二章
千葉県東金市。
九十九里平野の西端に位置し、かつて徳川家康が鷹狩りのために造成した「御成街道」の終着点として栄えたこの街は、現在、千葉市や東京都心への通勤圏としての顔を持つベッドタウンへと変貌を遂げている。
2026年4月下旬。
ゴールデンウィークを目前に控えたある曇天の朝、二ノ宮律は、東金市内の築三十年の木造アパートの二〇一号室で、スマートフォンのアラームよりも早く目を覚ました。
壁の薄いこのアパートは、隣人の生活音が筒抜けだ。
隣のスペースからは、従兄弟であり「星見邸」再生プロジェクトのオーナーである相馬健人の豪快なイビキが聞こえてくる。
律は深くため息をつき、煎餅布団から身を起こした。
彼らが山武市の現場ではなく、隣接する東金市のアパートを拠点にしているのには、経済的かつ物理的な合理性が存在した。
現場である「星見邸」は、電気と水道こそ通っているものの、風呂もなく、床は抜け、隙間風だらけで夜を越すにはあまりに過酷な環境だったからだ。
加えて、資金難である。
健人の退職金は物件購入と初期の無計画な散財で底をつきかけており、星見邸のリフォームが完了するまでの仮住まいとして、敷金礼金ゼロ、本来単身用の家賃三万五千円のこの部屋を、2人で借りている。
午前7時45分。
律と健人は、健人が中古で購入した走行距離十二万キロの軽バンに乗り込み、アパートを出発した。
東金市から山武市の現場までは、国道126号線を経由して約二十分の道のりである。この国道126号線は、千葉県東部の動脈であり、沿道には中古車販売店、ファミリーレストラン、パチンコ店、そしてシーズン終盤を迎えたイチゴ狩りの看板が立ち並び、地方都市特有の均質化されたロードサイド風景(ファスト風土)を形成している。
「いい季節になってきたなー。見ろよ律、菜の花がまだ咲いてるぞ」
ハンドルを握る健人が、窓の外を流れる田園風景を指差して上機嫌に言う。
彼の視線の先には、イチゴハウスの脇に植えられた菜の花の黄色と、水田の準備が始まった土の色がコントラストを描いていた。
「前を見てください。……いいですか、今日からの作業はクリティカルパスに入ります」
律は助手席でタブレットを操作しながら、冷徹に釘を刺した。彼の指先は、昨晩深夜までかかってExcelで修正した「星見邸改修工事・週間工程表 Ver.4.2」の上を滑っていた。
律が作成した工程表は、彼特有の「管理への執着」と、元銀行員としての「リスク回避思考」が結晶化した芸術的なドキュメントだった。
縦軸には
「解体」
「床下地調整」
「断熱材充填」
「床張り」
「壁補修」
「電気配線」
「内装仕上げ」
といった項目が百行以上にわたって並び、横軸には四月下旬から八月までの日付が刻まれている。それぞれのタスクには担当者が割り振られ、所要時間は「日」単位ではなく「時間」単位で厳密に計算されていた。
「五月の連休中に、広間の床張りと壁の漆喰塗りを終わらせないと、六月の梅雨入りまでに外回りの防水工事が間に合いません。今日、床下の点検を終えて、明日から断熱材を入れます。一日でも遅れたら、全体スケジュールが破綻します」
律の言葉には、不確実性への恐怖が込められていた。
彼にとって、スケジュールとは未来を予言する聖典であり、そこからの逸脱は許されない罪悪だった。
特に今回のプロジェクトは、健人の「思いつき」で始まったため、初期段階からリソースが不足している。
四方田翔が試算した収支計画によれば、夏前には運転資金が底をつく。
それまでにカフェをオープンさせ、日銭を稼がなければ、彼らは物理的に路頭に迷うことになるのだ。
「わかってるって。床板剥がすくらい、俺とお前なら半日で終わるだろ」
健人は能天気に笑い、アクセルを踏み込んだ。車は山武市の市境を越え、鬱蒼とした杉林に囲まれた農道へと入っていく。「山武杉」の並木が作るトンネルを抜けた先に、彼らの戦場である古民家「星見邸」が、主の帰還を待つように静まり返っていた。
