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星降る廃屋と、地を這う3人の修復師  作者: 紅茶


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三章②

キッチンに甘酸っぱい香りが充満し始めた。


鍋の中で、大量のブルーベリーが砂糖と共に煮崩れ、鮮やかな紫色に変わっていく。


翔が木べらで焦げ付かないように混ぜ、茜が横でレモン汁を加える。


「……実家の親父も、よくジャム作ってたな」


湯気の中で、翔がぽつりと漏らした。

普段は自分の過去を語らない翔が、ふと心を開いた瞬間だった。


「市場に出せない規格外のイチゴとかトマトをさ、夜なべしてジャムやソースにしてた。それを『無駄な努力だ』って思ってた。そんなことしてる暇があったら、新しい販路を開拓すればいいのにって」


茜は静かに翔の横顔を見ていた。


「でも、あのジャム、美味かったんだよな。売物にならないけど、家で食べるヨーグルトに入れると最高で。……俺は、その味を知ってるくせに、数字にならないからって否定してたんだ」


翔の手が止まる。

鍋の中のジャムは、とろりと艶を帯び、宝石のように輝いている。


「今日、茜さんの選び方を見てわかったよ。効率だけじゃ拾えない価値があるってこと。親父のジャムも、たぶんそういう価値があったんだな」


茜はそっと翔の手に自分の手を重ねた。


「翔くんのジャムも、すごくいい匂いがするよ。この香り、きっとお客さんに届く」


「……だといいですが」


翔は照れ隠しのように眼鏡を押し上げ、再び木べらを動かし始めた。

鍋の中の紫色は、夜の闇のように深く、そして温かかった。








翌朝。


一晩寝かせた生地は、茜の言う通り、扱いやすくしっとりとしていた。


型に敷き詰め、アーモンドクリーム(クレーム・ダマンド)を流し込み、オーブンで焼き上げる。


香ばしいバターの香りが、古民家のはりまで染み渡っていく。


焼き上がったタルト台が冷めるのを待ち、翔特製のブルーベリージャムを薄く塗る。その上に、カスタードクリームを絞り出し、最後に茜が選別した「最高級ブルーベリー」を生のままトッピングしていく。


