吸血鬼は研究室がお好き
次の日の朝、ぼくが学校に登校すると、校門には救急車が止まっていた。
何事かとそれを取り囲むように生徒の人だかりができている。
ぼくは妙な胸騒ぎを感じて、その人だかりをかき分け、今まさに運ばれていく担架を覗き込んだ。
危険な実験で加奈子先輩が事故にでもあったのかと心配したが、その考えは杞憂に終わった。運ばれてきた人物は見覚えもない作業着の中年だった。
野次馬の話す声でどうやらそれがこの学校の用務員であるらしいことはわかった。しかし、何があったのかはだれにもわからないようだ。
担架に乗せられたその男を観察すると、顔面は蒼白で血の気が無い。
そして首筋には牙のようなあとがあった。そう、まるで吸血鬼にでも襲われたようだった。
その傷に気がついた誰もが恐怖を隠しえなかった。
校舎の中に吸血鬼がいるのではと、誰もがざわめいていた。そう考えると、伝統あるこの古い校舎は怪談にはぴったりだ。
「こらー、全員学校に入れ、救急車の邪魔だ」
体育教師、近藤がホイッスルを鳴らしながら、生徒たちを追いやっていく。ぼくもその場を離れ教室に向かった。だが、あの用務員の姿がぼくの目に焼きついてはなれない。
また新たな不安がぼくを包んでいた。
授業開始の時間になっても先生はやってこなかった。今朝の事件が問題になっているのだろう。
あくまでうわさでしかないが、今朝の事件のあらましはこうだ。
いつもどおり朝の見回りと、掃除を行っていた用務員の加藤 次郎(63歳)は研究連の掃除を行うため、生徒が登校する前に研究連に向かった。
廊下を掃除していると、何か黒い塊が足元を通り過ぎるのを感じた。まだ廊下は薄暗いため、懐中電灯でよく確認しようと照らしたとたん、黒い塊はすごい勢いで飛び上がり、加藤の首に牙を立てた。
あわてた加藤は持っていたモップで謎の物体を叩き落したが、体内の血液を吸われた加藤はその場に倒れてしまった。
その後登校してきた教師によって救急車が呼ばれた。ということらしい。
現場に黒い塊の姿はすでになかったが。加藤は約1リットルほどの血液を吸われていた。
襲われた用務員も病院で行われた緊急輸血で、一命は取り留めたということだ。
この話を聞いたぼくは、犯人に心当たりがあった。
この考えが正しければ、やつはまだあそこにいるはずだ。ぼくはざわつくホームルーム前の教室を抜け出してサイカケンの部室へと向かった。
事件現場の研究連にはすでに人影もなく、研究連への通路には立入禁止の看板が掲げられている。ぼくはかまわずそれを乗り越えて突き当たりの部室に向かう。
鋼鉄の扉をこぶしでたたいて中にいるだろう人物に声をかける。あんな事件のあとだ、前回みたいに警報機でも鳴らしたら大パニックに陥ってしまう。
「加奈子先輩、法子先輩。いるんでしょ。ここをあけてください!」
ガンガンと扉をたたくと重そうな音を立てて扉は左右に開く、中にはいつものように白衣に身を包んだ加奈子先輩の姿があった。
「どうしたのモル君。こんな朝から怖い顔して」
加奈子先輩の、まだちょっと寝ぼけたような声を無視して、ぼくは中に入る。
部室の中は昨日から特に変わった様子はない。しいて言えばテーブルにカップ麺のからが置いてあることくらい。どうやら昨夜はここに泊り込んだようだ。
「先輩昨日は泊まったんですか」
「うん、実験のレポートもまとめたかったしね。そんなに遅くはならないつもりだったんだけど、おこげちゃんがいなくなっちゃって、夜通し捜していたら帰りそびれちゃった」
まだ開ききらない瞳をこすりながら、加奈子先輩が話す。
「おこげって何ですか」
「ああ、昨日の転送実験のネコちゃん。真っ黒だから、クロにしようかと思ったけど。それじゃ芸がないでしょ。だからおこげ。かわいいでしょ」
「それでそのおこげは今どこにいるんですか」
「え、ええ。今朝方自分で戻ってきて今は奥でノリちゃんに遊んでもらっているはずよ」
それだけ聞くと、ぼくは部屋のおくに進む。「どうしたのよ」と、加奈子先輩もぼくに続いた。
