一章
2026年4月20日、月曜日。
千葉県北東部に位置する山武市周辺の大気は、早春特有の不安定な気圧配置の影響下にあった。太平洋から吹き込む湿った海風が、内陸の北総台地に横たわる広大な森林地帯と衝突し、独特の重苦しい空気を醸成している。
この地域は、かつて「山武杉」の産地として林業で栄えた歴史を持つ。江戸時代から明治・大正にかけて建築資材として重宝されたその杉は、赤みがかった美しい心材と、粘りのある材質で知られていた。しかし、安価な輸入材の台頭と林業従事者の高齢化により、多くの杉林は手入れが行き届かないまま放置されることとなった。
その結果として発生しているのが、都市部とは桁違いの濃度で飛散する「花粉」である。
総武本線の車窓から見える風景は、見渡す限りの杉林が風に揺れ、そこから黄色い煙のような花粉が噴き出す、花粉症患者にとっては阿鼻叫喚の地獄絵図であった。この微粒子は、単なるアレルゲンであるだけでなく、この地域の産業構造の変化と衰退を象徴する「死の灰」のようにも見えた。
午後2時14分。
千葉駅から総武本線のローカル列車に揺られること約四十分。二ノ宮律を乗せた四両編成の列車は、田園地帯を切り裂くように走り続けていた。
律は、窓枠に肘をつき、額を冷たいガラスに押し当てていた。車内の空気は乾燥しているが、ドアが開くたびに侵入してくる湿った土の匂いと花粉の気配に、彼の敏感な呼吸器は拒絶反応を示していた。
彼は無意識のうちに、胸ポケットに入っている常備薬のシートを指でなぞった。胃酸分泌抑制薬と、抗不安薬。
それが彼のお守りであり、崇拝すべき聖像だった。
一ヶ月前まで、彼は東京・丸の内の高層ビル街で、分刻みのスケジュールと格闘するエリート銀行員だった。毎朝六時に起床し、満員電車に揺られ、数字という名の神に仕える日々。彼の人生は、完璧に管理されたExcelの工程表のように、何一つ狂いのない直線であるはずだった。
しかし、その直線は唐突に断絶した。
適応障害。
パニック障害の傾向。
診断書に記された病名は、彼のプライドを粉々に砕くには十分すぎた。駅のホームで足が震えて電車に乗れなくなったあの日、彼の世界は彩度を失い、灰色のノイズに覆われた。
成東駅で東金線に乗り換え、激しく揺れる車両に身を任せ数分。
「次は、求名、求名です」
車内アナウンスが、現実への帰還を促す。
律が降り立ったのは、山武市との境界に近い、東金市の「求名」駅だった。城西国際大学のキャンパスが近くにあるため、学生の乗降客が多い駅だが、春休み期間中の今は閑散としていた。
駅前のロータリーには、数台のタクシーと、送迎を待つ自家用車が停まっているだけだ。
律は重いボストンバッグを肩に担ぎ直し、スマートフォンを取り出した。画面には、従兄弟である相馬健人(そうま・けんと、三十五歳・射手座)からのメッセージが表示されている。
『駅に着いたら連絡しろ。迎えに行く』
律は通話ボタンを押した。コール音は二回で途切れ、やたらと明るい声が鼓膜を震わせた。
「おう、律! 着いたか? 今すぐ行くからロータリーで待ってろ! 銀色のデカイ車だ!」
「……わかりました」
律は短く答え、通話を切った。
胃が痛い。
キリキリと音を立てて胃酸が分泌されるのを感じる。これから対峙するのは、自分の人生設計とは真逆のベクトルで生きる男、相馬健人だ。そして、彼が衝動買いしたという「廃屋」という名の負債である。
数分後、ロータリーに一台の大型SUVが滑り込んできた。中古車市場で二束三文で売られていそうな、年式の古い国産車だ。塗装の一部は剥げかけ、バンパーには泥がこびりついている。
運転席から降りてきたのは、ボロボロのジーンズにパーカー、頭にタオルを巻いた男だった。
「よう、律! 久しぶりだな!」
相馬健人。かつて都内の広告代理店でクリエイティブ・ディレクター候補として名を馳せた男。
しかし、今の彼にその面影はない。無精髭を生やし、日焼けした肌は健康そうだが、どこか浮世離れした雰囲気を漂わせている。
