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星降る廃屋と、地を這う3人の修復師  作者: 紅茶


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四章①

2026年8月14日、金曜日、午前8時30分。


山武市の朝は、水槽の中にいるような濃密な湿気に包まれていた。太平洋から吹き込む湿った風が、朝露に濡れた杉林を揺らし、ザワザワという不穏な通奏低音を響かせている。


星見邸のリビングルーム――かつて土間だった場所をコンクリートで固め、健人が拾ってきた不揃いな家具を配置した空間――には、扇風機の生ぬるい風だけが回っていた。


店長兼経理の二ノ宮律にのみやりつは、けやきの一枚板テーブルの上で、タブレット端末と睨めっこをしていた。


画面に表示されているのは、気象庁の台風進路図と、彼自身が作成した「リスク管理マトリクス」である。


元銀行員である律にとって、不確実性は最大のストレス要因だ。彼の整えられた眉間には、深さ数ミリのシワが刻まれている。


無意識に胸ポケットへ手が伸びる。


そこには常備薬の胃薬が入っているが、今のところまだ服用には至っていない。


フェスの成功体験が、彼の胃壁をわずかに強化していたからだ。


「……気圧低下、965ヘクトパスカル。進路、変更なし。22時直撃コースです」


律の声は、感情を極力排除した事務的なトーンだった。しかし、その指先は小刻みにテーブルを叩いている。


「風速40メートルか。……古い瓦が飛ぶな。雨樋も許容排水量を超える」


対面に座る高校生、四方田翔よもたかけるが、冷めたコーヒーを啜りながら補足した。


彼は夏休み中だが、学校指定のジャージ姿でここに詰めている。彼の手元にあるのはラップトップで、画面には近隣のホームセンターの在庫状況と、道路の冠水ハザードマップが表示されていた。


「物理的損害予測、最大で修繕費150万円コースですね。……非効率です。今のうちに資産を退避させ、僕たちは安全な高台へ避難するのが合理的判断かと」


翔の言葉は正しい。論理的に考えれば、築100年の廃屋と心中する必要などどこにもない。


しかし、その重苦しい空気を切り裂いたのは、快活すぎる笑い声だった。


「おいおい、シケた顔すんなよ! 祭りだぞ、祭り!」


オーナーの相馬健人そうまけんとが、庭から入ってきた。頭には手ぬぐいを巻き、首からはタオルを下げ、手には泥だらけの軍手。


その姿は、台風に怯える家主ではなく、神輿を担ぐ前の祭りの若衆そのものだった。


「健人さん、現状認識が甘いです。これは災害です」


律が窘める。


「わかってるって。だから面白いんじゃんか」


健人はニカっと笑い、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出した。


「いいか、律、翔。台風ってのはな、地球が深呼吸してるんだよ。この家も、俺たちも、試されてるんだ。『お前ら、ここを守る覚悟はあるか?』ってな。……避難? するわけねえだろ。俺たちは修復師だぞ。壊れる前に直す、それが仕事だ」


健人の瞳には、一点の曇りもなかった。射手座特有の「根拠のない楽観」と「冒険心」。それが、このチームのエンジンだ。


「それにさ、思い出してみろよ。台風で休校になりそうなあの感じ。……ワクワクしなかったか?」


「……私は、ワクワクしました」


キッチンの奥から、三島茜みしまあかねが顔を出した。彼女は大量のスパイスをテーブルに並べ、何やら調合を始めていた。


「あの非日常感が好き。世界中が止まってるのに、私たちだけが動いてる感じ。……だから、今日は『スパイスカレー』にするね。クミンとカルダモン多めで、恐怖心を吹き飛ばす『戦いの味』にする」


「採用!」


健人が指を鳴らした。


「というわけで、作戦名は『オペレーション・フェスティバル・イブ』だ。悲壮感禁止。どうせやるなら、最高に楽しく守り抜くぞ!」


律は深いため息をついたが、その口元は微かに緩んでいた。


論理(翔)と美意識(茜)と情熱(健人)。このバランスが崩れない限り、どんな嵐も乗り越えられる気がしたからだ。


「……了解しました。では、工程表ガントチャートを『災害モード』から『イベントモード』へ書き換えます。フェーズ1、買い出し及び資材調達。目標、午前11時までに帰還」



午前9時30分。

律の運転する軽バン(健人の私物で、燃費は最悪だが積載量は多い)は、国道126号線、通称「ストロベリーロード」を東金市方面へと走っていた。


九十九里平野を縦に貫く国道126号線は、普段からそれなりに混雑しているが、この日はいつもより車が多く、軽トラック、商用バン、そしてドライバーたちも不安げに見えた。


