四章②
2026年9月初旬。
星見邸。
古びたエアコンが悲鳴のような駆動音を上げ、外気温35度、湿度80%という日本の猛暑と戦っている。
その部屋の中央にあるちゃぶ台を囲み、4人の「修復師」たちは重苦しい沈黙の中にいた。
律の提案により、現在4人は、サマーフェスティバルの総括を行なっていた。
「……で、結論から言うと、サマーフェスティバルの利益は出たのか?」
オーナーである相馬健人が、氷を齧りながら尋ねた。
彼は相変わらずのランニングシャツ姿で、首には祭りの日に使った手ぬぐいが巻かれたままだ。
その表情には、祭りをやりきった達成感と、一抹の疲労が滲んでいる。
彼の行動原理は「直感」と「自由」にあり、細かい数字の管理は最も苦手とする分野である。
対面に座る高校生、四方田翔は、MacBookのエンターキーを強く叩き、スプレッドシートの最終行を確定させた。
彼の眼鏡のレンズが、画面のブルーライトを反射して冷たく光る。
特有の「現実主義」と「野心」を持つ彼は、このプロジェクトを自身のポートフォリオの一部として冷徹に分析している。
「出ました。……ただし、条件付きです」
翔はタブレットを回転させ、全員に見えるように提示した。
「総売上高、30万。原価、機材レンタル費、および我々の人件費(時給換算)を差し引いた純利益は、約4万円です」
「4万……」
店長兼経理の二ノ宮律が、胃薬の瓶を握りしめながら呻いた。
元銀行員としての彼の「資産評価アルゴリズム」において、この数字は労働投下量に見合わない「非効率」の極みと映る。
「4人で死ぬ気で働いて、一人当たり1万円か。リスク管理の観点から言えば、これは『事業』ではなく『ボランティア』に分類される」
「ですが」
翔は言葉を継いだ。
「これは『金銭的利益』のみの数字です。我々が得た『無形資産』の価値を含めれば、ROI(投資対効果)は劇的に跳ね上がります」
翔が指し示したのは、SNSのアナリティクス画面だった。
「#サジタリウス」
「#奇跡のガレット」
「#山武市の星空」
これらのハッシュタグがついた投稿の総インプレッション数は、祭りの一夜だけで50万を超えていた。
特に、三島茜が焼いたガレットの「シズル感」あふれる動画と、健人が泥だらけで客を呼び込む「泥臭い」写真は、都市部のユーザー層に深く刺さっていた。
2026年の食品トレンド予測においても、視覚的なインパクトと「体験」の共有は重要なバズ要素とされており、茜の美的センスと翔の戦略が見事に合致した結果と言える。
「フォロワー数は一晩で3000人増加。DMには『いつオープンするのか』『予約はできるのか』という問い合わせが殺到しています。つまり、我々は広告費ゼロで、オープン初日の満席を確約できるだけの集客装置を手に入れたということです」
「翔くんの戦略勝ちだ」
律は素直に称賛したが、すぐに表情を険しくして手元のクリップボードに視線を落とした。
そこには、彼が命を削って作成した「改修工事工程表」が挟まれている。
律の特性である「完璧主義」と「分析力」が、現状の危機的状況を敏感に察知していた。
「しかし、問題はここからだ。……現在、9月1日。オープン予定日は10月3日。残された時間は30日しかない」
律は赤ペンを取り出し、工程表の空白部分を激しく叩いた。
「見てくれ、この『内装仕上げ』『家具搬入』『保健所検査』『消防検査』『オペレーション・シミュレーション』の空白を。祭りの準備にかまけて、本業である『カフェの完成』が完全にストップしている。現状、ここはまだ『星が見える廃屋』であって、『星が見えるカフェ』じゃないんだ」
指摘の通り、星見邸の現状は「カフェ」と呼ぶには程遠かった。
茜が担当する「星空漆喰」の壁と、床下の補強(シロアリ対策)は完了していたが、肝心の客席となる家具はなく、厨房機器も未接続。
電気配線は剥き出しで、庭には大雨でどこからか流れてきた枝が散乱している。
特に、健人が掲げていた「屋根の一部をガラス張りにして星を見る」という改修計画は、技術的な難易度と予算の壁により手付かずの状態だった。
「特に問題なのは『保健所検査』だ」
律は声を荒げた。