律は、こみ上げてくる眩暈を抑えながら、努めて冷静に挨拶をした。
「……お久しぶりです、健人さん。その車、燃費悪そうですね」
「おうよ! リッター5キロ走ればいい方だ。でも荷物がたくさん積めるからな、廃材運ぶのに最高なんだよ!」
健人は律のバッグをひったくるように受け取り、ラゲッジルームに放り込んだ。そこには既に、ブルーシートや工具箱、そして泥だらけの長靴などが散乱していた。
律のもはや脅迫観念ですらある「整理整頓」という本能が、その惨状を見て警鐘を鳴らす。
(この人と一緒に暮らすのか……)
律は、ポケットの中の胃薬を、水なしで飲み込んだ。苦味が舌の奥に広がり、少しだけ理性が戻ってくる感覚があった。
「まずは拠点に行くぞ。家の方はまだ住める状態じゃねえからな」
健人がハンドルを切り、車は県道124号線、砂押街道を走り出した。
沿道には、ファミレスやドラッグストア、そしてこの時期の風物詩である「いちご狩り」の幟がはためいている。山武市成東エリアは、関東でも有数の苺の産地であり、特に国道126号線沿いは「ストロベリーロード」と呼ばれている。
しかし、健人の車はその賑わいをよそに、脇道へと入っていった。
到着したのは、求名駅から徒歩十三分ほどの場所にある、木造二階建てのアパートだった。
名称は「コーポサンライズ」
クリーム色のモルタル壁に、鉄製の外階段。築三十年は経過しているであろうその外観は、まさに「昭和レトロ」そのものだった。
「ここだ。二階の角部屋、日当たり最高だぞ」
健人は得意げに言った。
律は絶句した。
「……ここですか」
「なんだよ、不満か? 家具家電付き、WiFi無料、敷金礼金ゼロだぞ? 学生用のアパートだけど、頼み込んで借りたんだ。家賃四万二千円。激安だろ」
確かに条件は悪くない。だが、元銀行員の律から見れば、資産価値は限りなく低い。ツーバイフォー工法(2x4)で作られているとはいえ、断熱性や防音性には疑問が残る。
しかし、文句を言える立場ではない。律は現在無職であり、このプロジェクトにおける彼の給料はゼロなのだから。
両親からは、「暇なら健人くんの手伝いをしてこい」と言われて、半ば追い出されてきてしまっている。
部屋に入ると、意外にも内装は小綺麗だった。
18.81平米のワンルーム。
南向きの窓からは午後の日差しが差し込んでいる。独立洗面化粧台があるのは、潔癖症気味の律にとっては救いだった。
しかし、部屋の隅には既に健人の荷物(アウトドア用品、謎の骨董品、釣り道具など)が侵食を開始しており、律の居住スペースは部屋の半分以下に圧迫されていた。
「律、お前の城はそこな。俺はこっち」
健人は部屋を左右に分けるように線を引くジェスチャーをした。
「……わかりました。ただし、境界線を越えた荷物は廃棄します」
「おいおい、厳しいな銀行員様は」
荷物を解きながら、律はふと、健人のバックパックのサイドポケットに目が留まった。
使い古されたその鞄から、古いフィルムカメラが覗いている。
レンズにヒビが入った、壊れたカメラ。
律の手が止まる。
そのカメラには見覚えがあった。
(まだ、持っていたんだ……)
そのカメラがトリガーとなって、律の脳裏には二年前の記憶が呼び起こされた。
アパートで作業着(律が新調した新品のツナギ)に着替えた二人は、いよいよ目的地である「星見邸」へと向かった。
車で約二十分。
国道を離れ、杉林の中の細い農道を進む。
舗装が途切れ、砂利道になり、タイヤが石を跳ね上げる音が響く。
やがて視界が開け、古い石垣の上に建つその家が姿を現した。
「……到着だ」
健人がエンジンを切った。
静寂。
鳥の鳴き声と、風が杉林を揺らす音だけが響く。
律は車を降り、目の前の光景を見上げた。
「……嘘だろ」
律の口から、乾いた言葉が漏れた。
そこにあったのは、家ではなかった。
築百年。
かつては豪農の屋敷だったのかもしれない。
立派な入母屋造りの屋根。