茜の手つきは、まるで宝石職人のようだった。

一粒一粒、実の向きや大きさを確認し、ピンセットで配置していく。隙間なく、しかし互いを潰さないように。


最後に、ミントの葉を飾り、粉砂糖を雪のように降らせる。


「できた……!」


テーブルの上には、紺青色の宝石箱のようなタルトが鎮座していた。

艶やかなナパージュ(艶出し)が光を反射し、窓から差し込む朝日に輝いている。

それは、昨日見た農園の風景――光と影、緑と青が混ざり合う生命の輝きそのものだった。


「うおー! すげえ! これ売り物だろ!?」


起きてきた健人が、寝癖のついた頭で叫んだ。


「デパ地下で1ホール5,000円はするぞ!」


「見た目は完璧ですね」


律も頷く。


「問題は味と、原価回収率だ」


「食べてみて」


茜が切り分けたタルトを差し出した。

ナイフを入れると、サクッという小気味良い音が響く。

グルテンが緩和された証拠だ。


断面は美しい層を成している。

下から、サクサクのタルト生地、しっとりしたアーモンドクリーム、濃厚なジャムの層、滑らかなカスタード、そしてフレッシュなブルーベリー。


四人は同時に口に運んだ。


静寂。

そして、爆発。


最初に弾けるのは、生のブルーベリーのフレッシュな酸味と香り。

茜が選んだ「軸が震える」ほどの実だ。

皮が薄く、噛んだ瞬間に果汁が溢れ出す。

次に、翔が作った濃厚なジャムの甘みが追いかけてくる。

煮詰めることで凝縮された野性味あふれる甘さが、フレッシュな実の酸味を支えている。

そして最後に、バターの香ばしさとカスタードの優しさが全体を包み込む。


食感のコントラスト。

味のグラデーション。


それは、計算され尽くした「調和」だった。翔の効率(ジャムによる量と甘みの確保)と、茜の感性(生の実による香りと食感の演出)が、完全に融合していた。


「……美味い」


健人が唸った。


「なんかさ、この土地の味がする。雨の匂いと、太陽の匂いが混ざったみたいな」


「……悔しいが、認めざるを得ないな」


律が二口目を運ぶ。


「この味なら、翔くんの言う通り単価を上げても売れる。いや、安売りしてはいけない味だ」


翔は、最後の一口をゆっくりと味わった。

口の中に広がる甘酸っぱさは、昨日、茜と歩いた夕暮れの農道の空気と似ていた。

効率と非効率。

数字と感性。


相反すると思っていた二つの要素は、タルトという円環の中で、互いに支え合っていた。


「……ペイします」


翔はフォークを置いた。


「このクオリティなら、高価格帯のブランディングが可能です。僕の写真とセットで売り出せば、週末の目玉商品になる。……三島さんのこだわりは、正当な投資でした」


「やった!」


茜がガッツポーズをする。

翔は茜を見た。

彼女の指先は、ブルーベリーの果汁で薄く青く染まっていた。

その手が作ったものを、自分が守り、売る。

その役割分担パートナーシップが、悪くないと思えた。


「よし、じゃあ商品名は『星降る夜のブルーベリータルト』でどうだ!」


健人が安直なネーミングを叫ぶ。


「ダサいです」

「却下」

「長い」


三人の声が重なった。

顔を見合わせ、四人は笑った。


窓の外では、夏の到来を告げる入道雲が、青空に湧き上がっていた。












タルトを完食した後、翔は縁側で一人、タブレットを操作していた。

画面には、新しいプロジェクトファイルが表示されている。


タイトルは『サジタリウス・サマーフェスティバル計画案』


今回のタルト作りで得た確信――「地元の素材」と「手間暇かけた体験」こそが最大の価値であるということ。


それを、タルトという小さな世界だけでなく、この古民家全体、いや、この山武市全体に広げる壮大な計画。


かつて父が夢見て、挫折した「良いものが正当に評価される場所」を作るための挑戦。


「……翔くん、何してるの?」


茜が後ろから覗き込んできた。


「次の仕込みです。タルトだけじゃ終わりませんよ。次は、この町全体を巻き込みます」


「町全体?」


「ええ。健人さんが言ってた『星見の祭り』、本当にやりますよ。僕たちのやり方で」


翔は眼鏡の奥の瞳を光らせた。

その目には、もはや冷ややかな諦観はない。あるのは、地を這いながらも頂を目指す、翔の静かで熱い野心だった。


「手伝ってくれますよね、パートナー?」


翔が差し出した手に、茜は驚きつつも、泥と果汁で汚れた手を重ねた。


「もちろん。……翔くんの計算なら、信じてあげる」


二人の手のひらの間には、確かな温度があった。

星降る廃屋の修復は、まだ終わらない。

むしろ、ここからが本当の「再生リストア」の始まりだった。
















2026年7月下旬。


千葉県山武市を包み込む大気は、単なる空気というよりも、熱湯を含んだ真綿のように重苦しい質量を持っていた。

太平洋から吹き付ける湿った海風——いわゆる「やませ」の影響を含むこの地域特有の気象特性——は、内陸の北総台地が日中に蓄えた熱気と衝突し、夜になっても気温が下がらない「熱帯夜」を作り出していた。

湿度は連日八〇パーセントを超え、不快指数は人間の理性を削り取る領域に達している。


築百年を超える古民家「星見邸ほしみてい」のリビングルーム。


先日の大雨で雨漏りした天井は修繕されたものの、断熱材の入っていない薄い土壁は外気を遮断しきれず、六畳用の旧式エアコンが悲鳴のような駆動音を上げてフル稼働していた。しかし、室温計の表示は二八度を下回らない。


その一角で、高校生・四方田翔よもだかけるは、MacBook Proのキーボードを叩き続けていた。彼の背中は汗でシャツに張り付き、額からは一筋の汗が流れて眼鏡のフレームを濡らしていたが、その瞳だけは氷のように冷たく、画面上のスプレッドシートを凝視していた。


「……効率が悪い」


翔が小さく呟いた。

その言葉は、この劣悪な作業環境に対する不満であると同時に、この町全体に対する苛立ちの表れでもあった。

彼の目の前にあるのは、山武市の人口動態データ(e-Stat)と、過去の観光イベントにおける消費行動の分析データ、そして自身の銀行口座の残高照会画面である。

高齢化率三〇パーセント超。若年層の流出。

第一次産業への依存と、低い労働生産性。

この町は、翔にとって「改善すべき非効率なシステム」そのものだった。


彼が今、構築しているのは、来る七月二十六日に開催される「山武市サマーカーニバル」における、カフェ「サジタリウス」の出店戦略である。

会場となる「蓮沼海浜公園」は、九十九里浜に面した広大な県立公園であり、夏には県内最大級のプール「蓮沼ウォーターガーデン」を目当てに数十万人の観光客が訪れる。


サマーカーニバルは、その夏のピーク時に開催される一大イベントであり、サンバパレードや花火大会が行われる、この町で最も金が動く一日だ。


目的は明確だ。


第一に、カフェ「サジタリウス」の認知度向上。

第二に、短期間での最大収益の確保。

そして第三に――これが翔にとって最も個人的かつ重要な動機だが――「田舎の古い商習慣」を論理とテクノロジーで凌駕し、自分の正しさを証明することである。


「おーい、翔。水分取れよ。熱中症になるぞ」


縁側から、オーナーの相馬健人そうまけんとが声をかけてきた。

彼はランニングシャツ一枚で、庭の草むしりをしている。

汗だくで泥だらけだが、その顔はなぜか楽しそうだ。

手には、どこからか拾ってきた流木を持っている。


「これ、祭りの看板に使えそうじゃね?」


などと言っている。


翔は健人のその笑顔を見るたびに、胸の奥がざらつくのを感じた。


なぜ、この人は笑っていられるんだ?

利益も出ていないのに。

汗をかくだけで満足しているのか?


翔の脳裏に、古い記憶がフラッシュバックする。それは、泥と肥料の匂いが染み付いた、実家の台所の記憶だ。


翔の父親は、山武市で代々続く農家の長男だった。

実直で、寡黙で、誰よりも早起きして畑に出る男だった。


父親が作る野菜は美味かった。


特に夏場のトウモロコシやトマトは、糖度が高く、味が濃いと近所でも評判だった。翔も幼い頃は、父のトラクターの助手席に乗るのが好きだった。


土の匂いと、父の背中の匂いが混ざったあの空間が、世界の全てだった。

しかし、翔が成長し、数字というものを理解するにつれて、その世界がいかに脆いものであるかを知った。翔が見てきたのは、その「美味しい野菜」が金に変わる瞬間ではなく、理不尽なシステムに搾取される父親の背中だった。