「飲食店営業許可を取るためには、食品衛生責任者の配置はもちろん、手洗い場の設置、厨房と客席の区画、床の耐水性など、数多くの基準をクリアしなければならない。検査の予約は盆明けに入れたが、万が一不適合となれば改善命令が出され、再検査が必要となる。そうなれば8月中のオープンは絶望的だ。一発合格が絶対条件なんです」
律の手には、ボロボロの「食品衛生責任者」のテキストが握られていた。もはや全ページに付箋が貼ってあるのではないかと思われるそのテキストには、彼の完璧主義がよく表れていた。
「大丈夫だって、律」
健人が能天気に笑い、律の背中をバシッと叩いた。
「祭りを乗り越えた俺たちだぞ? 壁塗って、家具置いて、ちょいちょいっと掃除すれば終わるって」
「その『ちょいちょい』が信用できないんです!」
律は立ち上がり、ホワイトボードに書き殴った。彼の筆圧は、焦りのあまり強くなっていた。
【9月のミッション:廃屋を店舗へ昇華せよ】
優先度S
内装・設備の完遂 全員 9月15日 ガラス屋根施工含む
保健所・消防検査 律・翔 9月20日 一発合格必須
優先度A
メニュー確定・仕込み 茜 9月25日 原価計算完了済
優先度B
プレオープン 全員 10月2日 オペレーション確認
優先度SS
グランドオープン 全員 10月3日 絶対遵守
「いいですか、今日から休みなしです。翔くんは学校終わりにこちらに来てください。我々は地を這う修復師です。這いつくばってでも、このスケジュールを守り抜くんです!」
律の悲壮な宣言に、翔は静かに頷き、茜は「絵が描けるなら」と小声で呟きながらスケッチブックを開き、健人は「面白くなってきたじゃねえか」と不敵に笑った。
こうして、山武市の猛暑よりも熱く、そして過酷な「8月のラストスパート」が幕を開けた。
9月5日。
気温36度。
星見邸の庭には、セミの大合唱に負けないほどの怒号と金属音が響き渡っていた。
「オーライ、オーライ! ストップ! ……健人さん、それ以上バックしたら井戸に落ちます!」
翔がどこからか調達してきた誘導灯を振り回し、バックで庭に入ってくる2トントラックを誘導している。
運転しているのは健人だ。
彼は「経費削減」と称して、自らレンタカーを借り、元広告代理店のコネクションや、解体屋との飲みニケーションを通じて得た交友関係より、東京の古道具屋や解体現場を回って、「捨てられるはずだった家具」をタダ同然で譲り受けきたのだ。
「よっしゃ、到着!」
健人がトラックから飛び降りる。Tシャツは既に汗で透け、頭にはタオル、足元は雪駄というスタイルだ。
「おい律、茜ちゃん! 手伝ってくれ! お宝の山だぞ!」
トラックの荷台には、埃まみれのテーブル、椅子、照明器具、そして正体不明の木材が山積みになっていた。
「……これ、ゴミじゃないですよね?」
律がマスク越しに疑いの目を向ける。彼の目には、これらが「産業廃棄物」に見えていた。
「失礼な。これは『物語』だ」
健人は一本の脚が取れかけたチャーチチェア(教会椅子)を愛おしそうに撫でた。
「これ、イギリスの片田舎の教会で使われてたやつらしいぞ。背もたれのこの傷、誰かが祈りを込めて握りしめた跡だ。……たぶん」
「たぶんて、適当なこと言わないでください」
律はため息をついたが、その表情は以前ほど拒絶的ではなかった。
健人の選ぶ「ガラクタ」が、磨けば光ることを理解し始めていた。
「修理が必要ですけど、モノは良さそうです。翔くん、搬入リストと照合して」
ここからが地獄だった。
エアコンのない土間での家具の搬入と修復作業。
翔と律は、健人が降ろす家具をひたすら拭き上げ、防虫処理を施し、ガタつきを調整する。山武杉の古材を使用した床は強固だが、家具の脚との相性を微調整する必要があった。
「効率が悪すぎます」
翔が電動サンダーをかけながらぼやく。
「新品を買えば、設置まで業者がやってくれるのに。なぜ我々は、明治時代の箪笥の引き出しにロウを塗っているんですか?」
「それが『味』だからだよ、翔くん」
茜が刷毛を片手に答える。彼女は家具の配置と色味の調整担当だ。
「新品の家具じゃ、この家の『時間』と喧嘩しちゃう。この傷だらけの箪笥が、カウンターになることで、過去と現在が握手するの」