実験道具が山と詰まれた部屋で、黒猫は法子先輩の操るネコじゃらしにじゃれていた。それだけを見ればただのネコのようだが、おそらくそれは見せ掛けだけだ。
「法子先輩そのネコ、ちょっと見せてくれませんか」
ぼくが近づくと今まで遊んでいたネコは警戒心をあらわにして毛を逆立てた。
「モル。いったいなんだ。おこげがおびえているじゃないか」
「何もしませんよ。ちょっと確認したいことがあるだけです。失礼します」
ぼくが手を伸ばしたとき、ネコの怒りが頂点に達した。黒猫はネコにはあるまじき跳力で真上に飛び上がった。
予想外の動きにぼくも先輩たちも対応が遅れた。その隙をついて黒猫は襲ってきた。まずは敵意を露にしていたぼくが狙われた。
垂直にジャンプした黒猫は、天井まで飛び上がりそこを足場に、ぼくに向かって飛び掛ってきた。鋭い爪が空を切った。
ぼくは横に転がるようにして何とか直撃は避けたものの、鋭いつめは制服のすそを切り刻んだ。
獲物を捕らえ損ねた黒猫はふたたび天井まで跳躍し、次の目標を加奈子先輩に定めた。
黒猫の両手から伸びた鋭いつめが、加奈子先輩の白衣を切り裂こうとしたその瞬間、身をかがめた法子先輩が矢のような勢いで飛び出し、黒猫に飛び蹴りをかました。空中で体勢を立て直すこともできない黒猫は、わき腹に鋭い一撃をくらい、反対がわの壁まで吹き飛ばされ、床に倒れて動かなくなった。
「死んだの、ですか」
ぼくはよろよろと立ち上がり、黒猫を見るがいまだ動く気配はなかった。
「カナ、大丈夫か」
白馬の騎士よろしく法子先輩が、腰を抜かしてへたり込む加奈子先輩を助けおこす。
「ありがとう、ノリちゃんのおかげでなんともないわ、それよりおこげは」
「大丈夫だろう、衝撃で気を失ってるだけだ」
ぼくは倒れている黒猫を確認する。確かにまだ息がある。
「先輩見たでしょ、今の動き。このネコはもうただのネコじゃないんですよ」
ぼくの言葉に、加奈子先輩は逆にぼくをしかった。
「モル君がいじめたからでしょう」
「いじめたからって天井までジャンプできるわけがないでしょう。おそらく、このネコは転送実験の際に体に付着していたノミと合成されてしまったんですよ」
まさに野良猫ならぬノミネコだ。おそらくそのせいで、動物の血液しか受け付かない食性に変化してしまい人間を襲ったのだろう。
「先輩たちの実験の犠牲者ですよ」
ぼくの言葉に加奈子先輩は黙ってしまった。さすがに少しは罪悪感を感じているのだろうか。
そう思った矢先、加奈子先輩は喜びの声を上げた。
「すごーい!キメラね。やったわキメラ実験も成功よ!」
加奈子先輩はその場で万歳をはじめ、いつの間に用意したのか法子先輩は紙ふぶきを振りまいてお祝いを始めている。
「ちょっと、まってください。このネコは人を襲ったんですよ。朝、用務員のおじさんが襲われたの聞いたでしょう」
「キャットフードは口に合わなかったのね。せっかく奮発して高級ネコ缶を用意したのに、今度はちゃんと血液を用意しておくわ」
まったく反省の色がない。
「先輩は自分のやっていることに責任をもてるんですか、人が一人死にかけたんですよ」
昨日はぼくが殺されかけたし、この人は命をなんだと思っているのか。
「科学の発展のためには多少の犠牲は仕方ないわ」
きっぱり。言い切りましたよ。この人は。さすがにぼくも怒りが爆発した。
「加奈子先輩はやはりそういう考えなんですね。だから平気で人を実験台に使ったりできるんだ。ぼくも科学技術の発展には賛成だけど、あくまでそれは人間の利益になることであって、面白おかしく人を実験台にすることが目的ではないんです」
「私だって面白おかしく扱ってるつもりはないわ。このネコだって大切に飼っているし、モル君だって……」
「ああ、そうでしょうね。ぼくがネコ男になっても大切にしてくれたでしょう。大事な実験動物としてね。もうあなたたちにはついていけません。このネコも暴れないように何とかしてくださいね」
ぼくはそれだけ言うと、部室を後にした。
最後に見た加奈子先輩の悲しそうな表情が後ろ髪を引いたが、その誘惑を断ち切り、部屋を出て行った。