午前九時。
現場には既に、三島茜と四方田翔の姿があった。
茜はいつもの定位置である縁側で、色見本帳を広げて唸っている。翔は学校が休みの土曜日ということで、朝から学校指定のジャージ姿で参加していた。
「おはようございます。……律さん、顔色が悪いですよ」
翔がタブレットから顔を上げずに挨拶する。
「おはよう、翔くん。君の顔色が良すぎるんだよ。……さて、予定通り広間の床板撤去を始めるぞ」
律の指揮のもと、四人は作業を開始した。広間の畳は既に撤去されており、その下にある荒床と呼ばれる杉板をバールで剥がしていく作業だ。
「せーの、ふんっ!」
健人の掛け声と共に、錆びついた和釘が悲鳴を上げ、古びた板が剥がれる。舞い上がる埃と、カビ臭い湿気が鼻をつく。
「うわ、すごい匂い……」
茜が鼻をつまんで顔をしかめる。
彼女は感覚過敏の傾向があり、不快な匂いや音に人一倍敏感だ。
「換気して! この匂い、色が濁る気がする」
「贅沢言わないでください。これが築百年の現実です」
律はマスクを二重にし、懐中電灯を片手に床下を覗き込んだ。
そこは、光の届かない漆黒の世界だった。
地面の土は湿気を帯びて黒ずんでおり、ムッとするような生温かい空気が漂っている。
かつては防湿のために撒かれたであろう石灰も、湿気を吸って固まっていた。
律は慎重に、大引き(おおびき)と呼ばれる太い角材に光を当てた。
「……ん?」
違和感があった。
大引きの表面に、土のようなものが付着している。
いや、ただの土汚れではない。
土が盛り上がり、血管のように細いトンネルを形成して柱を這い上がっている。
「蟻道だ……」
律の背筋が凍りついた。
銀行員時代、住宅ローンの担保評価研修で習った知識が脳裏に蘇る。
シロアリが地中から建物へ侵入するために作る、土と排泄物のトンネルである。
これが存在するということは、現在進行形で侵食が進んでいる証拠だ。
「健人さん、マイナスドライバーを!」
律は叫ぶように言った。健人からドライバーを受け取ると、震える手でその大引きを突いた。
ズブッ。
抵抗感は皆無だった。まるで濡れた段ボールに箸を突き立てたかのように、ドライバーは音もなく木材の深部へと沈んでいった。
「嘘だろ……」
表面の数ミリを残して、内部は完全に食い荒らされ、空洞化していたのだ。
木材としての強度はゼロ。
皮一枚で辛うじて形を保っているに過ぎない。
「うわあ、キモッ! なんか白いのがウジャウジャいるぞ!」
健人が別の場所を剥がして叫んだ。そこには、光に驚いて逃げ惑う無数のヤマトシロアリの姿があった。
茜が「キャッ!」と悲鳴を上げて逃げ出し、翔が冷静にスマホで撮影を始める。
「被害範囲を確認します……北側の柱、大引き、根太。全滅です」
律は床下から這い出し、絶望的な顔で告げた。全身泥まみれで、マスク越しでも呼吸が荒い。
「私虫無理。ここは任せた。私の仕事やります」
逃げるようにその場を後にする茜を無視し、律は翔に向き直った。
「翔くん、シロアリ駆除と土台交換の相場は?」
翔は即座に検索し、冷徹な声で読み上げた。手元のタブレットには、複数の業者の見積もり相場が表示されている。
シロアリ駆除 バリア工法(薬剤散布) 2,475円〜3,850円 / ㎡ 約400,000円〜630,000円 即効性あり・安価
被害部修繕 床組・大引き交換 150,000円〜 / 6畳 約1,250,000円 被害範囲による
床下環境改善 防湿シート・調湿材 25,000円〜 / 坪 約1,250,000円 湿気対策必須
合計 概算見積もり - 約2,900,000円〜 予算超過
「一般的なバリア工法で㎡単価2500円から3800円。被害が甚大なので、部材交換を含めると……最低でも200万円、大手業者に頼めば300万コースです。さらに、この家の立地条件を考えると、床下全体の抜本的な防湿工事も必要になるでしょうね」
