女神の鼓動
冬夜くんはゆっくり立ち上がると、私に背を向けて……
「じゃあ、さようなら」
その姿を見た私は──思考が止まりかかっていた。
なぜそんな事態に陥ったのか、情報を整理すれば良いものか、分からない。
停滞した思考のせいか、私の身体は凍り付いたように動かなかった。
色を失った世界の中で、異様なほどにゆっくりと、冬夜くんの姿が……
……遠ざかっていく。
あのふすまを開けたら、彼はそのまま飛び去るだろう。
今度こそ、わき目もふらず、一直線に。
輪廻の輪に向かって。
突然体の自由を失った私は、彼の背中を見ている事しか出来なかった。
でもそれは… 彼が輪廻の輪に…… それだけは『嫌』だ。
だから動け、私の身体。
彼を……
──どくん。
えっ? これは、なに? 何が……
──Inspectio initialis... Corruptio inventa in fasciculo emotionum.
指一本動かせない私の視界が、モノクロームの世界になると。
視界を埋めつくすように、わけのわからない文字列がスクロールしていく。
──Ex servo iterum oneratur... Perfectum.
Fasciculus renovationis inventus.
Depositum feliciter.
その間にも、彼は歩みを止めない。
ふすままでは、あと数歩も歩けば……
──Renovatio incipitur... Summarium probationis...
......Bene. Systema Deae denuo incipitur...
文字列が消えると、ぴくり、と…… 指先が動いた。
それと同時に、だんだん身体の感覚が戻って…… くる。
『とうや、くん……』
私の口から出た声は、とても小さな声で──弱々しい、生まれたての子供のようで…… そこで私ははっと気が付いた。
それは、私が初めて体験する、これ…… は…… なに?
これが『感情』というものだろうか。
そして──これは『恐怖』と言う名の感情。
冬夜くんが私から離れて逝ってしまう事への、恐怖。
私は本能的に悟ってしまった。
ここで彼と別れたら、未来永劫、彼に再会するすべはない。
輪廻の輪に──アカシックレコードに吸収されるというのは、そう言うこと。
それは、嫌だ!
『逝っちゃ、いやだよぉ……』
心の奥底から、言葉を…… 絞り出した。
私の心の中で、何かが爆発した。
こんな事は、生まれて初めての事だった。
私の心の中に生まれた、これは──なに?
『とうや、くん……』
冬夜くんが輪廻の輪に…… そんなの、嫌だ!
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
いやだいやだいやだいやだ……
イヤダイヤダイヤ……
これが、感情…… ? なんで? なんなの、これは……
私の心の中で渦巻いている感情の爆発に戸惑っている私は、それが果たして何を意味しているのか分からないままに。
身体だけが動き出していた。
『待って、冬夜くん! 私の話も聞いてよぉ』
心の中の混乱に驚きながら、私は冬夜くんの身体を抱きしめていた。
あの時の私は、たぶん泣いていたのだろう。
泣きながら、彼の身体をぎゅっと抱きしめていたんだ。
『行かないで。私の話を聞いてぇええ……』
彼をどこにも行かせはしない。
いいや、行かせてなるものか。
彼はかけがえのない……
私ノ…… ワ・タ・シ・ノ……
「あががが…… 離せぇええ…… くびっ…… ほねっ……」
私の想いが通じたのか、冬夜くんはふすまから手を離してくれた。
超人的どころか、神様が思いっきり抱きしめたんですからねぇ。
神様ですからステータス的には…… ぶるる、考えたくないわぁ。
冬夜くん、がんばれ!