しかし、その瓦は波打ち、一部は完全に崩落してブルーシートが無造作にかけられている。漆喰の壁はひび割れ、中の土壁が肋骨のように露出している。
縁側のガラス戸は半分が板で打ち付けられ、庭は背丈ほどの雑草と竹に侵食されていた。
これはもはや、廃材置き場だ。
ゴミとして集積された廃材が、たまたま家のような形をなしているようにしか見えなかった。
律の脳内で、銀行員時代に培った資産評価のアルゴリズムが高速で回転し、弾き出された答えは「担保価値ゼロ円」、いや「解体費用の分だけマイナス査定」だった。
「どうだ、いい『気』が流れてるだろ?」
健人は両手を広げ、崩れかけた屋根を仰いだ。
律はこみ上げてくる眩暈を抑えながら、冷静に、そして冷徹に言い放った。
「健人さん。帰ります」
「えっ」
「これは家じゃないです。僕がここに来たのは、あなたの仕事を手伝う代わりに衣食住を保障してもらうことであって、一緒にごみ漁りをしに来たわけではありません」
律は踵を返そうとした。しかし、健人は律の肩を強く掴んだ。その手には、普段の能天気さとは違う、強い力が込められていた。
「中を見てくれ。……頼む」
その真剣な声色に、律は仕方なく足を止めた。
引き戸を開けると、カビと埃、そして古い木材特有の匂いが鼻をついた。
土間は広かった。
かつては農作業や炊事が行われていたのだろう。
見上げると、確かに太く立派な梁が、煤で黒光りしながら空間を横断している。
山武杉。
この地域の特産であり、その強度は折り紙付きだ。百年という時間を支え続けてきたその梁だけが、この家がかつて持っていた威厳を留めていた。
「ここをカフェにする。土間はオープンスペースにして、奥の座敷はゲストハウスだ。庭にはツリーハウスを作って、屋根の一部はガラス張りにして星が見えるようにする」
健人は埃っぽい空間の中で、まるで完成予想図が見えているかのように語り始めた。
射手座の男。その性質は、夢想家にして楽天家。放っておけば何をしでかすか分からない危うさはあれど、ハマればどこまでもプロジェクトを推し進める推進力がある。新卒から広告代理店の営業マンとして結果を出してきたのは、彼のこの性質故。
理想と直感だけで生きているようなこの従兄弟を、律は昔から苦手としていた。
同時に、自分には決してできない生き方をする彼を、どこかで眩しく思ってもいた。
「……資金計画は?」
律は埃を払うふりをして尋ねた。
「退職金全部突っ込んだ。あと貯金も」
「リフォーム予算は?」
「残りの金でなんとかなるだろ」
「業者の手配は?」
「俺とお前でやるんだよ、DIYで!」
律は頭を抱えた。
やはり、狂っている。
しかし、律の視線は再び、健人の腰にあるカメラに向けられた。
先ほどアパートで見た、あの壊れたカメラだ。
それは、律もよく知り、お世話になったこともある、健人の親友のものだった。
──それは、冷たい雨が降る日だった。
黒い喪服に身を包んだ人々が、焼香の列を作っている。
律は受付を手伝っていた。亡くなったのは、健人の同期であり親友だった男だ。
過労による居眠り運転。
享年三十四歳。
大手広告代理店の激務の末の、あまりにあっけない最期だった。
健人は、遺影の前で立ち尽くしていた。
いつもは冗談ばかり言っている彼が、魂が抜け落ちたような顔で、ただじっと写真を見つめていた。
その手には、泥だらけのフィルムカメラが握りしめられていた。事故現場から回収された遺品だ。
『あいつ、いつか自分の店を持ちたいとか言ってたんだ』
葬儀の後、喫煙所で健人がポツリと言った。
紫煙をくゆらせる指は微かに震えていた。
『俺たちは何のために働いてるんだろうな、律。毎日毎日、企画書作って、クライアントに頭下げて、消費されるだけの広告作って。……あいつは、もっと遠くへ行けたはずなのに』
その日、健人は泣かなかった。
ただ、その瞳の奥に、暗く熱い炎が宿るのを律は見た。それは悲しみではなく、理不尽な世界に対する怒りと、生き残ってしまった自分への責務のようなものだった──。