「渋滞してますね。……みんな考えることは同じか」


助手席の翔が、スマホの交通情報を見ながら呟く。


「目的地は『カインズ東金店』だ。あそこなら資材館の品揃えが最強だ。プロ仕様の道具も揃う」


健人が後部座席から身を乗り出す。


「ついでに『コメリハード』も回ろうぜ。あそこは農家向けの土嚢袋とかロープが安いんだ」


「ルート最適化します。……先にコメリで消耗品を確保、その後にカインズで大型資材、最後にスーパーで食料ですね」


カインズ東金店に到着すると、そこはすでに「戦場」だった。


巨大な駐車場は満車に近く、入り口には「養生テープ、お一人様3点まで」の貼り紙。


店内に入ると、独特の木材の香りと、人々の熱気が押し寄せてきた。


「手分けするぞ! 律と翔は資材館へ。コンパネ(コンクリートパネル)とブルーシート、あと強力なコーキング剤だ。茜ちゃんは日用品と……あと『テンションが上がるもの』を探してきてくれ!」


「了解!」


律と翔は資材館へ走った。

二人の動きは洗練されていた。


元銀行員の律は予算管理とスペック確認を担当し、農家の息子の翔は「現場で使える素材」の目利きを担当する。


コストを計算しながらも、カートに次々と資材を放り込んでいく。その連携は、サマーフェスでのトラブル対応で培われたものだ。


一方、健人は防災グッズ売り場で、意外な人物と遭遇していた。


近所の梨農家、権田ごんださんだ。


日焼けした顔に深いシワを刻んだ彼は、山のような土嚢袋と防風ネットをカートに積んでいた。


「おう、健人! お前んとこも準備か?」


「権田さん!  大丈夫っすか?」


8月は、山武市の特産である梨「幸水」の収穫最盛期だ。


この台風は、農家にとって死活問題であるはずだ。


「いやぁ、参ったね。これからが一番美味い時期だってのに。……まあでも、落ちちまったもんはしょうがねえ。残ったやつを全力で守るだけよ」


権田さんは豪快に笑った。「しょうがない」という言葉。それは諦めではなく、自然と共に生きる者だけが持つ、強靭な受容の精神だ。


「お前らも、あのボロ屋……いや、城を守るんだろ? 頑張れよ。終わったら、少し傷がついたけど味は極上の梨、持ってってやるからな」


「ありがとうございます! 俺たちも負けませんよ!」


健人は権田さんの厚い手のひらと握手を交わした。

その手の温かさが、健人の心に火をつけた。


(そうだ。俺たちは一人じゃない。この土地で戦っている仲間がいる)



レジ前で合流した4人のカートは、カオスな状態になっていた。

律たちのカートには、ベニヤ板、養生テープ、コーキング剤といった実用的な資材が整然と積まれている。


一方、健人と茜のカートには……。


「……なんですか、これは」


律が呆れた声を出した。


そこには、七色に光る「パーティー用サイリウム」、子供用の「光る剣」、そして一缶3000円もする「松阪牛の大和煮」の缶詰が入っていた。


「必要経費だ」


健人が真顔で答える。


「停電したら真っ暗だぞ? 怖いだろ? でも、これがあれば『パーティー会場』になる。メンタルケアのための必須アイテムだ」


「このお肉も?」


「フェスの利益使っちまおうぜ? たまには美味いもん食って、精つけないと戦えないからな!」


茜も横でうんうん頷いている。「光る剣は、風の魔王と戦うために必要」などと供述している。


律は翔と顔を見合わせ、ため息をついた。

「……計上しましょう。『福利厚生費』および『精神衛生維持費』として」


「承認します。……まあ、暗闇で和牛を食べるのも、悪くない体験価値かもしれません」





正午。

星見邸に帰還。

風雨は強まり、杉林が大きくしなり始めていた。

直ちに作業開始。


茜の担当は「浸水対策」だ。星見邸は土地が低く、裏山からの雨水が流れ込むリスクがある。


彼女は、ホームセンターで買ってきた土嚢袋に庭の土を詰め、縁側の下に並べていく。しかし、ただ並べるのではない。


「翔くん、そこ。角度が違う。もっとリズムよく」


「リズム? 防水性能に関係ありますか?」


「あるの! 雑に積むと隙間ができるし、何より見た目が不安になる。美しく積まれた壁は、心も守ってくれるの」


茜は、土嚢をレンガ積みのように互い違いにし、表面を平らにならして、幾何学的な模様を描くように積み上げた。泥だらけの作業だが、彼女の手にかかると、それは「バリケード」というより「ランドアート」の様相を呈していた。