「今年は豊作だ、翔。いい出来だぞ」


そう言って笑った父の顔が、数日後には青ざめていた。


農協からの通知。

市場価格の暴落。

規格外野菜の廃棄処分。


どれだけ手間暇をかけて育てても、形が少し歪んでいるだけで「B品」として買い叩かれる。


あるいは、豊作すぎて値崩れを防ぐために廃棄させられる「生産調整」


父の作ったトマトが、山のように積まれてトラクターで潰されていく光景を、翔は忘れることができない。

赤い果汁が土に染み込み、トマトの匂いが立ち込める。

それは、父の努力とプライドが、物理的に圧殺される音だった。


農協の定めた価格決定メカニズムにおいて、個々の農家の「努力」や「味」は変数として組み込まれていなかった。


そこにあるのは、冷徹な需給曲線と、農協という巨大組織の維持費だけだ。


夜、台所の薄暗い明かりの下で、父親が通帳を広げて溜息をつく姿を、翔は見ていた。


赤字。

借金。

肥料代と農薬代の高騰。


「……しょうがねぇな。お天道様には勝てねぇ」


父はそう言って、安焼酎を煽った。

その言葉を聞くたびに、翔の心の中で何かが冷たく固まっていった。


(しょうがない? 違う。それは思考停止だ)


当時の翔は、子供心に強烈な怒りを覚えた。

父は「いい人」だった。

近所の農家が病気になれば手伝いに行き、困っている人がいれば野菜を分けた。


だが、その「善意」は一円の金にもならなかった。

むしろ、善人であればあるほど、システムの良いカモにされ、貧乏くじを引かされる。


「正直者が馬鹿を見る」


それが、翔がこの田舎町で学んだ唯一の真理であり、呪いだった。


だからこそ、翔は誓ったのだ。自分は絶対に、父のようにはならないと。

土にまみれて、汗を流して、最後は誰かに搾取される側には回らない。


仕組みを作る側になる。数字を操り、感情を排し、効率的に利益を上げる「勝者」になるのだと。


「……見ていてください」


翔は画面上の数式を修正した。


目標客単価:2500円。

回転率:一分あたり二組。


この計算式通りに進めば、たった一晩で、父が一ヶ月汗水垂らして稼ぐ金額以上の利益を叩き出せる。


それは彼にとって、亡き父への鎮魂歌ではなく、父を苦しめた「牧歌的な貧困」への復讐だった。








その夜、夕食後のミーティングで、翔は自身の考案した「サマーカーニバル出店計画」をプレゼンテーションした。


全員がちゃぶ台を囲む中、翔はプロジェクター(翔の私物)を白い漆喰壁に投影した。


「今回の出店におけるコンセプトは、『フリクションレス・ガストロノミー』です」


画面に映し出されたのは、一般的な祭りの屋台とはかけ離れた、洗練された黒いブースのデザイン画だった。検索した海外のガレージブランドのテントをベースに、無駄な装飾を削ぎ落としたミニマルなデザイン。

そこには「焼きそば」や「たこ焼き」といったのぼりは一切ない。


「ふりくしょんれす・がすとろみー……?」


聞きなれない言葉に、茜が首をかしげる。


「スムーズな食体験、という意味です」


翔が補足する。



【基本戦略:高単価・高効率・完全デジタル化】


項目 サジタリウス(戦略)

価格帯 2,500円 プレミアム価格による客層フィルタリング

決済 完全キャッシュレス 衛生面・会計スピード・現金管理リスク排除

待ち時間 ゼロ(事前モバイルオーダー) "並ばない"という体験価値の提供

ターゲット 全年齢層 富裕層・観光客・Z世代 ※地元客(低単価層)の意図的な切り捨て

衛生 感染症対策意識の高い層への訴求


項目 テキヤ(競合)

価格帯 500円〜800円

決済 現金のみ

待ち時間 行列あり(15分以上)

ターゲット 地元客(低単価層)

衛生 露店基準


「……2500円?」


店長兼経理の二ノ宮律(二十五歳・乙女座)が、胃薬の瓶を片手に素っ頓狂な声を上げた。


「翔くん、ここは銀座じゃないんだよ? 山武市の祭りだ。焼きそばが500円、かき氷が300円の世界だ。桁が一つ違うんじゃないか?」


「だからこそ勝機があるんです」


翔は即座に反論した。


「律さん、競合分析を見ましたか? 会場には約五十店舗の屋台が出ますが、その九割が焼きそば、たこ焼き、唐揚げです。いわゆる『粉物・揚げ物』のレッドオーシャンです。そこで価格競争をしても、我々のような素人がテキヤに勝てるわけがない。回転スピードも原価率も負けます」


翔は次のスライドを表示した。


「祭りの最大のペインは何か? 『暑い中で並ぶこと』と『小銭のやり取り』です。特に衛生面を気にする層や、タイパを重視するZ世代にとって、現金決済の行列はストレスでしかない。我々は『待たずに買えるプレミアムな食事』という体験価値を売るんです」


「でもさあ」


健人がビールを飲みながら首を傾げた。


「祭りの醍醐味って、あのごちゃごちゃした感じじゃないの? 小銭握りしめてさ、『おじちゃん、おまけして!』とかやるのが楽しいんじゃん。俺、そういうのが好きなんだけどな」


「それが非効率の極みです」


翔は冷たく切り捨てた。


「小銭の受け渡しに平均15秒かかるとします。1000人に売る場合、決済だけで四時間以上のロスが発生します。それに、現金の管理はミスや盗難のリスクがある。完全キャッシュレスなら、レジ締め作業もゼロ秒です。健人さん、あなたは汗をかきたいんですか? それとも利益を出したいんですか?」