「……健人さん」
律は静かに口を開いた。
「これは、もしかして……」
「……ん?」
「いえ、せっかく上手くやってた広告代理店を辞めた理由、考えていたんですけど、もしかして、レンさんの夢を継ぐつもりですか?」
健人は一瞬驚いたような顔をし、それからフッと笑った。
「バレたか。……まあ、そんな大層なもんじゃねえよ。ただ、あいつが作りたかった場所を、俺が作りたいだけだ。ここなら、星がよく見えるからな」
律はため息をついた。
論理的ではない。
経済的合理性もない。
だが、その動機には、どんな完璧な事業計画書よりも重い「必然性」があった。
見捨てることはできなかった。
律自身の「完璧主義」な良心が、そして何より、傷ついた従兄弟を放っておけない情が、この無秩序なプロジェクトへの参加を決意させた。
「……まずは現状把握です」
律はタブレットを取り出し、カメラを起動した。
「工程表を作ります。それと、収支計画の見直し。衛生管理の徹底。あと、まずは掃除です。この埃の中で生活したら三日で呼吸器をやられます」
健人はニカッと笑い、律の背中を叩いた。
「さっすが律! 話が早くて助かるぜ!」
「勘違いしないでください。僕はあくまで、あなたが破産しないように管理するだけです。オープンまでこぎつけたら、どんな状況でも帰りますからね」
そう宣言して、律は腕まくりをした。
これが、苦難に満ちた「星見邸」再生プロジェクトの始まりだった。
作業は過酷を極めた。
最初の三日間は、ひたすらゴミ出しと掃除に費やされた。
前の住人が残していったらしい壊れた家具、腐った畳、正体不明の農機具。
それらを分別し、軽トラック(健人が近所の農家から無理を言って借りてきた)に積み込み、処理場へ運ぶ。
山武市の指定ゴミ袋はすぐに尽き、律は何度も近場のホームセンターへ走った。
その「異変」に気づいたのは、作業開始から四日目の午後だった。
律が裏庭の草むしりをしていると、視界の端に鮮やかな色彩が飛び込んできた。
灰色の廃屋と、深緑の雑草。その彩度の低い世界に、突如として現れた赤。
赤いベレー帽を被った少女が、庭の隅にイーゼルを立てて座っていた。
「……は?」
律は我が目を疑った。
少女は十八、九歳くらいだろうか。
ダボッとしたオーバーオールを着て、パレットを片手に、真剣な眼差しでキャンバスに向かっている。
問題なのは、そこが私有地であるということだ。
しかも、彼女は律の存在に気づいているはずなのに、挨拶ひとつせず、まるで風景の一部であるかのように絵を描き続けている。
律は軍手を外し、早足で近づいた。
「あの、すみません」
少女の手が止まる。ゆっくりと振り返ったその瞳は、少し眠たげで、しかし驚くほど澄んでいた。
「ここ、私有地なんですけど。勝手に入られると困ります」
律は努めて事務的なトーンで告げた。
不法侵入者への警告。
銀行員時代、ATMコーナーで寝ている酔っ払いを排除したときと同じマニュアル対応。
しかし、少女の反応は予想外だった。
彼女は律をじっと見つめ、それから視線を廃屋の方へ戻し、小さな声で言った。
「……色が、濁ってる」
「は?」
「この家、泣いてますよ。気が澱んでる。私が描いて整えないと、呼吸ができないって言ってます」
電波系か。
律の脳内で警戒レベルが一段階上がった。
「あのですね、スピリチュアルな話は結構です。工事中で危険ですし、退去をお願いします」
「まだ途中です」
少女は頑として動こうとしない。
「ここ、私の特等席なんです。この角度から見る屋根の崩れ方が、一番美しく『死』を表現してるから」
「死を表現、じゃなくて、実際に死にかけてる建物なんです。崩落の危険があるから出て行ってください」
律が少し語気を強めたとき、家の中から健人が顔を出した。
「おーい律、どうした? ……おっ、お客さんか?」
健人は少女を見るなり、満面の笑みで手招きした。
「へえ、絵を描いてるのか! 見せて見せて!」
「ちょ、健人さん! 不法侵入ですよ!」