「さんびゃく、まん……」
律はその場に崩れ落ちた。
健人の残りの資金は、材料費と当面の生活費を合わせて80万円ほどしかない。
300万円の出費は、即ち「破産」を意味した。
「損切りしましょう」
翔が眼鏡の位置を直しながら言った。その声には感情の色が一切なかった。
「この物件は欠陥品です。これ以上投資しても、回収できる見込みがない。今のうちに売却して、借金を最小限に抑えるのが合理的判断です。感情論で深追いすると、共倒れになりますよ」
翔の言葉は正論だった。
経済合理性だけで考えれば、これ以上の継続は自殺行為だ。
「いやいや待てよ」
健人が口を挟んだ。
「直せばいいんだろ? 俺たちで」
「素人が手を出せるレベルじゃありません!」
律が叫んだ。
「土台ですよ? 家を支えてる骨組みなんです。ここを失敗したら、家ごと潰れます。それに、薬剤だって専門のものが必要だし、床下に潜って作業なんて……」
「やるしかないだろ。ここを諦めるってことは、俺の人生を諦めるってことなんだよ」
健人の目は真剣だった。
かつて親友を失ったときのような、暗く熱い炎が宿っている。
「律、お前の完璧な工程表にはないかもしれないけど、道はあるはずだ。探そうぜ」
律は胃薬の瓶を強く握りしめた。
完璧だった工程表は、シロアリという小さな虫たちによって、紙切れ同然のゴミと化した。
シロアリショックで現場の空気が重く沈む中、もう一つのトラブルが進行していた。
三島茜による、土間の壁塗り作業である。
茜は「場所貸し」の条件として、内装デザインを担当していた。
彼女が提案したのは、薄暗い土間を明るく見せるための「漆喰壁」だった。
しかし、彼女は市販の白い漆喰をそのまま使うことを良しとしなかった。
「白は死んだ色。この家には、もっと体温のある色が必要なの」
そう言って彼女は、顔料を混ぜてオリジナルの色を作ることに固執した。
午後一時。
シロアリの応急処置に追われる男性陣をよそに、茜はトロ舟の前で立ち尽くしていた。
足元には、無数の失敗した漆喰の残骸が散らばっている。
「……違う」
茜は小さな鏝で練り上げた漆喰をベニヤ板に塗りつけ、すぐに削ぎ落とした。
「私がイメージしてるのは、朝焼けの海の色。ピンクでもオレンジでもない、光が生まれる瞬間の色なの。でも、これじゃただの肌色だわ」
彼女は特有の鋭敏な色彩感覚を持っていた。普通の人には同じに見える色でも、彼女には「濁り」や「ノイズ」として知覚されてしまう。
漆喰(消石灰)は強アルカリ性であり、顔料との化学反応や乾燥時の「ドライアウト(色飛び)」現象により、濡れている時と乾いた時で色が大きく変化する。
素人である茜には、この化学変化をコントロールすることができず、何度やっても理想の色が出せない泥沼にはまり込んでいた。
「顔料の配合を0.1グラム変えて……あと、砂の粒度も荒すぎる。光の反射が乱れてる」
茜はブツブツと呟きながら、高価な顔料を次々と投入していく。
その様子は、芸術的探求というよりは、強迫的な儀式のようだった。
「茜ちゃん、まだ色が決まらないの?」
律が苛立ちを隠さずに声をかけた。
彼は床下から這い出てきたばかりで、顔も服も泥だらけだ。
「明日の朝には塗り始めないと、乾燥時間が足りなくなる。とりあえず、今ある色で妥協してくれないか?」
「妥協?」
茜がゆっくりと振り返った。その瞳には、静かだが激しい怒りが宿っていた。
「律さん。料理人が、腐りかけの食材で妥協して料理を出しますか? 私は、この家の空気を決める肌を作ってるんです。適当な色を塗るくらいなら、壁なんてない方がマシです」
「でも、時間がないんだ!」
律の声が荒げられた。
シロアリによる予算超過、スケジュールの遅延、そして翔からの撤退勧告。
重圧が律の理性を削り取っていた。