「……確かに。構造力学的にも、この積み方は理にかなっていますかね」


翔は眼鏡を直しながら答えた。

非効率に見える彼女のこだわりが、結果として最強の強度を生み出している。



一方、屋根の上では、健人と律が風と戦っていた。

健人の悲願である「星見用のガラス天窓」。ここが最大の弱点だ。飛来物が当たれば粉砕し、室内に暴風雨が吹き込む。

「律! コンパネ(板)渡せ! 風が強くなってきたな。持ち上げるなよ!」


突風が吹き抜け、梯子を押さえていた律の体が浮き上がりそうになる。

健人は屋根にへばりつき、インパクトドライバーを構えた。


「くそっ、揺れるな! ……レン、守ってくれよ!」


健人は、親友の遺品である壊れたカメラのことを思い出した。あいつが見たかった星空を守る。

その執念が、恐怖を上回る。


「健人さん、ビスのピッチは30センチ間隔です! 端部は二重に打ってください!」


「わかってる! ……よし、固定完了! ブルーシート被せるぞ!」


律は下から的確な指示を出し、資材をリレーする。高所恐怖症気味の彼だが、今は「計算されたリスク」の中にいるため、パニックは起きていない。


彼の中で、健人への信頼が勝っていた。




午後3時。

徐々に空模様も台風の様相を表してきた。

雨が降り注いだかと思えば、すぐに止み、しばらくしてまた雨が降る。それを繰り返した。


プツン、という音と共に電気が消えた。

停電だ。


時折、強く吹く風が、家全体が揺らし、ミシミシと悲鳴を上げさせる。

しかし、リビングの中は、温かいオレンジ色の光に満ちていた。


カインズで買ったLEDランタンと、茜が配置したサイリウムの光だ。


「お待たせ! カレーできたよ!」


卓上カセットコンロの上で、鍋がグツグツと音を立てている。


茜特製のカレー。


クミン、コリアンダー、ターメリック、そして隠し味に地元産の梨を摩り下ろして入れた、フルーティーかつスパイシーな逸品だ。


さらに、3000円の和牛缶詰が開けられる。


「いただきまーす!」


四人は車座になり、紙皿に盛られたカレーを頬張った。


「うまっ! 辛っ! でも美味い!」


「スパイスが効いてて、汗が出てきますね。……これなら低気圧頭痛も飛びそうです」


「和牛、やわらかっ! 缶詰とは思えないクオリティだ」


暴風雨の音をBGMに、四人は貪るように食べた。


恐怖はない。


「自分たちで守りを固めた」という達成感と、美味しい食事、そして仲間の存在が、ここを世界で一番安全なシェルターに変えていた。



食後、律が淹れたコーヒーを飲みながら、静かな時間が訪れた。


「……なんかさ」


健人が、ランタンの揺れる光を見つめながら言った。


「こうしてると、思い出すな。ここに来た日のこと。ボロボロで、ゴミだらけで。……よくここまで直したよな、俺たち」


「本当に。最初は詐欺かと思いましたよ」


律が苦笑する。


「でも、完璧な計画じゃなくても、なんとかなるもんですね」


「うん。……私、この家が好き。不格好だけど、みんなの手の跡がついてて、温かい」


茜が膝を抱えて言う。


「非効率の塊ですけどね」翔が眼鏡を拭く。「でも、悪くないコストパフォーマンスです。ここで得た経験値は、どんな教科書よりも実践的ですから」


健人はポケットから、壊れたカメラを取り出した。

レンズにヒビが入った、泥だらけのカメラ。


「レンも、見てるかな。この嵐を」


健人はカメラをそっと撫でた。

過去の悲しみは消えない。

でも、今は「今」を生きる仲間がいる。


その事実が、健人の心を軽くしていた。


「明日は晴れるぞ」


健人が言った。


「台風一過だ。屋根の板を外して、また星を見ようぜ」


午後4時。

そろそろ日も暮れ始める。

暴風域に入るのは夜中だが、既に強風域には踏み込んでいる。


「そろそろ出よう。洗い物は明日でいいから、全員車に乗り込んでくれ」


パーティーは終わり、後は結果を待つだけだった。







翌朝、午前6時。

風は止み、鳥のさえずりが聞こえてきた。

律が雨戸を開けると、目が痛くなるほどの鮮烈な朝日が差し込んできた。


律と健人は車を走らせ、星見邸へ。

道の所々には倒木があり、それを避けて進む。


一抹の不安もあり、車内では2人とも沈黙していた。

普段よりも時間をかけて、ゆっくりと進む。

無事にたどり着き、安堵の溜息が漏れた。


星見邸の庭は泥だらけで、折れた枝が散乱していたが、本体は無傷だった。茜の積んだ土嚢のおかげで、床下浸水も免れた。

瓦が所々落ちているが、大きな損壊は見られない。


「……勝ったな」