茜の言葉は詩的だが、その作業基準は鬼のように厳しかった。彼女の「美意識」は妥協を許さない。
「まぁぶっちゃければ、『新品買う金が無い』が正解だけどね」
茜がいたずらっぽく笑う。
翔も理解していることだ。
ため息をついて作業に戻った。
「あ、律さん。そのテーブルの配置、窓枠のラインと3ミリずれてます。光の落ち方が美しくないです」
「3ミリ!? 誰も気づかないよ!」
「私が気づきます。私が気持ち悪い空間は、お客さんも無意識に居心地が悪くなるんです。直してください」
律が誰も気が付かないくらい小さく舌打ちをしながらも、メジャーを取り出して修正する。
彼は知っていた。
茜のこの異常なまでのこだわりこそが、空間に「神」を宿らせることを。
さらに困難を極めたのが、健人の悲願である「星見のためのガラス屋根」の施工だった。
古民家の屋根にガラスを嵌め込むことは、技術的に非常にリスクが高い。
瓦屋根の防水構造を一度破壊することになるため、雨漏りのリスクが格段に上がるからだ。
「業者には『雨漏りしても保証できない』って断られた」
健人は屋根の上で汗を拭いながら言った。
「だから俺たちでやるしかねえ」
「狂ってます」
律が下から梯子を支えながら叫ぶ。
「でも、やるなら完璧な防水処理をお願いします! コーキング剤はシリコン系じゃなくて変成シリコンを使ってください!」
健人は屋根の一部を開口し、強化ガラスを設置する枠組みを組んでいく。
山武杉の梁が、新たな異素材を受け入れるために軋む音がする。
「ここから星が見えたら、あいつも喜ぶかな」
健人がふと漏らした言葉に、律は黙って頷いた。
この無謀な工事が、単なるリフォームではなく、健人にとっての「鎮魂の儀式」であることを理解していたからだ。
また、厨房エリアでは、別の戦いが繰り広げられることになる。
元々土間だった場所にコンクリートを打ち、業務用の厨房機器を配置する。
シンク、冷蔵庫、製氷機、オーブン、そして健人がこだわって導入したエスプレッソマシン。
これらを、限られたスペースにパズルのように組み込まなければならない。
しかも、保健所の厳格な基準を満たした上でだ。
「健人さん、製氷機の排水パイプ、これじゃ勾配が取れません! 水が逆流します!」
律が図面を見ながら叫ぶ。
「あー? じゃあレンガか何かで嵩上げすりゃいいだろ」
「衛生基準違反です! 床から15センチ以上上げないと、清掃ができないとみなされます。専用の架台が必要です」
「そんな金ねえよ! 木材で枠作ってペンキ塗ればわかんねえって!」
「わかります! 保健所の検査官を舐めないでください! 彼らは重箱の隅を楊枝でほじくるプロです! 食品衛生責任者の設置届は出しましたが、設備基準で落ちたら営業許可は下りないんです!」
律の「乙女座的潔癖」と「銀行員的コンプライアンス遵守」が炸裂する。
彼は中古の厨房機器を徹底的に磨き上げ、配管の継ぎ目一つに至るまでチェックを行った。
従業員の手洗い設備についても、L5規格の手洗い器を設置し、消毒用アルコールの配置場所までミリ単位で指定した。
「翔くん、手洗い器の薬用石鹸入れとペーパータオルホルダーの位置、ここでいいか確認してくれ。動線シミュレーションだ」
「了解です。……三島さん、そこでガレットを焼く動作をしてください。僕が洗い物をします。ぶつかりますか?」
「うん、ちょっと狭い。あと、冷蔵庫の扉を開けるとオーブンの熱気が逃げる。配置逆のほうがいいかも」
「……配置変更、再計算します。律さん、給排水の引き直しが必要です」
「マジかよ……」
猛暑の中、彼らは数センチ単位の調整を繰り返し、汗と埃にまみれながら「最強の厨房」を作り上げていった。
その原動力となっていたのは、祭りで得た「手応え」だった。
自分たちが作ったものが、人に喜ばれるという実感。
それが、彼らの背中を押し、妥協を許さない姿勢へと繋がっていた。
家具の搬入と並行して、翔はデジタル領域での「地盤固め」を行っていた。
祭りの夜に拡散された「#奇跡のガレット」の投稿は、その後も勢いを増し、TikTokやInstagramのリール動画で「おすすめ」に表示され続けていた。