「……それは、まあ、利益は欲しいけど……」


健人は言葉に詰まり、助けを求めるように茜を見た。



三島茜みしまあかねは、膝を抱えて壁に映るデザイン画を見つめていた。


「……黒いテント。かっこいいけど、なんか寂しいね」


彼女はボソッと言った。


「料理は? 冷凍は使わないよね?」


「当然です」


翔は頷いた。

前回の「ブルーベリータルト」での敗北を経て、翔は茜の「味」に対する信頼(というよりは、商品価値としての評価)を確立していた。


「茜さんの作るガレットは、味においては最強のコンテンツです。山武市産の蕎麦粉を使った生地に、地元のハムと卵、そしてチーズ。素材の力だけで勝負できる。だからこそ、安売りしてはならない。二千五百円でも安いと思わせるクオリティを出してください。ただし、提供スピードは一分以内です」


「一分……」


茜は眉をひそめた。


「生地を焼くのに最低でも二分はかかるよ。それに、仕上げにハーブを飾る角度とか、こだわりたいし。お皿だって、使い捨ての紙皿じゃ味気ない」


「そこをシステムで解決するんです」


翔は説明を続けた。


「モバイルオーダーで受注を予測し、ピークタイム前に見込み生産を行う。茜さんはひたすら焼くことに集中してください。注文受け付けと決済はAIとスマホがやります。接客(無駄話)は不要です。器については、黒い紙皿を使用します。料理の彩りを引き立てるためです」


律が唸った。


「論理的には……翔くんの言うことは正しい。我々は少人数だ。四人で数万人の来場者を相手にするなら、オペレーションを極限まで効率化しないとパンクする。特に衛生管理の面で、現金を触った手で食品を扱うリスクを排除できるのは大きい」


律は「衛生」と「リスク管理」という言葉に弱い。

翔はそこを突いたのだ。


「でも、お年寄りはどうするの?」


茜が聞いた。


「スマホ持ってないおじいちゃんとか、買えないよ? 祭りに来るのは若い子だけじゃないよ」


翔は眼鏡の位置を直した。レンズの奥の瞳が、冷徹な光を放つ。


「切り捨てます」


部屋の空気が凍りついた。

健人がビール缶を置く音が、やけに大きく響いた。


「我々のリソースは有限です。全ての客を相手にしようとすれば共倒れになる。スマホを使えない層は、最初からターゲット外です。彼らには、隣の焼きそば屋に行ってもらえばいい。我々は、選ばれた客に、最高のサービスを提供する。それがマーケティングです」


健人が悲しげな顔をした。


「翔、お前……なんか、そういう考え方、寂しくないか? 俺たちは『地域活性化』も掲げてるんだぞ? 地元の爺ちゃん婆ちゃんを仲間外れにして、何が創生だよ」


「地域活性化には金が必要です」


翔は声を荒げた。

父の惨めな姿が脳裏をよぎる。


「綺麗事じゃ飯は食えないんですよ。 健人さん、あなたの退職金はもう底をつきかけている。今回の祭りで確実に黒字を出さなければ、冬にはこの店も潰れる。情けで商売ができるほど、現実は甘くないんです」


その剣幕に、大人たちは押し黙った。

翔の言っていることは、残酷だが正論だった。

彼らは資金難に喘いでいる。

失敗は許されない。


「……わかった」


律が重い口を開いた。


「翔くんのプランで行こう。リスクヘッジとして、僕が現金対応用の小銭も用意しておくが、基本はキャッシュレス一本でいく。ただし、翔くん。君が責任者だ。もし失敗したら、君が全責任を負う覚悟はあるか?」


「あります」


翔は即答した。


(勝てる。このシステムなら、絶対に勝てる)


彼は確信していた。感情や情緒といった不確定要素を排除し、純粋な数字と論理で構築されたこの城塞は、泥臭い田舎の祭りの中で、輝かしい成功の塔となるはずだと。








祭りまでの1週間、翔は準備に没頭した。

彼がやったことは、徹底的な「リアルの排除」と「ブランドの構築」だった。


ブースの核となる「黒いテント」


翔が選定し、レンタル(健人のコネで借り受けた)したのは、知る人ぞ知るガレージブランド「MOOSE ROOM WORKS」の『KAKUREGA』を彷彿とさせる、ポリコットン製の漆黒のシェルターだった。


一般的な白いイベント用テントとは一線を画すその外観は、遮光性が高く、外からの視線を遮断する。


テントの生地はマットな質感で、山武市の強い日差しを吸収し、内部に深い闇を作る。


翔はこの「黒」にこだわった。

黒は高級感の象徴であり、同時に周囲の雑多な「田舎の色彩(紅白幕やブルーシート)」からの断絶を意味する。

テントの入り口には、デジタルサイネージを設置し、茜が調理する美しいガレットの映像をループ再生させる。

アナログな「いらっしゃいませ」の声の代わりに、高解像度の映像が客を招くのだ。


ポスターや回覧板といった地域住民向けのアナログ媒体には一切出稿しなかった。

代わりに、ターゲティング広告とTikTokのインフルエンサーマーケティングに予算を全振りした。


「#山武市サマーカーニバル」

「#奇跡のガレット」

「#完全キャッシュレス」


というハッシュタグで、都内のグルメ層やトレンドに敏感な若者にリーチさせる戦略だ。


動画は、前回のブルーベリータルトの時に撮影した、茜の美しい手元と、スタイリッシュな映像を使用した。

再生回数は順調に伸び、コメント欄には「行ってみたい!」「これどこのフェス?」という好意的な反応が並んだ。


決済システム:

高速通信用のWi-Fiルーター(Starlinkの導入も検討したが予算オーバーで断念し、業務用の5Gルーターをレンタル)を確保し、複数のQR決済ブランドに対応した端末をセットアップした。