健人が伸びをした。


「そうですね。さあ、次は『復旧フェーズ』です。片付けの工程表、作っておきました」


律がタブレットを見せる。


「仕事早いな、律ちゃん!」


「当然です。……あ、権田さんからメールだ。『梨、無事だったぞ! ネットのおかげだ!』って」


「マジか! よかったぁ……!」


午前7時には、自転車に乗って翔もやってきた。


「なんだ、早いな翔! 家の手伝いもあるだろ! 今日は休みでもいいぞ!」


「いえ、早急に損耗具合を確認する必要がありますので。それに家には、兄たちも帰ってきてますし」


その30分後には、両親に送られて茜もやってきた。

既に3人が揃っているのを見ると、親への挨拶もそぞろに、車を降りて早足でやってきた。


「すいません、遅くなりました」


「いやいや、別に集まるなんて連絡してないしな! ご両親? そう言えば挨拶してなかったな」


そういうと健人は、発進の準備をする車に大声で呼び止め、駆け足で近寄る。

持ち前の明るさと社交性のためか、ものの数分で、談笑する声が聞こえた。



それから四人は、庭に出た。

吸い込んだ空気は、洗われたように澄んでいて、濡れた土と草の匂いがした。


それは、生きている匂いだった。


「よし、片付けが終わったら、梨買いに行こうぜ!」


「賛成!」


彼らは知っていた。

どんな嵐が来ても、手を動かし、知恵を絞り、仲間と笑っていれば、必ず朝は来る。


その確信こそが、彼らがこの廃屋で手に入れた、最大の財産だった。
















2026年8月。

千葉県山武市。


台風後の千葉県山武市の空は、皮肉なほどに澄み渡っていた。


「台風一過」という言葉が持つ爽やかな響きとは裏腹に、古民家「星見邸ほしみてい」の庭に残された爪痕は、あまりにも生々しく、そして物理的な質量を伴った「負債」としてそこに横たわっていた。


二ノ宮律にのみやりつは、泥だらけの長靴を履いたまま、電卓を片手に庭を歩き回っていた。


彼の視線は、倒れた杉の木や散乱した瓦の「風景としての悲壮感」ではなく、それらが意味する「資産価値の毀損」と「修復コスト」だけに向けられていた。


「……屋根瓦の破損は軽微。ただし雨樋は全損。浄化槽ポンプの故障。それに伴う配管の再設計……」


律が呟くたびに、電卓の液晶画面に表示される数字が跳ね上がっていく。


彼の胃が、キリキリと音を立てて収縮した。


胸ポケットに入っている胃薬に手が伸びる。これは彼のお守りであり、現実逃避のための小さな儀式だった。


銀行員時代、丸の内の高層ビルで数字の圧力に押し潰されそうになった時と同じ、あの冷たい痛みが蘇っていた。


「律ちゃん、どう? なんとかなりそう?」


背後から、オーナーの相馬健人そうまけんとが声をかけてきた。

彼は折れた枝を拾い集めながら、いつもの能天気な笑顔を浮かべている。この男は、目の前の惨状すらも「ドラマチックな展開」として楽しんでいる節がある。


Tシャツは泥だらけだが、その瞳だけは少年のように輝いている。それが律には、時として猛烈なストレスとなった。


「……なんとかなりません」


律は冷徹に言い放った。


感情を排し、事実ファクトだけを伝える。それが「参謀」としての彼の役割だと信じ込ませて。


「概算見積もりが出ました。大雨による被害の修復、および来月のオープンに最低限必要な設備の導入。……合わせて、80万円です」


「80万!?」


健人が素っ頓狂な声を上げた。持っていた枝を取り落とす。


「高ぇな! 俺たちがDIYで直せばタダだろ?」


「材料費と専門工事費です。屋根の防水処理と電気系統、浄化槽のポンプ交換は素人には不可能です。法的な安全基準に関わります」


律はタブレットの画面を健人に突きつけた。そこには、昨晩、停電の中で懐中電灯を頼りに作成したExcelの試算表が表示されている。


「現在、我々の手元資金は45万円です。しかしこの資金は今後の修繕費に使用されます。このままでは、オープンどころか、今月末で解散デフォルトです」


沈黙が落ちた。


庭の向こうで、三島茜みしまあかねが割れたテラコッタの植木鉢を悲しそうに修復している姿が見える。彼女にとって、この庭は色彩の源泉だ。


四方田翔よもたかけるは、壊れたフェンスの横でスマホを高速で操作し、損害賠償保険の約款を確認しているようだが、その眉間のシワは深くなるばかりだ。


「……保険は?」


健人が弱々しく尋ねた。


「出ません。この建物は築年数が古すぎて、火災保険には入れましたが、水災補償は免責になっています。契約時に『そんなもん起きねえよ』とコストカットしたのは、あなたです」