健人は少女のキャンバスを覗き込んだ。
そこには、廃屋が描かれていた。
しかし、ただの写生ではない。
崩れた瓦礫の間から、極彩色の花々が爆発するように咲き乱れ、家全体を飲み込もうとしている幻想的な絵だった。
圧倒的な色彩感覚。そして、崩壊すらも美として捉える独自の視点。
「すげえ……!」
健人は感嘆の声を上げた。
「君、天才だな! このボロ家がこんなにかっこよく見えるなんて!」
少女は少しだけ頬を緩めた。
「……素材はいいんです。ただ、手入れが悪すぎて色が死んでるだけ。壁紙の色、これじゃダメです。北側の部屋はもっと青みの強いグレーにしないと、光が死にます」
「おお、わかるか! 俺もそう思ってたんだよ!」
「あと、庭の椿。あれを切るのは犯罪です。あの赤がこの家の心臓なのに」
「待ってください。話を進めないでください」
律は割って入った。
「君、名前は?」
「……三島茜。ムサビの一年……休学中だけど」
茜と名乗った少女は、億劫そうに答えた。
休学中。
その言葉に、律は少しだけ反応した。
平日の昼間にこんな場所にいる理由がわかった気がした。
彼女の纏う空気は、どこか自分と似ていた。
社会のメインストリームから、自ら降りた者の空気。
──茜は「五感」が鋭すぎた。
都会の喧騒、大学のアトリエに充満する溶剤の匂い、批評家たちの棘のある言葉。
それらすべてが、彼女にとっては耐え難い「ノイズ」だった。
難しい試験を乗り越えた大学で、ひと月も耐えられず、実家のある山武市を逃げるように戻ってきた。
彼女が求めたのは、静寂と、自分の感覚を乱されない聖域だった。
この廃屋の、時間が止まったような死の気配だけが、彼女の過敏な神経を鎮めてくれる唯一の場所だったのだ。
「茜さん。君が絵を描くのは自由ですが、ここは工事現場です。安全管理上、部外者を立ち入らせるわけにはいきません」
「……部外者じゃなかったら、いいんですか?」
「は?」
「この家の『気』を整える色、教えてあげてもいいですけど。私、空間デザイン専攻だし」
「いや、バイトを雇う予算なんて……」
「……お金なんていらない」
茜は筆を洗うバケツの水を見つめながら言った。
「その代わり、好きなときに絵を描かせて。あと、ここの廃材、自由に使わせてほしい。オブジェの材料にするから。大学のアトリエ……うるさすぎて、あそこじゃ色が聞こえないの。ここは静かで、死んでて、落ち着くから」
律は眉をひそめた。
交換条件。
金銭ではなく、場所と廃材という「価値のないもの」の提供。
銀行員的な計算が働く。
プロのデザイナーやコーディネーターに依頼すれば、安くても数十万はかかる。それを「廃材」と「場所貸し」という、こちらの懐が痛まないリソースで賄えるなら、
ROI(投資対効果)は悪くない。
「……なら、契約書を作ります」
律は渋々言った。
「事故が起きても自己責任であること。作業の邪魔をしないこと。その代わり、廃材の利用と敷地内での制作を許可します。ただし、内装のアドバイスは具体的かつ論理的に行ってください」
「論理的かどうかは知らないけど」
茜は小さく欠伸をした。
「美しくないものは、生理的に無理なだけ。このままだと、この家が可哀想だから」
その日の夕方。
茜が「今日はもう光がダメ」と言って帰った後、律は一人で縁側の修理計画を練っていた。
健人は「ちょっと材料探してくる」と言って裏山へ消えていた。
タブレットには、Excelで作った予算表が表示されている。
屋根の修繕費、水回りの工事費。
そしてリフォームをDIYでやるにしても、道具のレンタル、資材の購入。
どう計算しても、健人の退職金だけでは足りない。
「……詰んだな」
律が思わず呟いたとき、背後から冷ややかな声が降ってきた。
「損益分岐点の計算ですか? 無駄ですよ、その前提条件が間違ってるんで」
律は弾かれたように振り返った。
そこに立っていたのは、制服姿の少年だった。
自転車を脇に置き、スクールバッグを肩にかけたまま、冷ややかな視線を律のタブレットに向けている。