一方、健人と茜は、食材の仕込みに追われていた。

山武市特産の蕎麦粉を使ったガレット生地。地元の養鶏場から仕入れた新鮮な卵。

そして、ソースに使うブルーベリーやイチゴ。

茜は素材の良さを引き出すために、またしても非効率な手間をかけていた。

生地を一晩寝かせ、具材のチーズは削りたてを用意する。

翔は今回ばかりはそれを黙認した。「2,500円の説得力」には、茜の過剰なまでのこだわりが必要だったからだ。


しかし、準備が進むにつれて、チーム内には奇妙な断絶が生まれていた。

健人は近所の農家や商工会の人々と、「いやあ、今年も祭り楽しみですねえ! うちは変な店出しますけど、笑ってやってくださいよ!」と談笑しながら準備をしている。


律も、役所への申請などで地域の人々と接点を持っていた。


だが翔だけは、常にパソコンに向かい、誰とも言葉を交わさなかった。

彼にとって、祭りの準備とは「パラメータの調整」であり、人間関係の構築ではなかった。




7月24日。

祭りの前日。

会場となる「蓮沼海浜公園」での設営作業。

海からの風が強い。

黒いテントがバタバタと音を立てる。

周りの屋台は、地元の商店街のオヤジたちが、ビールケースを椅子にして座り込み、ワイワイと準備をしている。

焼きそばの鉄板を磨く音、氷を運ぶ音、笑い声。

そこには「生活の匂い」があった。


「おーい、そっちの兄ちゃん! 手伝おうか?」


隣の焼きそば屋の店主が、一人で重い機材を運ぶ翔に声をかけた。

太った、人の良さそうなおじさんだ。


「結構です」


翔は目も合わせずに断った。


「業務用の精密機器なので、触らないでください」


店主はムッとした顔をして、「なんだ、東京モン気取りかよ。感じわりぃな」と吐き捨てて戻っていった。


(それでいい)