律の言葉は鋭利な刃物となって健人を刺した。

健人は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。


「……マジかよ。じゃあ、終わりか? ここまでやってきて、大雨で終わり?」


律は、しゃがみ込んだ従兄弟を見下ろした。


怒りがあった。

無計画な夢想家への怒り。


しかし、それ以上に強烈な「悔しさ」があった。

昨日、大雨の中で4人が結束し、土嚢を積み、柱を支え、この家を守り抜いたあの熱狂。


「この場所を守りたい」と、律自身も初めて心から思ったのだ。


その想いが、「金がない」という物理的な理由だけで圧殺されることへの、理不尽な怒り。


(……いや、違う)


律は自問した。


(金がないから終わるんじゃない。資金を調達できない「無能な経営陣」がいるから終わるんだ。そして、その経営陣の一角を担っているのは、財務担当の僕だ)


律は深呼吸をした。胃の痛みを、冷たい意志で抑え込む。


彼は元銀行員だ。

金がないなら、調達すればいい。


それが資本主義のルールであり、彼がかつて生きてきた世界の流儀だ。


たとえ今の自分が「レールを外れた不良品」だとしても、その知識まで錆びついたわけではない。


「……健人さん。道は一つしかありません」


律は静かに言った。


「融資です。銀行から金を借ります」


「銀行? ……貸してくれるのか? 俺みたいなプータローに?」


健人が顔を上げる。

その目には、まだ微かな希望の光が残っていた。


「普通の都市銀行メガバンクは無理です。門前払いです。信用格付けが低すぎます。ですが……」


律の脳内で、かつての知識の引き出しが開かれた。


「日本政策金融公庫。政府系の金融機関なら、創業融資の枠組みがあります。特に今は、地方創生や古民家再生といったテーマには追い風が吹いている。……僕が書類を書きます。300万、引っ張ってきます」


それは、律にとっての「宣戦布告」だった。


かつて自分が挫折し、逃げ出した「金融」という巨大なシステム。


それに再び立ち向かい、今度こそ勝利をもぎ取るための戦い。


この廃屋を「負債」から「資産」へと書き換えるための、最初で最後の賭けだった。







その日の夜から、律の「戦争」が始まった。


戦場は、東金市のアパートの狭いワンルーム。


武器は、中古のノートパソコンと、山のような資料。


机の上には、日本政策金融公庫のホームページからダウンロードした書式が散乱している。


創業計画書(様式その1)

月別収支計画書

企業概要書

借入申込書


律は銀行員時代、融資課にいたわけではないが、稟議書の書き方や審査のポイントは嫌というほど叩き込まれている。


「銀行員が好むロジック」


「審査担当者が落とすポイント」


それらは彼の血肉となっていた。


しかし、いざ自分が「借りる側」として筆を執ると、指が震えた。


モニターの白い光を見つめていると、フラッシュバックが起きる。


丸の内の高層ビル。

深夜のオフィス。

上司の怒鳴り声。


『おい二ノ宮、この数字の根拠は何だ? 甘いんだよ、詰めが!』


『お前が作った計画書なんて、ゴミだ。書き直せ』


『責任取れんのか? あ?』


胃が痙攣する。

呼吸が浅くなる。

律はトイレに駆け込み、胃の中身を戻した。何も食べていないので、酸っぱい胃液しか出ない。


(……怖い)


律は洗面台の鏡に映る、蒼白な自分の顔を見つめた。


(また、否定されるのが怖い。お前の計画は無価値だと、烙印を押されるのが怖い)


「律さん、大丈夫ですか?」


ドアの向こうから、翔の声がした。

律は慌てて顔を洗い、タオルで拭いた。


「……大丈夫だ。ちょっと休憩してただけだ」


リビングに戻ると、翔と茜、そして健人が心配そうに律を見ていた。


机の上には、律が書きかけの創業計画書が広げられている。


「『セールスポイント』の欄、空白ですね」


翔が眼鏡の位置を直しながら、冷静に指摘した。


「健人さんの思いつきを、ビジネス用語に翻訳するのに詰まってるんでしょう?」


図星だった。

創業計画書の「3. 取扱商品・サービス」および「4. セールスポイント」の欄。


ここが最も重要であり、最も難関だった。

健人の語る夢は、あまりにも抽象的すぎる。


「宇宙と交信できるカフェ」


「星降る夜の奇跡」


そんな言葉を計画書に書けば、審査担当者は鼻で笑って「否決」のハンコを押すだろう。


必要なのは「数字」と「根拠エビデンス」だ。


客単価は?