黒髪、眼鏡、理知的な顔立ち。
しかしその瞳には、十代とは思えないほどの冷徹な光が宿っていた。
「……誰だい、君は」
「通りすがりの高校生です」
少年は平然と答えた。
「この道、通学路なんで。毎日見てましたけど、素人が行き当たりばったりで工事してるようにしか見えなかったんで」
律はカチンときた。
「素人なりに計画は立てている。部外者の君に言われる筋合いはないな」
「計画? そのタブレットの数字、見えましたけど」
少年はスタスタと縁側に近づき、律のタブレットを指差した。
「予定の客単価千二百円、回転率二・五回転で試算してますよね? 甘いです。この立地で、しかも平日にそんなに来るわけない。山武市の観光入込客数データ、見ました? ここは海からも遠い。今、四月ですよね。国道沿いの『ストロベリーロード』は苺狩りの客で賑わってますけど、そこから一歩入ったこっちまで客は流れてきませんよ。こんなところでカフェやるなんて発想事態、正直間違ってます」
的確すぎる指摘だった。
山武市成東エリアは、国道126号線沿いに観光苺園が並ぶ「ストロベリーロード」として有名だ。
今の時期は、千葉県の新品種「チーバベリー」や、糖度の高い「ふさのか」を目当てに多くの観光客が訪れる。
しかし、彼らの動線は国道沿いで完結している。
苺を食べて、直売所で土産を買ったら、そのまま車で帰ってしまうのだ。
この奥まった、しかも道幅の狭い廃屋まで足を伸ばす動機がない。
「それに、この辺りの人口動態知ってます? 若者はいない。来るのは金のない老人か、道に迷ったバイカーだけです」
「じゃあ、どうすればいいと言うんだ」
律は挑発的に尋ねた。
少年は眼鏡の位置を直すと、淡々と言った。
「ターゲットを変えるんです。観光客じゃなくて、体験価値を売る。たとえば、古民家改修のプロセス自体をコンテンツにして、クラファンで資金を集める。リターンは『宿泊優先権』じゃなくて『壁を塗る権利』にする。労働力を金に変えるんじゃなく、労働にお金を払わせるんです」
律は息を呑んだ。
コト消費。
プロセス・エコノミー。
現代のマーケティング理論を、この田舎の高校生が理解し、応用している。
「……君、本当に高校生か?」
「四方田翔。実家はこの先の農家です」
翔と名乗った少年は、ふんと鼻を鳴らした。
「親父が作ってる野菜、味はいいのにJAに買い叩かれてるんです。いいものを作れば売れるなんて、昭和の幻想ですよ。戦略がないと、どんなにいい場所も素晴らしい商品も、ただのゴミになる。この家みたいに」
翔の言葉には、刺々しいまでの「現実への怒り」が含まれていた。
「その癖、戦略がうまく行けばゴミだって宝に変わる」
彼の実家は、山武市で代々続く農家だ。
父は実直な男で、朝から晩まで泥まみれになって働いていた。
翔も幼い頃から手伝いをしていた。
しかし、翔が見てきたのは、その「美味しい野菜」が金に変わる瞬間ではなく、理不尽なシステムに搾取される父の背中だった。
市場価格の暴落。
規格外野菜の廃棄。
農協の定めた冷徹な価格決定メカニズム。
「正直者が馬鹿を見る」
それが、翔がこの町で学んだ真理だった。
だからこそ、彼は誓ったのだ。
自分は絶対に、父のようにはならないと。
仕組みを作る側になる。
数字を操り、感情を排し、効率的に利益を上げる「勝者」になるのだと。
以来、翔は許される限りの時間を学問に費やした。
凡そ普通の中高生が経験するであろう青春を全てかなぐり捨てて、彼はこの世界のシステムで「勝つ」ための理論を追求してきた。
律は直感した。
この少年は、かつての自分だ。
数字で世界を測り、感情を排して効率を求め、そうすることで自分を守ろうとしている。
しかし、彼には自分にはない「野心」を持っていた。言動には冷めた雰囲気を感じるが、言葉の節々には「ここから這い上がりたい」「状況を変えたい」という熱い渇望がある。
「……面白いね」
律は素直に認めた。