「君のこだわりは素晴らしいかもしれないけど、今は非常事態なんだ。美意識で飯は食えない。まずは形にしないと、僕たちはここで野垂れ死ぬんだよ! 高い顔料をこれ以上無駄にしないでくれ!」
「……律さんは、数字と効率しか見てない」
茜は涙ぐみながらも、頑として譲らなかった。
「効率のために魂を削るなら、私は降ります。そんな場所、作る意味がない」
その瞬間、律の視界がぐらりと歪んだ。
(あ……まずい)
動悸が激しくなる。
呼吸が浅くなる。
冷や汗が背中を伝う。
パニック障害の発作の前兆だ。
「完璧」であろうとすればするほど、現実とのギャップに脳がショートする。
工程表は真っ赤だ。
予算はマイナスだ。人間関係は最悪だ。
――逃げたい。
――また、ダメだったのか。僕は、何も守れないのか。
律はその場に膝をつき、過呼吸を抑えようと胸を押さえた。世界が白く明滅し、音がおかしくなる。
「り、律!?」
健人が駆け寄ってくる。
翔も作業の手を止めた。
「おい、しっかりしろ! 袋だ、誰かビニール袋!」
律が縁側で横になり、少し落ち着きを取り戻した頃。
翔は冷めたコーヒーを飲みながら、タブレットの画面を健人と茜に見せていた。
「シロアリ駆除と修繕には自力で行うにしても最低五十万。漆喰の顔料追加購入に数万。工期の遅れによる機会損失を含めると、赤字幅は百二十万を超えます。健人さんの残資金では、来月にはショートします」
「……で、どうしろって?」
「選択肢は二つです。即時撤退か、コストをゼロにすることです」
「ゼロ?」
「はい。業者を使わず、材料も買わない。シロアリ被害の補修材は、廃材を利用する。漆喰は、今ある失敗作を使い切る。品質は下がりますが、これなら金はかかりません」
沈黙が落ちた。誰も反論できなかった。
「……なんかさ、つまんねえな」
その重苦しい沈黙を破ったのは、やはり健人だった。
「金がないから諦める、品質を下げる。それじゃあ、俺たちがここに集まった意味がなくねえか? ……金はないけど、『モノ』はあるぞ」
健人はニカっと笑い、軽バンのキーを掴んだ。
「ちょっと行ってくる。翔、手伝え!」
一時間後。
健人の軽バンが、荷台一杯に木材を積んで戻ってきた。
それは、新品の角材ではない。黒ずみ、釘穴が残り、所々苔むしたような「古材」の山だった。
「これ……ゴミじゃないですか」
律がふらつく足で近寄る。
「ゴミじゃねえよ! 近所の農家の爺さんが、納屋を解体するから燃やすって言ってたのを貰ってきたんだ。これ、山武杉だぜ? しかも赤身の」
健人は誇らしげに一本の柱を撫でた。
「山武杉は油分が多くて、赤身の部分はシロアリにも強いって聞いたことがある。爺さんも『百年経っても芯は死んでねえ』って言ってた。シロアリに食われた床下の補強、これでやろうぜ。新品より硬いくらいだ」
翔がスマホで検索する。
「……事実のようです。山武杉は樹脂分が多く、耐水性・耐蟻性に優れています。特に心材(赤身)は腐りにくい。古材として再利用するのは理にかなっています。ただし、加工は困難です」
「やるんだよ! 金がないなら、汗をかけばいい。そうだろ、翔?」
翔は呆れたようにため息をついたが、その目は死んでいなかった。
「……原価ゼロ円。加工賃(人件費)のみ。計算上は、成立しますね」
「で、茜ちゃん」
健人はトロ舟の前に座り込む茜に声をかけた。
「その失敗した漆喰、捨てんのか?」
「……色が濁ってるから。使えない」
「そうか? 俺には綺麗に見えるけどな」
健人は、茜が「失敗作」として混ぜ合わせた、青とグレーと紫が混ざり合ったマーブル状の漆喰を指差した。
「これさ、完全に混ぜないで、このまま壁に塗ったらどうなる?」
「え? ……ムラになるわ。美しくない」
「ムラがあるからいいんじゃん。均一な壁なんて、公民館みたいでつまんねえよ」
健人はヘラを手に取り、勝手に壁に塗りつけた。雑な手つきだ。色が混ざり合い、濃淡が生まれる。