回転率は?

原価率は?

競合優位性は?


「……翻訳できないんだ」


律は力なく椅子に座り込んだ。


「健人さんのヴィジョンは、金融のロジックに乗らない。このままじゃ、ただの『夢物語』として処理される。審査を通すには、もっとドライに、数字で固めないと……」


「ドライにって、どういうこと?」


茜がスケッチブックを抱えたまま尋ねた。


「例えば、客単価を上げるために回転率を重視するとか、原価の安い食材を使うとか?」


「そうだ。そう書かないと、銀行は納得しない。返済能力がないとみなされる。たとえば、『冷凍食品を活用しオペレーションを効率化する』とか……」


「でも」


茜は真っ直ぐに律を見た。


「それじゃあ、嘘になっちゃうよ」


「え?」


「この店は、回転率とか効率とか、そういうのを無視してでも『守りたいもの』があるから作るんでしょ? 律さんが書こうとしてるのは、この店の計画書じゃなくて、銀行員を喜ばせるための作文だよ。……私のスープは、冷凍じゃ作れない」


律はハッとした。


作文。


そうだ。自分は今、かつての上司の顔色を伺いながら、架空の「優良企業」を捏造しようとしていた。


「星見邸」の実態――ボロボロで、非効率で、でも温かい場所――を隠蔽し、ありもしない「完璧な計画」を提出しようとしていた。それでは、仮に金が借りられたとしても、その後の経営で必ず破綻する。


「……律」


健人が、缶ビールを開けた(金がないので発泡酒だ)。プシュ、という音が静寂を破る。


「俺さ、難しいことはわかんねえけどよ。嘘ついて金借りても、返済するとき苦しくなるだけじゃねえか? ありのままを書こうぜ。それでダメなら、また別の方法考えよう」


「ありのまま……」


律は書類を見た。


「ありのままで、300万なんて貸してくれる銀行はありませんよ。自己資金がほぼゼロなんですから。通常、創業融資は自己資金の3倍から9倍までしか出ません。12万の自己資金なら、せいぜい30万~50万が限度です」


「あるかもしれないだろ。熱意があれば」


健人はニカっと笑った。

律はため息をついた。

この楽観主義には呆れる。


だが、同時に肩の荷が少し降りた気もした。


(完璧じゃなくていいのか)


律は、胃薬の瓶をポケットの奥に押し込んだ。


(僕がやるべきなのは、捏造じゃない。健人さんの狂ったような熱意を、論理という言語に『翻訳』することだ。自己資金の不足を補うだけの『見えない資産』を、可視化することだ)


「……翔くん、PC貸して。Excelの関数、組み直す」


律の目に、光が戻った。

銀行員の目ではなく、修復師の目だった。


「翔くん、君が担当だ。このエリアの人口動態と、競合店の単価分布を徹底的に洗ってくれ。SWOT分析の『機会(Opportunity)』を数字で埋めるんだ。TikTokでのバズり実績も、ただの『人気』じゃなくて『潜在顧客リスト』として計上する」


「了解です。エンゲージメント率から来店転換率(CVR)を算出して、売上予測の根拠にします」


翔がニヤリと笑い、自分のラップトップを開く。


「茜ちゃん、メニューの写真と、デザインのコンセプトシートを用意して。ビジュアルで攻める。文字だけじゃ伝わらない。君の『時間のかかるスープ』が、なぜ高単価でも売れるのか、そのストーリーを視覚化してくれ」