「そのクラファン案、具体的にもっと聞かせてくれないか」
「タダでですか?」
翔は抜け目なく切り返した。
「コンサル料は高いですよ。……と言いたいところですが、実績が欲しいんです。僕のポートフォリオに『古民家カフェの再生を成功させた』という実績があれば、大学の推薦入試や、その後の起業に有利になる」
「利用する気かち、い僕たちを」
「いや、Win-Winでしょう? おじさんたちには知恵がない。僕には実験場がない。利害は一致してます」
生意気な小僧だ。
社会を知らず、自分の世界に閉じこもっている人間の言い草だと思った。
だが、律はその生意気さが嫌いではなかった。少なくとも、夢ばかり語る健人よりは、よほど話が通じる。
毒を以て毒を制す。
無謀な夢には、冷酷な計算をぶつけるしかない。
「……わかった。健人さんを説得できれば、君をチームに入れよう」
「あのオーナーですか? 簡単ですよ。褒めて煽ればいいんでしょ?」
翔は小馬鹿にしたように笑った。
その時、裏山から健人が戻ってきた。
両手に大量の、泥だらけの「木の根っこ」を抱えて。
「おーい律! 見ろよこれ! 磨けば絶対売れるぞ、この変な根っこ!」
律と翔は同時にため息をついた。
そして顔を見合わせ、奇妙な連帯感を感じた。
「……あれがオーナーですか」
翔が呆れたように言う。
「ああ。あれをなんとか黒字化するのが、僕の、いや僕たちのミッションだ」
夜。
時刻は凡そ18時。
夕食時。
廃屋の土間に、四人が車座になっていた。
投光器の眩しい光の下、コンビニ弁当を広げている。
オーナーの健人。
管理者の律。
デザイン担当の美大生、茜。
戦略担当の高校生、翔。
年齢も立場もバラバラな四人。
共通しているのは、このボロボロの古民家「星見邸」に、それぞれの理由で引き寄せられたということだけだ。
「よし、乾杯しよう!」
健人が缶ビール(未成年はコーラとお茶)を掲げた。
「何にですか?」
律が疲れた声で訊く。
「決まってるだろ、チーム『サジタリウス』の結成にだ!」
「サジタリウス?」
「射手座だよ。狙った獲物は逃さない。俺たちはここから、世界を射抜くんだ」
相変わらず大きく出たものだ、と律は思った。
茜は「名前、ダサい」とボソッと言いながらお茶を啜り、翔は「ネーミングのSEO対策考えないと」とスマホを操作している。
誰も健人の壮大なビジョンに心酔してはいない。
しかし彼は、まだ出会って日の浅いこの関係性に、少しだけ居心地の良さを感じていた。
誰も、自分の過去を知らない。
それだけでも寄り添うには十分だった。
茜は、自分の過敏な感性を否定されず、静かに呼吸できる場所を求めていた。
翔は、自分の冷徹な戦略を試し、泥臭い現実を覆すための実験場を求めていた。
健人は、亡き親友との約束を果たし、理不尽な死に対する答えを探す場所を求めていた。
そして律は……。
律は、隣で楽しそうに笑う健人の横顔を見た。
自分は何を求めているのだろう。
安定したレールから外れ、不良品として弾かれた自分。
でも、この凸凹だらけのメンバーの中でなら、その「歪み」さえも許されるような気がした。
完璧でなくていい。
計画通りでなくていい。
今はただ、目の前のカビだらけの床を、明日はどうやって張り替えるか、それだけを考えればいい。
「……明日、朝六時集合です」
律はわざと厳格な口調で言った。
「茜さんは内装のカラープランの提出。翔くんはクラファンの原稿作成。健人さんは……余計なものを拾ってこないで、草むしりをしてください」
「えー、俺だけ地味!」
「一番働いてないからです!」
笑い声が、梁の高い天井に吸い込まれていく。
外は深い闇と静寂。山武の森が風にざわめいている。
星見邸の再生は、まだ始まったばかりだ。
前途は多難どころか、遭難寸前である。
それでも律は、久しぶりに胃薬を飲まずに眠れそうな気がしていた。
アパートへ戻る健人の車の助手席で、律は夜空を見上げた。
東京では見えなかった星が、ここでは痛いほど鮮やかに瞬いていた。




