスからのスタートは、僕たちの得意分野だ」


律は、屋根を見上げた。

銀行員時代の「完璧主義」の目は、今は「現場監督」の目に変わっていた。


「状況分析。被害甚大。ガラス全損。……ですが、躯体くたいは無事です。山武杉の梁は、まだ生きています」


律は健人に手を差し出した。


「指示をください、オーナー。この嵐をどう乗り切るか。あなたの『直感』が必要です」


健人は、呆然と三人を見つめていた。


泥だらけの銀行員。

泣き顔の高校生。

タオルを握りしめた美大生。


彼らは、五千万円よりも、このボロボロの場所を選んだのだ。


健人の瞳の奥に、消えかけていた種火が、再び灯った。


それは、レンへの贖罪のための暗い炎ではなく、仲間と共に生きるための、明るい太陽の炎だった。


「……ああ。やるぞ」


健人は律の手を掴み、立ち上がった。


「作戦変更だ! 『資産売却』はなし! これより『緊急構造改革』をはじめるぞ! 翔、資材置き場からコンパネ全部持ってこい! 茜ちゃん、水を掻き出せ! 律、俺と一緒に屋根に登るぞ! 今度は絶対に落とさないでくれよ!」


「了解です!」








そこからは、嵐との総力戦だった。

屋根の上は、立っているだけで吹き飛ばされそうな暴風だった。

だが、今の彼らには迷いがなかった。


「律、右側を押さえろ! 翔、インパクト!」


「はい!」


「茜ちゃん、下からライトで照らして!」

「まかせて!」


「火」の健人が叫び、「地」の三人がそれを形にする 。


健人の無謀な突貫工事を、律が論理的に補強し、翔が効率的に資材を供給し、茜が隙間を埋める。


ガラスの代わりのコンパネが打ち付けられるたびに、雨音が遮断され、家の中に静寂が戻っていく。


夜明け前。



嵐が去った。


屋根の大穴は塞がれた。見た目は継ぎ接ぎだらけで、不格好極まりない。


だが、雨漏りは止まった。


星見邸は、またしても生き延びたのだ。

四人は、泥水が引いた土間に座り込み、肩を寄せ合っていた。


疲労困憊だった。


だが、その顔は、祭りの後のような充実感に満ちていた。


「……ねえ」


茜が、泥だらけの指で空を指差した。

コンパネの隙間から、わずかに夜空が見えていた。


台風一過の、洗われたような星空。


「……綺麗だ」


健人が呟いた。

彼はポケットから、カメラを取り出した。

泥と水にまみれた、壊れたカメラ。


だが、健人はそれを構え、ファインダーを覗いた。


そこには、星空ではなく、泥だらけで笑い合う三人の仲間が映っていた。


「レン。……俺、見つけたよ」


健人は心の中で語りかけた。


「お前が見たかったのは、星空だけじゃなかったんだな。……星を見上げる、誰かの顔が見たかったんだな」


健人はシャッターを切った。

カシャッ、という乾いた音が、夜明けの静寂に響いた。










翌朝、十月二十七日。

突き抜けるような青空の下、黒いレクサスが再び現れた。

真宮陽子は、車から降りると、継ぎ接ぎだらけの屋根を見て絶句した。


「……何よ、これ。資産価値どころの話じゃないわ。ただのゴミの山じゃない」


彼女は呆れたように言い放ち、契約書を取り出した。


「でも、約束は約束よ。五百万、これで手を打ちなさい。これなら修繕費も……」


「いりません」


健人が遮った。


彼は、昨夜の泥がついたままの服で、真宮の前に立っていた。


その後ろには、律、翔、茜が並んでいる。


「真宮さん。あんたの査定は間違ってる」


健人はニカっと笑った。


「この家は、五百万じゃ安すぎる。……ここには、俺たちの『人生』が詰まってるんだ。プライスレスってやつだよ」


「……本気? こんなボロ家、次の台風で倒れるわよ?」


「その時は、また直します」


律が一歩前に出た。


「僕たちは修復師ですから。壊れたら直す。間違えたらやり直す。……それが、この会社の経営方針です」


「非効率ですけどね」


翔が眼鏡を拭きながら付け加えた。


「でも、この非効率こそが、僕たちの最大の競争優位性コア・コンピタンスなんです」


「私の絵も、まだ描き終わってないし」


茜がふふっと笑った。


真宮は四人の顔を順番に見つめ、やがてふっと息を吐いた。


彼女の瞳から、捕食者の色が消えていた。


「……まぁ別にこだわる気もないわ。相変わらず、貴方は計算のできない馬鹿なのね」


彼女は契約書を破り捨て、風に飛ばした。


「いいわ。その『泥だらけの城』で、精々足掻きなさい。……でも、せっかくだし、困ったときは連絡してきてもいいわよ。コンサル料は高いけど」


黒いレクサスは、砂利道を巻き上げて去っていった。


それは、彼らが過去の亡霊トラウマと、未来への不安に、完全な決別を告げた瞬間だった 。











それから数日後。


季節は晩秋へと移り変わっていた。


「サジタリウス」は、屋根の修復工事(今度はプロの大工を入れて、翔が値切った)を終え、営業を再開していた。







しばらくして、律が店に行くと、健人の姿がなかった。


テーブルの上に、一枚の紙と、書き置きが残されていた。


『北海道の原野に、すげえ廃校を見つけた。次はツリーハウス村を作る。

設計図は律、デザインは茜、金策は翔、頼んだぞ! P.S. 寒そうだからダウンジャケット買っとけ』


その横には、広げられた北海道の地図。

赤ペンで大きく「ここが次の基地!」と丸印がつけられている。


「……ははっ」


律は乾いた笑い声を上げた。

胃薬を探そうとしたが、ポケットにはもう入っていなかった。


代わりに、電卓を取り出した。


「翔くん、北海道までの航空券と、廃校の買収費用、試算して」


「了解です。……また赤字スタートですね」


翔が嬉しそうにMacBookを開く。


「もー、健人さんってば! 雪の結晶のデザイン、考えてなかった!」


茜がスケッチブックを広げる。

彼らはもう、嘆いていなかった。

火の男が灯した熱は、地の三人に確かに受け継がれていた。


健人は旅立った。


だが、彼らが作り上げた「星降る家」は、ここにある。


そして、次の冒険が、また彼らを待っている。


地を這う三人の修復師たちは、嵐の夜に手に入れた「壊れても直せる」という自信を胸に、新たな地図を広げた。



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