「わかった。一番おいしそうな湯気を描くね」


茜がパステルを手に取る。


「健人さん、あなたは……」


律は健人を見た。


「黙ってて。……いや、創業の動機モチベーションの部分だけ、自分の言葉で喋って。僕がそれを文章にする。ただし、『宇宙』とか『奇跡』とかいう単語は禁止です」


「えー、そこが大事なのに!」




深夜のアパート。


4人の「修復師」たちは、それぞれの武器を持ち寄り、最強の「創業計画書」という名の武器を錬成し始めた。


それは、単なる書類作成ではなく、彼らがこれまで積み上げてきた「時間」と「想い」を、社会に通用する「価値」へと変換する作業だった。





決戦の日。

千葉市内にある、日本政策金融公庫の支店。


硬質な空気が漂う待合室で、律と健人は並んで座っていた。


律は、就活以来袖を通したリクルートスーツを着ていた。少し痩せたせいでサイズが合わなくなっているが、シャツにはアイロンがかかり、清潔感はある。


健人も、律に強制されてジャケットを着ているが、ネクタイは歪んでおり、足元はどうしても革靴が履けずに黒いスニーカーだった。


「……相馬さん、どうぞ」


事務的な声で呼ばれ、二人はブースに入った。


担当者は、50代半ばと思われるベテランの男性職員・大木おおき


銀縁眼鏡の奥の目は鋭く、手元の資料をめくる指には一切の迷いがない。


百戦錬磨の融資課長といった風情だ。


「……相馬さん、二ノ宮さん。提出書類、拝見しました」


大木は顔を上げずに言った。その声は冷たく、感情の色がない。


「正直に申し上げます。非常に厳しい」


大木は眼鏡を直し、赤ペンの入った計画書を指差した。


「一番の問題は、自己資金です。総事業費(修繕・設備・運転資金)約350万に対し、手元資金が12万。これは、通常の審査基準では即却下です。自己資金は、事業への本気度を示すバロメーターですから」


想定通りの指摘だ。


律は、机の下で拳を握りしめ、用意していた回答を口にしようとした。


『ご指摘の通りですが、クラウドファンディングでの実績が……』


しかし、大木は律を制して、健人の方を見た。


「代表の相馬さん。あなたはなぜ、わざわざ東京のキャリアを捨てて、あんな不便な場所で店を? 広告業界での実績があれば、もっと効率の良いビジネスができるはずだ。正直、この計画書からは、ビジネスとしての勝算……つまり『返済の確実性』が見えにくい」


健人は、頭を掻いた。


律は冷や汗をかいた。


(まずい。健人さんが余計なことを言う前に、僕がフォローしないと……)


「えーっとですね」


健人が口を開いた。


「星が、綺麗だったからです」


(終わった)


律は天を仰ぎそうになった。

融資の面談で「星が綺麗だから」などというポエムを語る経営者に、金を貸す銀行員はいない。これはビジネスの場だ。ロマンを語る場ではない。


大木も眉をひそめた。


「星、ですか。それはロマンチックですが、返済原資にはなりませんね。お客様は星を見るためだけに、わざわざ山奥まで来ませんよ」


「そうっすね。金にはなりません」


健人は悪びれずに言った。その態度は、不思議と堂々としていた。


「でも、金にならないからこそ、価値があるんじゃないですかね」


「……どういうことですか?」


「東京にいた頃、俺も金のことばっかり考えてました。効率とか、コスパとか。でも、それで友達が死にました。過労死でした」


健人の声が、少し低くなった。

ブースの空気が変わる。空調の音だけが響く。


「あいつが死んで気づいたんです。金のために命削って、何が残るんだって。……ここには、何もないです。ボロい家と、虫と、不便な道だけです。でも、ここに来て、空を見上げると、呼吸ができるんです。俺みたいな、社会から半分ドロップアウトした人間でも、生きてていいんだって思えるんです」


健人は、隣に座る律の方を見た。


「こいつもそうです。エリート銀行員だったけど、心が壊れてここに来ました。でも今、こいつは笑ってます。たまに胃薬飲んでますけど、生きてます」


律は驚いて健人を見た。


健人は、大木に向き直り、真剣な眼差しで言った。


「俺たちが売りたいのは、コーヒーやベッドじゃありません。『呼吸ができる場所』です。今の日本に一番足りないのは、それじゃないですか? 効率とか数字とかで窒息しそうな人たちが、深呼吸できる場所。……それを作るために、300万が必要です。屋根を直さないと、雨漏りで客が濡れちまうんで」


大木は、長い沈黙の後、眼鏡を外してレンズを拭いた。


そして、律の方を見た。その目には、先ほどまでの冷徹さとは違う、探るような光が宿っていた。


「……二ノ宮さん。あなたは元銀行員だそうですね」


「はい」


「今の代表の話。……数字に落とし込めますか? 感情論だけでは、公庫の稟議は通りませんよ」


律は、背筋を伸ばした。


ここからは、僕のターンだ。

健人が「火」をつけて、場を温めた。

それを「地」の理論で固めるのが、僕の役目だ。


「はい。今の相馬の話を、『定性評価』から『定量評価』に変換します」


律は、鞄から追加の資料を取り出した。

翔と茜と共に作り上げた、最強の武器だ。


「まず、自己資金の不足について。現金としての自己資金は12万ですが、我々はこれまでの半年間、自力で解体・修繕を行ってきました。これにかかった労務費を市場価格で換算すると、約200万円に相当します。これを『現物出資』的な自己資金として評価していただきたい」