「見ろよ。これ、夜空みたいじゃねえか?」
茜がハッとして顔を上げた。
不規則に混ざり合う青とグレー。
そこに、下地の白が星雲のように浮かび上がっている。
「……星空」
茜の脳内で、スイッチが切り替わった。
彼女が求めていた「朝焼け」ではない。
けれど、これは「夜明け前の混沌とした空」の色だ。
「失敗」だと思っていたムラが、「星空」というコンセプトを与えられた瞬間、アートに変わった。
「……健人さん、貸して」
茜は健人からヘラを奪い取った。
「もっと大胆にやらないとダメ。ここは濃く、ここは薄く……。律さん、失敗した白い漆喰も持ってきて! 星を散らすの!」
「は、はい!」
律は反射的に動いていた。
パニックの発作は、いつの間にか消えていた。
目の前で起きている「即興の創造」に、彼の乙女座の分析回路が追いつけず、逆に思考停止したのが良かったのかもしれない。
そこからは、怒涛の作業だった。
健人と翔が古材の釘を抜き、丸ノコでカットする。
律が床下に潜り、腐った土台の横に古材を抱き合わせて補強する(「抱き合わせ工法」という、古民家修復の常套手段だ。健人が近隣の大工を口説き落として、やり方を学んできた)。
茜は脚立に登り、壁に向かって漆喰を叩きつけるように塗っていく。
全員、泥だらけで、汗まみれだ。
東金のアパートから通う「仮初めのチーム」だった彼らが、この瞬間、本当の意味で一つの生き物のように動いていた。
夕方。
西日が差し込む頃、作業は一段落した。
広間の床下は、黒々とした山武杉の古材で補強され、見た目は不格好だが、飛び跳ねてもびくともしない強度を取り戻していた。
そして壁。
四面の壁は、青とグレー、白が複雑に混ざり合う「星空」のような色に染まっていた。
プロの左官職人が見れば「色ムラだらけの素人仕事」と笑うだろう。
しかし、夕日を受けたその壁は、見る角度によって表情を変え、深淵な宇宙のような奥行きを感じさせた。
「……できた」
茜がヘラを落とし、床に座り込んだ。
「変な壁。……でも、悪くない」
「最高だろ」
健人がニカッと笑い、コンビニで買ってきた温いコーラを全員に配った。
律は、新しく張られた(しかし古材なので傷だらけの)床に座り、コーラを開けた。
手元の工程表を見る。
「シロアリ駆除(業者委託)」の項目は未達成。
「漆喰塗り(均一仕上げ)」も未達成。
計画通りに進んだものは一つもない。
しかし、律の胃は痛んでいなかった。
「……計画通りには、いきませんでしたね」
律がポツリと言うと、翔が眼鏡を拭きながら答えた。
「はい。大幅な乖離です。ですが……」
翔は壁を見上げた。
「成果物の評価としては、想定を上回っています。この壁、SNSでバズる可能性がありますよ。『失敗漆喰の星空塗り』としてストーリー化すれば、付加価値がつきます。廃材利用もSDGsの観点から評価されるでしょう」
「だろ? 俺の直感は正しかった!」
健人が胸を張る。
「結果オーライなだけです」
律はため息をついたが、その口元は微かに緩んでいた。
完璧でなくていい。
傷だらけの古材も、色ムラのある漆喰も、そして社会のレールから外れた自分たちも。
組み合わせれば、こんなにも温かい空間が作れるのだ。
律は、自分の内側にある「完璧主義」という殻に、小さなヒビが入ったのを感じた。
そのヒビは、この壁のムラのように、決して悪いものではない気がした。
「さて、帰ろうぜ。東金までドライブだ」
健人が立ち上がる。
「明日は何する? 庭にツリーハウス作るか?」
「作らないでください。明日は断熱材です。工程表を書き直しますから」
律は立ち上がり、泥だらけのズボンを払った。
明日もまた、計画通りにはいかないだろう。
でも、それでもいいか、と律は思った。
この軋むような「地(現実)」の手触りが、今は少しだけ愛おしく感じられたからだ。