2026年のSNSトレンドは、「作り込まれた完璧な世界観」から、「リアルで泥臭いプロセス(物語)」への回帰が進んでいた。
AI生成コンテンツが溢れる中、ユーザーは「人間の汗と体温」を感じられるコンテンツに飢えていたのだ。
翔はそれを敏感に察知し、あえて「美しい完成予想図」ではなく、「汗だくで床を張る律」「ペンキまみれで笑う茜」「真剣な眼差しで配管と格闘する健人」の動画を投稿し続けた。
キャプションはシンプルに。
『不器用な大人と子供たちが、本気で居場所を作っています。10月3日、この場所で会いましょう』
この戦略は功を奏した。
「応援したい」
「完成を見届けたい」
というコメントが溢れ、クラウドファンディングの支援額も目標の200%を突破していた。
しかし、光が強ければ影も濃くなる。
予約受付開始を告知した9月20日の正午。
翔が構築した予約サイトのサーバーが、アクセス集中によりダウンしたのだ。
「……落ちました」
翔が青ざめた顔で呟いた。
「想定の10倍のアクセスです。AWSのインスタンスを増強しましたが、データベースの書き込み処理が追いつきません。503エラーが返っています」
「えっ、どうなんの? 予約取れないってこと?」
健人が覗き込む。
「いえ、リクエストは来ていますが、確定メールが飛んでいません。ダブルブッキングが発生している可能性があります。……僕のミスです。スケーリングを見誤りました」
翔は唇を噛んだ。
完璧主義の彼にとって、システム障害は屈辱以外の何物でもない。
「翔、謝ってる暇があったら手を動かそう」
健人が強い口調で言った。
「デジタルのことはわからんが、客は待ってるんだろ? だったら、こっちから迎えに行くしかねえ」
「迎えに行く……?」
「DMだ。インスタとTikTokのDM、全部返そう。手動で」
「は? 3000件以上ありますよ? 不可能です」
「可能か不可能かじゃねえ、やるんだよ。俺たちは『アナログとデジタルのハイブリッド』だろ?」
そこから24時間、4人で手分けをしてひたすらDMを返していった。
翔がシステムログから予約希望者のリストを抽出する。
律がExcelで予約台帳を作成し、空き枠を管理する。
健人と茜が、一件一件、丁寧な謝罪と予約確定のメッセージを手動で送信する。
「『ご迷惑をおかけして申し訳ありません。お席をご用意できました。星見邸でお待ちしています』……送信!」
茜の指がスマホの画面を叩き続ける。
「腱鞘炎になりそう」
「頑張れ茜ちゃん! 甘いもの補給だ!」
律がコンビニで買ってきたアイスを配る。
「翔くん、変なDMもあるんだけど、なんだろう……『管財研究所』?ってところから」
「スパムでしょうね。バズってるとそういうのもよく来ますから、無視してください」
「りょーかい」
夜明け頃、ようやく全ての対応が完了した。
「……終わった」
翔がデスクに突っ伏した。
「非効率の極みです。でも……」
「でも?」
「クレームが一件もありません。『丁寧な対応ありがとう』『中の人の温かさを感じた』という返信ばかりです。……健人さんの言う通りでした。効率だけが正解じゃない」
翔の目には、疲労と共に、確かな光が宿っていた。このトラブルは、逆にファンとの結束を強める結果となったのだ。
9月25日。運命の保健所検査の日。
律は朝からソワソワし、胃薬を3回飲んだ。
白衣を着た検査員が、鋭い目つきで厨房をチェックしていく。
「……手洗い器のサイズ、規定通りですね。床の勾配も問題なし。冷蔵庫の温度管理表も……完璧だ。二層シンクの給湯設備も正常に稼働していますね」
検査員はクリップボードに何かを書き込み、最後に律の顔を見た。
「素人施工と聞いていたので心配していましたが、ここまで完璧な衛生管理はプロの現場でも珍しいですよ。……合格です」
「ありがとうございます!!」
律はその場に崩れ落ちそうになるのを堪え、深々と頭を下げた。
続いて行われた消防検査も、誘導灯の設置や消火器の配置(翔が徹底的に調べ上げていた)に不備はなく、無事にクリア。これで、法的に「店」として開く準備が整った。