翔は思った。

馴れ合いは不要だ。

明日の売上を見れば、誰が正しかったかわかる。

彼らは汗をかき、声を枯らして五百円を稼ぐ。

自分は涼しい顔で、指先一つで二千五百円を稼ぐ。

その圧倒的な格差を見せつけることこそが、父への、そしてこの町への復讐なのだ。


テントの中に設置したデジタルサイネージのテストを行う。黒い背景に、白い明朝体で浮かび上がる文字。


『SAGITTARIUS - FUTURE GASTRONOMY』


それは美しく、完璧だった。この泥臭い田舎の風景の中で、そこだけが未来のように輝いていた。



7月25日、土曜日。

快晴。

午後二時。

山武市サマーカーニバルの幕が開いた。


気温は三五度を超えていた。

アスファルトからの照り返しが凄まじい。

蓮沼海浜公園のシンボルである高さ30メートルの展望塔が、陽炎の中で揺れている。

会場は熱気に包まれていた。

メインステージからはサンバのリズムが轟き、極彩色の羽飾りをつけたダンサーたちが練り歩く。


浅草サンバカーニバルにも出場する強豪チームが招かれており、その迫力は田舎の祭りとは思えないほどだ。

打楽器の振動が地面を伝わり、観客の心臓を直接叩く。


家族連れ、カップル、地元のヤンキーグループ。

多様な人々が、熱波の中を回遊魚のように動き回る。

彼らの手には、焼きそばやかき氷、生ビールが握られている。

その喧騒の中に、異質な空間があった。サジタリウスのブース。


黒一色で統一されたそのブースは、まるでSF映画のモノリスのように浮いていた。


メニュー表はない。

店員の呼び込みもない。

ただ、巨大なQRコードが描かれた看板と、「完全キャッシュレス / CASHLESS ONLY」という冷たい文字があるだけだ。


翔は黒いポロシャツ(ユニフォームとして全員分発注した)に身を包み、タブレットを持ってカウンターに立っていた。


後ろでは、茜と健人がスタンバイしている。


茜は暑さで少し顔を赤くしているが、目は真剣だ。


健人は手持ち無沙汰にトングをカチカチと鳴らしている。

律はレジ(といっても現金はないので、システム監視役)を担当していた。


「……誰も来ないな」


開始から一時間。

健人が不安そうに呟いた。

周りの屋台には、すでに行列ができている。


隣の焼きそば屋からは、ソースの焦げる匂いと、「いらっしゃい! 大盛りサービスしとくよ!」という威勢のいい声が聞こえてくる。


一方、サジタリウスのブースは、静まり返っていた。デジタルサイネージの映像だけが、虚しくループしている。


「想定内です」


翔は表情を変えずに言ったが、握ったタブレットの手には汗が滲んでいた。


「今の時間帯は、地元民が中心です。彼らはターゲットではない。夕方、花火目当ての観光客が来てからが勝負です。……今のうちに、仕込みを完璧にしておいてください」



しかし、事態は翔の計算通りには進まなかった。


客が来ないわけではない。


黒いテントの異様さに惹かれて、足を止める人はいた。


だが、彼らはカウンターの「現金不可」の文字を見た瞬間、顔をしかめた。


「おい、これ美味そうだな。ガレット? パンケーキみてぇなもんか」


麦わら帽子を被ったおじいさんが、千円札を握りしめて近づいてきた。


孫に何か買ってやりたいのだろう。


「一つくれや」


翔はマニュアル通りに対応した。


「申し訳ありません。当店は完全キャッシュレスとなっております。こちらのQRコードを読み込んでご注文ください」


「あ? キャッシュ……なんだって?」


「現金は使えません。スマホで注文してください」


おじいさんは、握っていた千円札と、翔の顔を交互に見た。


「金があんのに、買えねぇってのか?」


「はい。システム上、受け取れません」


「……馬鹿にしてんのか!」


おじいさんは千円札を地面に叩きつけそうになり、怒って去っていった。


「気取ってんじゃねぇよ! なんだこの店は!」


その声は、周りの客にも聞こえた。空気が悪くなる。


ワンピース姿の母と子が、テントの前を通過する。


「ママ、これ食べたい! おしゃれ!」


インスタを見て来たと思われる若い母親が、子供の手を引いてやってきた。


「あ、あった。これTikTokで見たやつだ。買おうか」


母親はスマホを取り出し、QRコードを読み込もうとした。しかし。


「……繋がらない」


「え?」


「画面がグルグルしたまま動かないの。電波が悪いのかな」



翔が用意した店舗用Wi-Fiは生きているが、客側のスマホがキャリア回線を通じて注文サイトにアクセスできていない。

この賑わいで、通信回線がパンクするとも思えない。

翔は、恐らく通信制限だろう、と予想した。


「すみません、画面が出なくて……。現金じゃダメですか?」


母親は困り顔で言った。子供は「食べたい!」と泣き叫んでいる。


翔は一瞬迷った。

律が用意した小銭箱を使えば、売ることはできる。

だが、ルールを崩せばオペレーションが崩壊すると自分に言い聞かせた。


ここで例外を作れば、なし崩し的に現金対応になり、レジ締めという「非効率」が発生する。


「申し訳ありません。少し待っていただければ、アクセスできるかと思います」


「えー、うーん……。はぁ、すいません。やっぱりいいです。 行くよ!」


母親は子供の手を引いて、隣のかき氷屋へ走っていった。


「いらっしゃい! すぐ出来るよ!」という隣の店主の声が、翔の耳に突き刺さる。


地元の高校生たちが通りかかる。

翔の同級生かもしれない。

翔は顔を伏せた。


「うわ、高っ! 2,500円?」


「マジかよ、ボリすぎだろ。東京価格かよ」


「しかも現金ダメだって。PayPayの残高ねーし」


「つーか、店員の態度スカしててムカつくな。何様だよ」


彼らは翔を指差して笑い、スマホで写真を撮って去っていった。

おそらく、悪口と共に拡散されるだろう。


午後五時。

夕暮れが迫り、人出はピークに達した。

しかし、サジタリウスの売上個数は、わずか「十二個」


用意した三百食分の食材が、山のように残っている。


茜がこだわって仕込んだ生地も、最高級のブルーベリーも、全て廃棄処分の危機にある。


隣の焼きそば屋は、すでに三百食を完売し、追加の麺を発注していた。


翔の手が震え始めた。


タブレットを持つ指先が冷たくなる。


胃の奥から酸っぱいものがこみ上げてくる。


(なぜだ? なぜ買わない? 衛生的で、早くて、美味しいのに。なぜ、あの汚い焼きそば屋に並ぶんだ?)


「翔くん……」


律が声をかけてきた。

その顔は蒼白で、胃を押さえている。

律の胃痛は、翔のそれとは比べ物にならないだろう。


「……戦略を変更しよう。このままじゃ全損ロスだ。現金を受け付けよう。僕が計算する」


「ダメです!」


翔は叫んだ。

余裕のない、金切り声だった。


「今さら現金を入れたら、在庫管理が狂います! レジの小銭も足りない! オペレーションが破綻する! 僕の計画が……」


「もう破綻してるんだよ!!」


律が初めて怒鳴った。

普段冷静な律の怒号に、健人も茜も驚いて動きを止めた。


「客を見ろ! システムじゃなくて、目の前の人間を見ろよ! みんなお腹を空かせて、楽しもうとしてるんだ。なのに、君のシステムがそれを拒絶してるんだよ!」


翔はハッとして顔を上げた。

ブースの前には、誰もいなかった。

遠巻きに見ている人々はいる。

だが、その目は「憧れ」ではなく、「排除」の目だった。


『高慢ちきな店』

『田舎を馬鹿にしている店』

『冷たい店』


そんな声が聞こえてくるようだった。

その時、一人の少女がブースの前に立った。


茜だった。彼女は厨房から出てきていた。手には、焼きすぎて硬くなったガレットの生地を持っていた。


見込み生産システムに従って焼き続けた結果、廃棄されることになった残骸だ。


「……翔くん」


茜の瞳には、怒りも失望もなく、ただ深い悲しみがあった。


「これ、誰のために焼いてるの? 画面の中の数字のため? それとも、食べてくれる人のため?」


翔は言葉が出なかった。

茜の手にある冷めたガレット。

それは、かつて父が廃棄していたトマトと同じ色をしていた。


脳裏に、父の姿が鮮明に蘇る。市場で規格外として弾かれた野菜を見つめる父の背中。


「しょうがねぇな」という諦めの声。


今の自分は、父を救うヒーローになろうとしていたはずが、父を弾いた「農協の冷徹な検査官」と同じ顔をしているのではないか? 効率を追求するあまり、自分が最も憎んでいた「人間を数字としてしか見ないシステム」そのものになってしまったのではないか。


自分が作ったのは、父を殺したシステムと同じ、冷たい檻だったのだ。


「……う、あ……」


翔の喉から、空気の漏れるような音がした。

足元の地面が揺れる。

黒いテントが、自分を押しつぶす壁のように迫ってくる。


「翔!」


健人の呼ぶ声が聞こえた。

翔は耐えきれず、ブースを飛び出した。

振り返れなかった。

熱気と湿気、サンバのリズム、そして自分の惨めさが入り混じった空気の中を、彼は無我夢中で走った。




会場から離れた、蓮沼海浜公園の防波堤。祭りの喧騒は遠く、波の音だけが響いていた。


九十九里の海は黒く、荒々しい。


翔はコンクリートの上に座り込み、膝に顔を埋めていた。


(失敗だ。大失敗だ)