律は、翔が作成した「作業工程表と人件費換算表」を提示した。


「我々は、金がない代わりに、時間と身体を投資してきました。この建物には、すでに我々の資本が埋め込まれています」


大木が資料に目を落とす。


「なるほど。みなし自己資金という考え方ですね」


「次に、『呼吸ができる場所』という価値について。これは現代社会における『メンタルヘルスツーリズム』および『デジタルデトックス』の需要と合致しています。事実、試験的に行ったSNSでの発信では、都内の20代〜30代のワーカー層から圧倒的な反響がありました」


律は、翔が分析したSNSのエンゲージメントデータと、茜が描いたコンセプトアートを並べた。


茜の描いたスープの絵は、湯気の一つ一つまでが温かく、見る者の食欲と郷愁をそそるものだった。


「このアートワークとメニュー開発には、美大生スタッフの三島が3ヶ月を費やしました。これは他店には真似できない、強力な知的財産です。高単価設定でも、十分に集客可能であることは、先日のサマーカーニバルでのテストマーケティングで実証済みです」


律の口調は、かつてないほど滑らかだった。


嘘ではない。

捏造でもない。


健人が語った「魂」に、律が「骨格ロジック」を与えている。


火と地。

理想と現実。

二つの要素が完全に噛み合った瞬間だった。


「最後に。返済計画については、私が管理します。私は元銀行員です。リスク管理に関しては、誰よりも臆病で、誰よりも厳格です。この計画書に、1円の甘えも許していません。損益分岐点は月商80万円。これを下回った場合のリスクヘッジとして、私の個人資産からの補填契約も結ぶ覚悟です」


律は、大木の目を真っ直ぐに見据えた。

足の震えはなかった。

胃の痛みも消えていた。


彼は今、銀行員としてではなく、一人の「当事者プレイヤー」として、金融機関と対峙していた。


「私たちは、逃げません。必ず、返します」


大木は、しばらく資料を見つめていたが、やがて小さく頷いた。


「……わかりました。現物出資の評価と、テストマーケティングの実績。そして何より、このチームバランス。……稟議にかけてみましょう。正直、ギリギリのラインですが、私が支店長を説得する材料は揃いました」


「ありがとうございます!」


二人は深く頭を下げた。




一週間後。

星見邸のリビングで、律はスマートフォンを握りしめていた。

日本政策金融公庫からの連絡待ちだ。

窓の外では、セミがうるさいほど鳴いている。


電話が鳴った。

心臓が跳ねる。

律は深呼吸をして、通話ボタンを押した。


「……はい、二ノ宮です。……はい。……はい。……ありがとうございます!」


律が通話を切り、ガッツポーズをした瞬間、待機していた三人が歓声を上げた。


「やったー!!」


茜が飛び跳ね、翔が静かにガッツポーズをし、健人が律に抱きついた。


「すげえな律! お前マジですげえよ!」


「……融資額、満額の300万です。来週実行されます」


律の声は震えていた。

恐怖で震えていたのではない。

達成感と、安堵で震えていたのだ。


「これで、屋根が直せる。ポンプも買える。……店が開けるぞ!」


その日の夕方、律は一人で通帳記帳に行った。

ATMの機械音が響き、通帳が吐き出される。

一行目に印字された文字。


『ニホンセイサクキンユウコウコ 3,000,000』


ただの数字だ。

電子データ上のインクの染みだ。


しかし、律にとって、この「3,000,000」という数字は、かつて扱っていた何億という融資案件よりも、遥かに重く、尊いものに見えた。


それは、社会が彼らを「信用」した証だった。

不良品だと思っていた自分たちが、社会から「挑戦してもいい」と認められた証だった。


そして何より、彼らが泥だらけになって積み上げてきた日々が、価値あるものとして承認された瞬間だった。


「……重いな」


律は通帳を撫でた。


「これ、借金なんだよな。返さなきゃいけないんだよな」


でも、不思議と怖くはなかった。

一人じゃないからだ。

無謀な夢を見るリーダーと、センスの塊の美大生と、最強の戦略家高校生がいる。

彼らとなら、この借金を「投資」に変えられる気がした。


そして、この借金を返し終わる頃には、自分たちはもっと遠くへ行ける気がした。

律は通帳を胸ポケットにしまった。


そこにはもう、胃薬の居場所はなかった。







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