オープン前夜、10月2日。
全ての準備を終えた4人は、完成したばかりの客席に座っていた。
茜が選んだアンティークのテーブル。
天井には、健人が拾ってきた流木とエジソンバルブを組み合わせた照明が温かい光を落としている。
そして頭上には、苦労して設置したガラス屋根越しに、満天の星空が見えていた。
「……ついに、明日だな」
健人が呟いた。
「長かったですね。……いや、短かったのかな」
律がグラスを磨きながら言う。
「私はあっという間だった。……この家、喜んでる気がする」
茜が壁に耳を当てる。
「数字的には勝算があります。ですが、本番は何が起こるかわかりません」
翔が気を引き締める。
健人は立ち上がり、厨房へ向かった。
「今日は俺が作る。最後の『素人のまかない』だ。明日からはプロの料理になるからな」
出てきたのは、具材が不揃いなカレーライスだった。
「……雑ですね」
翔が笑う。
「でも、美味い」
律が一口食べて目を見開く。
「うん、元気が出る味」
茜がスプーンを進める。
「乾杯しよう」
健人が缶ビールを掲げた。
「何にですか?」
「きまってるだろ。俺たちに。そして、ここから始まる『星見邸』の物語に」
グラスが触れ合う音が、静かな夜に響いた。
この瞬間、彼らはただの寄せ集めではなく、一つの「家族」のようなチームになっていた。
10月3日、午前11時。
グランドオープン。
開店前から、星見邸の前には長蛇の列ができていた。
SNSで拡散された「物語」を目撃しようと、県外からも多くの客が訪れていた。
「いらっしゃいませ!」
健人の元気な声と共に、重厚な木の扉が開かれた。
最初の1時間は順調だった。
翔の構築した予約システムとオーダーシステムが機能し、律がホール全体を俯瞰して指示を出す。
しかし、想定外の事態は常に現場で起こる。
「すみません! 2番テーブルのお客様、写真撮影に夢中で料理の注文してません!」
「5番テーブル、お子様がジュースをこぼしました!」
「テラス席、暑すぎてお客様が茹で上がってます!」
そして何より、茜の厨房がパンクした。
「茜ちゃん、ガレットまだ!? オーダー溜まってるぞ!」
「待って! 今、焼き色の最終調整中……」
「そんなのいいから出して! お客さん待たせすぎだ!」
「ダメ! 美しくないものは出せない!」
茜の「こだわり」が、ピークタイムの圧力と衝突する。
提供遅延が発生し、客席の空気がピリつき始める。
その空気を変えたのは、健人だった。
彼はホールを飛び回り、待たせている客に話しかけた。
「すみませんねえ、うちのシェフ、芸術家なもんで! その代わり、味は保証しますよ! ……お詫びに、俺の特製手品でも見ます?」
健人は持ち前の明るさと、広告代理店時代に培った「場を盛り上げるスキル」を全開にした。
子供には風船で犬を作り、カップルには星の話をし、年配の客には家の歴史を語る。
彼の笑顔とトークが、客のイライラを「楽しい待ち時間」に変えていく。
「オーナーさん、面白いね!」
「この店、なんか温かいわね」
健人は止まらなかった。
厨房に入って皿洗いを手伝い、ドリンクを作り、ホールで接客し、トラブルを処理する。
「翔、レジ頼む! 律、食器を下げていって! 茜ちゃん、最高だ、その調子で焼いてけ!」
彼は太陽のように輝き、全員を照らし、引っ張っていった。
そのエネルギーは圧倒的で、凄まじかった。
まるで、自らの命を燃やしているかのように。
午後6時。ラストオーダー終了。
最後の客を見送り、扉を閉めた瞬間、全員がその場にへたり込んだ。
「……死ぬかと思った」
翔が眼鏡を外して汗を拭う。
「でも、やりきった……売上、目標の150%達成です」
律が震える声で報告する。
「私のガレット、みんな『美味しい』って言ってくれた……」
茜が涙ぐむ。
大成功だ。
SNSには「最高のカフェ」「オーナーが素敵」という投稿が溢れている。
彼らは勝利したのだ。
廃屋を蘇らせ、ビジネスとして成立させた。
「健人さん、やりましたね! 乾杯しましょう!」
律がビールを持って振り返った。
しかし、そこに健人の笑顔はなかった。