復讐どころか、父よりも惨めな敗北。

二千五百円という価格設定は、自分のプライドの値段だった。


それが拒絶されたということは、自分自身の価値が否定されたことと同じだ。


自分には何もない。


農家の息子という出自を呪い、東京に憧れ、知識だけで武装した空っぽの子供。


「……僕は、何をしたかったんだろう」


涙さえ出なかった。

ただ、空虚な穴が胸に開いているだけだった。


「ここにいた」


懐中電灯の光が翔を照らした。


健人と、律と、茜だった。


彼らは息を切らしていた。広い会場を探し回ってくれたのだろう。


「……帰ってください」


翔は顔を上げずに言った。「僕はクビでいいです。損害は、バイト代から一生かけて返します。もう、顔も見たくないでしょう」


「馬鹿野郎」


健人が隣にドカッと座った。

汗と油の匂いがした。


「損害なんて、これから取り返せばいいんだよ。まだ祭り終わってねえぞ」


「無理です。システムが機能しない。客層が合わない。僕の読みが甘かった」


「読みが甘かったんじゃない」


律が静かに言った。

彼は翔の隣に立ち、夜の海を見つめていた。


「変数が足りなかったんだよ。翔くんの計算式には、『感情』というパラメータが入っていなかった」


律はポケットから、一枚の紙幣を取り出した。あのおじいさんが叩きつけようとした、汗で湿り、シワだらけになった千円札だ。


律が拾って持っていたのだ。


「これはね、細菌だらけで、非効率な決済手段だ。君の言うことは、確かに間違いではない」


律はその紙幣を翔の目の前にかざした。


海風に煽られて、千円札がパタパタと音を立てる。


「銀行員時代、僕はこういうお金を軽蔑してた。電子上の数字こそが綺麗で正しいと思ってた。でも、この町に来てわかったんだ。この汚れは、誰かが働いて、生きて、何かを楽しもうとした証拠なんだよ。この千円には、あのお爺さんが孫を喜ばせたいという『想い』が乗っている。それをシステムで弾くのは、商売じゃない。ただの選別だ」


健人が翔の背中を叩いた。

痛いほど強く。


「翔。お前の親父さんの野菜、俺、食ったことあるぞ」


翔が驚いて顔を上げる。


「え……?」


「数年前、ロケでこっちに来た時だ。直売所で買った。泥だらけのトウモロコシ。形は悪かったけど、今まで食った中で一番甘かった。あの味は、計算じゃ出せねえ。親父さんが毎日泥まみれになって、野菜と向き合ったから出た味だ」


健人はニカっと笑った。


「親父さんは、効率が悪かったかもしれない。でも、手抜きはしてなかった。だから人の心に残ったんだ。お前の今回の戦略もそうだ。効率は完璧だった。でも、泥が足りなかったんだよ」


「……泥?」


「そう。相手の懐に飛び込んで、手を汚して、汗かいて売る。そういう『泥臭さ』がな。お前はまだ、綺麗すぎるんだよ」


茜が、ハンカチに包んだものを差し出した。

売れ残ったガレットを小さくちぎったものだった。

冷めきっていた。


「食べて」


翔はおずおずと口に入れた。


硬くなっていた。

でも、噛み締めると、蕎麦の香りと、バターの風味が口いっぱいに広がった。そして、茜特製のブルーベリーソースの酸味。


「……美味しい」


「でしょ?」


茜が笑った。


「翔くんが計算して、私が焼いて、健人さんが運んで、律さんが計算した。私たちの味がする。冷めても、こんなに美味しいんだよ。これを捨てちゃうの? もったいないよ」


翔は噛み締めた。

涙が出そうになるのをこらえて、飲み込んだ。美味かった。父の野菜と同じ味がした。正直で、不器用な味が。


「……まだ、間に合いますか」


翔は立ち上がった。眼鏡を外し、涙を袖で拭った。


「在庫は?」


「山ほどあるぞ。茜ちゃんが泣きながら生地を守ってた」


健人が笑う。


「時間は?」


「花火まであと二時間。一番人が集まる時間だ」

律が時計を見る。

翔は眼鏡をかけ直し、シャツの袖をまくった。


「作戦変更です。プライシングを見直します。それと、システムを全廃します」


翔の目に、今までとは違う熱が宿っていた。冷徹な氷の光ではなく、泥のように熱く、粘り強い光が。


「泥臭く、行きます」












ブースに戻った四人は、猛烈な勢いで「改装」を始めた。


翔は「完全キャッシュレス」の看板をベリベリと剥がし、裏返した段ボールに太いマジックで殴り書きした。


洗練されたフォントではない。太く、荒々しい、手書きの文字。




【緊急値下げ! 店長の計算ミス!】

最高級ガレット 2,500円 → 1,000円!

現金大歓迎!

美味しくなかったら全額返金!