彼は、店の隅にある古びたソファに深く沈み込んでいた。
その目は虚ろで、焦点が合っていない。
手には、親友の形見である壊れたフィルムカメラが握られている。
「……健人さん?」
律が声をかけるが、反応がない。
先ほどまでの圧倒的なエネルギーが嘘のように、彼は「空っぽ」になっていた。
燃え尽き症候群。
過度のストレスとエネルギー消費の後に訪れる、心身の枯渇状態。
「……終わったな」
健人がポツリと呟いた。
その声は、枯れ木のように乾いていた。
「約束、果たしたぞ。……これで、いいんだよな?」
彼は誰に問いかけるでもなく、天井の梁を見上げた。
そこには、達成感ではなく、深い喪失感と、燃え尽きた灰のような虚無だけが漂っていた。
星見邸は光り輝いていたが、その中心にいた太陽は、静かにその光を失いつつあった。
2026年10月5日、月曜日。
千葉県山武市、早朝六時。
昨日の熱狂が嘘のように、世界は乳白色の霧に包まれていた。杉林から漂う湿った土の匂いと、微かに残るコーヒーの焙煎香が混じり合い、古民家カフェ「サジタリウス」のリビングルームには独特の静寂が満ちていた。
二ノ宮律は、欅の一枚板で作られた事務机に向かい、タブレット端末のスプレッドシートを指先で弾いていた。
画面に並ぶ数字は、彼にとって精神安定剤そのものだった。
売上高、30万1800円。
来客数、98名。
廃棄率、〇・八パーセント。
完璧だ。
元・丸の内の銀行員としての律の「資産評価アルゴリズム」 が、このプロジェクトに対して初めて「AAA」の格付けを与えていた。
翔が構築した予約システムの効率性、茜がこだわり抜いた内装の美学、そして何より、健人が太陽のように振る舞った接客パフォーマンス。
全ての歯車が噛み合い、奇跡のような一日を作り上げたのだ。
「……これなら、今月の返済はクリアできる」
律は小さく安堵の息を吐き、無意識に胸ポケットを探った。
そこには常備薬である胃痛薬と抗不安薬のシートが入っている 。
しかし、今朝はまだ一度もそれに触れていない。
胃の痛みがないのだ。
計画通りに物事が進むという事実が、彼の乙女座特有の神経質な内臓を鎮めている。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
「……律、起きてるか」
リビングの奥、アンティークのソファから、軋むような声がした。
相馬健人
この店のオーナーであり、昨日の主役だった男だ。
律は振り返り、そして眉をひそめた。
そこにいたのは、昨日の輝かしいリーダーではなかった。
無精髭を生やし、充血した目をした、ただの疲れた中年男だった。
彼は親友の形見である、レンズの割れたフィルムカメラ を両手で包み込むように握りしめ、背中を丸めていた。
「おはようございます、健人さん。……昨日はお疲れ様でした。見てください、この数字。大成功ですよ」
律は努めて明るく声をかけ、タブレットを見せた。
しかし、健人は顔を上げようともしなかった。
「……あいつ、喜んでるかな」
健人の視線は、タブレットではなく、天井の太い梁に向けられていた。明治時代からこの家を支え続けてきた、煤けた山武杉の梁。
「レンさんのことですか?」
律は、健人の亡き親友の名前を口にした。
「ああ。……昨日の客、なんて言ってたか覚えてるか? 『オーナーのセンスが凄い』『この空間を作った人は天才だ』って。……みんな、俺を褒めてた。俺の手を握って、ありがとうって言った」
健人の指先が白くなるほど、カメラを強く握りしめる。
「違うんだよ。この屋根のガラス張りも、床の張り方も、全部レンが夢見てたことだ。俺はただ、あいつが遺した設計図をなぞっただけだ。……なのに、称賛されるのは俺だ。これじゃあ、まるで……」
健人はそこで言葉を切ったが、続く言葉は痛いほど明白だった。
――まるで、死んだ親友の功績を横取りしているみたいじゃないか。
律は息を呑んだ。
サバイバーズギルト。
プロジェクトが成功し、光が当たれば当たるほど、その影として「自分だけが生き残ってしまった」という罪悪感が濃くなる。
健人にとって、この店の成功は「達成」ではなく「略奪」に感じられ始めているのだ。
「健人さん、それは論理の飛躍です」
律は銀行員時代の冷静なトーンを取り戻そうとした。
「アイデアがあっても、実行しなければ価値はゼロです。あなたが汗をかき、リスクを負って実行したから、この場所は生まれた。それは横取りではなく『継承』です」
「……継承、か」
健人は自嘲気味に笑った。
その笑顔は、ひび割れたガラスのように脆く見えた。
「重いな、律。……完成しちまったら、急にここが、俺の居場所じゃない気がしてきたよ」
彼の気質は、燃え盛る炎のような情熱と行動力。
しかし、炎は燃料がなければ消える。
「廃屋の修復」という燃料を燃やし尽くし、「完成」という安定した状)になった今、彼は窒息しかけていた。
律は気を取り直し、溜まっていた郵便物の整理を始めた。
昨日のオープン祝いで届いた胡蝶蘭や観葉植物が所狭しと並ぶ事務デスクの上には、請求書やダイレクトメールが山積みになっていた。
「……電気代、ガス代、食材の納品書。……翔くんの交通費精算書、また高いな」
律は事務的に封筒を開封し、仕訳を行っていく。
几帳面な彼にとって、整理整頓は精神安定剤の一種だ。混沌とした感情も、勘定科目に振り分けてしまえば処理可能なデータになる。
その時、一通の封筒が律の手を止めた。
上質な和紙のような手触りの、厚手の封筒。
宛名は「相馬健人 様 親展」
差出人名はなく、裏面にただ一行、金色の箔押しでこう記されていた。
『毒島資産管財研究所』
(……なんだ、これ?)
律の脳内アラームが鳴った。
通常のダイレクトメールではない。
この山武市の片田舎に似つかわしくない、都会的な、そしてどこか不穏な高級感。
「親展」とある以上、勝手に開けるのはマナー違反だ。
しかし、今の健人に正常な判断能力があるとは思えない。マネージャーとしてのリスク管理権限を行使すべき場面だ。
律はペーパーナイフを取り出し、慎重に封筒を開封した。
中から出てきたのは、一枚の書類と、一枚の名刺だった。
書類のタイトルは『不動産買取査定書』
「……は?」
律の声が裏返った。
そこに記されていたのは、この古民家カフェ「サジタリウス」の土地・建物に対する査定額だった。
【査定金額:金 5,000,000円】
健人がこの廃屋を購入した金額の、実に七倍近い数字だった。
備考欄には、流麗な筆致でこう添えられていた。
『リノベーションによる付加価値、および直近の集客実績(SNS等の反響含む)を考慮し、上記金額にて即時買取を提案いたします。尚、本案件は「居抜き」としての事業譲渡(M&A)も含みます』
律の手が震えた。
500万。
正直、現実的な数字ではないと思った。
何かしらの詐欺ではないのかと疑いもした。
(……誰だ、これを作ったのは)
律は名刺を見た。
黒い紙に、銀色の文字。
『毒島 十碧 不動産ブローカー/資産解体人』
「毒島……」
聞いたことのない名前だ。
しかし、このタイミングでの査定書。
まるで、昨日のグランドオープンの大成功を見越していたかのような、あまりにも手回しの良い提案。
「律、どうした? 怖い顔して」
背後から声がした。
いつの間にか、健人が戻ってきていた。手には泥だらけのスコップを持っている。また庭いじりをしていたのだろう。
律は反射的に査定書を隠そうとしたが、遅かった。健人の視線は、デスクの上の「5,000,000」という数字に吸い寄せられていた。
「……なんだこれ」
健人がスコップを置き、査定書を手に取った。
律は緊張して見守った。
怒るだろうか。
「俺たちの城を売るわけないだろ!」
と笑い飛ばしてくれるだろうか。
しかし、健人の反応は予想外だった。
彼はその数字をじっと見つめ、そして、ふっと口元を緩めたのだ。
「……へえ。俺たちが作ったこのガラクタ、こんな値段がつくのか」
その声には、怒りも喜びもなく、ただ深い「安堵」のような色が混じっていた。
律の背筋が凍った。
「健人さん、こんなの、信用できませんし、何より……」
「いや、なんでもない。ただの紙切れだろ」
健人は査定書をデスクに放り投げた。
だが、その視線は名刺の電話番号に、ほんの一瞬だが、確かに留まっていたのを律は見逃さなかった。