「健人さん、一番大きな声で呼び込みをお願いします! 嘘でもいいから『赤字覚悟』と叫んでください!」


「任せろ! そういうのは得意だ! 『持ってけ泥棒!』ってな!」


「茜さんはガレットを一口サイズに切って、試食を配ってください! 匂いで釣るんです!」


「了解。一番美味しそうなところを配るね!」


「律さん、現金の管理をお願いします! お釣りは、隣の焼きそば屋のオヤジさんに頭を下げて両替してもらってきます!」


「……いいよ、僕が行ってくる。元銀行員の土下座を見せてやる」


翔自身は。

彼はブースの外に出た。


黒いポロシャツはすでに汗でぐっしょりと濡れ、髪も乱れていた。


スタイリッシュな広報担当の面影はない。彼は通りがかる人々に、片っ端から声をかけた。


「いらっしゃいませ! 美味しいガレットいかがですか!」


「お父さん! ビールに最高に合いますよ! 山武の蕎麦粉を使ってます!」


「そこのお姉さんたち! 写真撮るだけでもいいです! 試食だけでも!」


タブレットはない。

データもない。

あるのは、自分の声と、表情と、身体だけだ。地元のヤンキーグループが通りかかった。

昼間、翔を馬鹿にした連中だ。

翔は逃げなかった。彼らの前に立ちはだかった。


「……さっきはすみませんでした!」


翔は深々と頭を下げた。


「僕が調子に乗ってました。でも、味は保証します。一口でいいから食べてみてください! お願いします!」


ヤンキーのリーダー格が、面食らった顔をした。


「……なんだよ、急に。キャラ変わってんじゃん」


「食べてください! 不味かったら金はいりません! 殴ってくれてもいいです!」


翔は試食の皿を差し出した。

手が震えていたが、引かなかった。

リーダーが一口食べる。


「……あ、美味ぇ」


「マジ? 俺も」


「すげえ、モチモチじゃん。つーか、チーズやばくね?」


「だろ!?」


翔は満面の笑みを浮かべた。

計算ではない、心からの笑顔だった。


「インスタ載ってんじゃん。へぇこれ、地元の蕎麦粉なんだ。美味いんだよ、うちの地元のは!」


「へえ、見直したわ。じゃあ一つもらうわ」


チャリ、と小銭が手渡される。

翔はその100円玉5枚と500円玉を受け取った。


金属の冷たさと、人の手の温かさが混ざり合った感触。


汗ばんだ掌に残るその重み。


それは、データ上の決済完了通知よりも、遥かに重く、確かな「価値」の手応えだった。


これが、父が守ろうとしていたものか。


翔は小銭を握りしめ、深く頭を下げた。


「ありがとうございます!!」





一度火がつくと、勢いは止まらなかった。「1,000円なら安い!」と客が押し寄せた。


試食した人が「美味しい」と友人を呼んできた。


健人のマイクパフォーマンスが笑いを誘い、律が目にも止まらぬ速さで現金を捌く。


茜は顔を真っ赤にして焼き続ける。


「焼き上がりまで三分お待ちくださーい!」


「お待たせしました!」



翔は行列の整理をしながら、一人一人と言葉を交わした。


「ありがとうございます!」


「熱いので気をつけて!」


「おばあちゃん、椅子持ってきますね!」


効率は最悪だった。

注文を聞き、現金を数え、お釣りを渡し、世間話をする。


一人あたり一分以上かかっている。

でも、誰も怒って帰らない。


みんな笑って待っている。


「大変ねえ、頑張ってね」と声をかけてくれる。


翔が「山武市出身です」と言うと、「あら、どこの子? ああ、四方田さんの! 立派になって!」と話が弾む。


デジタルで切り捨てようとしていた「無駄」の中にこそ、信頼という最強の通貨があったのだ。


午後八時。


ドーン!


という轟音と共に、海上に巨大な花火が打ち上がった。


夜空に大輪の菊が咲き、海面を七色に染める。


蓮沼の展望塔がシルエットとなって浮かび上がる。


歓声が上がる中、最後の客にガレットを渡した。


「ラスト一つ! 完売です!」


茜が叫んだ。

その声は枯れていた。

完売。

三百食のガレットが、全て消えた。

翔はその場にへたり込んだ。

足が棒のようだ。喉が焼けるように渇いている。手は小銭の汚れで真っ黒だ。


「……やったな」


律が隣に座り込み、重たい空き缶(金庫代わり)を揺らした。

ジャラジャラと重い音がする。


「売上は三十万円。原価とレンタル費を引いたら、利益はトントン……いや、君たちのバイト代を入れたら赤字かもしれない。でも……」


律は花火を見上げながら笑った。

胃薬を飲むのを忘れていた。


「最高の回収率リカバリーだったよ。この町での『信用』という資産は、黒字だ」


健人と茜もやってきた。

四人は泥だらけで、汗だくで、防波堤に並んで花火を見上げた。


「翔」


健人が言った。


「いい顔してるぞ」


翔は自分の顔を触った。


煤と汗で汚れていた。

でも、不思議と嫌ではなかった。

父の顔も、きっとこんなふうに汚れていたのだろう。

今なら、その汚れを誇りに思える。


「……非効率ですね、祭りって」


翔は花火を見上げながら呟いた。


「でも、悪くないパラメータです」








翌日。

「星見邸」のリビングルーム。

祭りの後の静寂が戻っていた。

セミの声だけが響いている。

翔は再びMacBookに向かっていた。

画面には、昨日の売上データと、今後の戦略案が表示されている。


『地域密着型コミュニティ・マーケティング戦略(改訂版)』


サブタイトル:アナログとデジタルのハイブリッド戦略


翔はスプレッドシートの関数を書き換えていた。


これまでの「効率(Efficiency)」という項目に、新たに「共感(Empathy)」という変数を加えたのだ。


係数は未知数。

計算は複雑になる。

人間の感情という、最も扱いにくいデータを組み込むのだから。


だが、その複雑な数式を解くことが、これからの自分の仕事だと翔は理解していた。


「翔くーん、スイカ切ったよー」


茜の声がする。


「今行きます」


翔はパソコンを閉じた。

縁側へ向かう彼の足取りは、昨日までよりも少しだけ軽く、そして力強かった。

夏の日差しは相変わらず強かったが、吹き抜ける風には、どこか涼やかな秋の気配が混じり始めていた。泥だらけの拳で掴んだ小さな勝利は、この星降る廃屋を支える、確かな礎石となったのだ。









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