彼女の焦りと進路相談
片付けが終わり一息つく。
窓の外はもう大分暗く、西の空に僅かな赤みが残っているばかりだ。時計を見上げると下校時刻はとうに過ぎていた。
俺は立ち上がると部屋の奥へと向かった。室内は静かで蛍光灯の明かりに無機質に照らされている。先程までいた生徒は下校しもういない。
「そろそろ終わりにしませんか?」
一人を除いて。
「もう少し」
部屋の奥、制作スペースでは未だ東雲さんが石膏像と睨み合っていた。
「熱心なのは結構ですが無理は良くないですよ」
「無理なんてしてないよ」
彼女は先程と同じブルータスの石膏像のクロッキーをしている。大きなクロッキー帳を広げ全体の大きな形を線で捉えていく。
「明日も学校なんですから身体を休めないと」
「ちゃんと休んでるよ。しっかり寝てるし」
「それにあまり遅くなると親御さんも心配するでしょう?」
「遅くなるって言ってあるし、少しくらいなら大丈夫」
「僕、帰りたいんですよね」
「……それが本音な気がする。でも、うん、分かった」
名残惜しそうにしながらも彼女は頷くとクロッキー帳を閉じ、流しで手を洗い始める。
その間、俺は彼女が閉じたばかりのクロッキー帳をパラパラと捲った。木炭の線によってブルータスが様々な角度から捉えられている。
「あー! 勝手に見ないでよー!」
手を洗い終えた彼女が戻ってきた。
「すみません」と謝るもそのままもう数ページパラパラと捲った。
「何か焦っている感じですね」
クロッキー帳を閉じながら見ると、彼女は気まずそうに目を逸らした。今の彼女は一見熱心で好印象を持つが、その一方で落ち着きのなさを感じる。
「褒められなかったのがそんなに悔しかったんですか?」
「う……それもあるけど、それだけじゃないよ」
彼女は少し頬を膨らませながら近くにあった椅子にストンと腰を下ろした。それに合わせて俺も近くにあった椅子に腰を下ろす。彼女はしばし俯いていたがやがて顔を上げた。
「私、芸大美大受験したいんだよ」
「知っています」
前から何度も聞いている。
「でも、まだまだ全然描けない」
自分のクロッキー帳を見るその表情はいつもの彼女らしくなく陰を帯びていた。
「全然ってことはないでしょう? 僕の目から見ても東雲さんはかなり上手い方ですよ。デッサンも油彩もね」
これは正直な気持ちだ。お世辞などではない。俺が彼女くらいのときはもっとずっと描けなかった。当時の俺が彼女と同級生だったらきっと打ちひしがれていただろう。それくらいに彼女は上手い。ただ
「けど、それって予備校に通っていない人の中での事だよね?」
「……否定はしません」
予備校に行けば彼女より上手い者はたくさんいる。それも確かだ。
「前に空くんに予備校のパンフレット見せてもらって受験生が皆上手いって知ってた。ただ、何だろ、いまいち実感がなかったんだ。その人は身近にいないし、実際に作品を見た訳ではなかったからかな。けれど今日、部長のデッサン見て、自分より遥かに上手くて正直焦った」
東雲さんが俯き、少し唇を噛んだ。
部長はデッサン力が高い方だ。中学から美術部だったようで経験が長く、普段から静物や石膏等モチーフをしっかり見て描くことを重視している。対して東雲さんが絵を描き始めたのは高校に入ってからだ。それ故の差だ。時間の長さが必ずしも能力に比例するとは限らないが、その傾向があるのもまた事実だろう。
「なのに、その部長でも届かないなんて……それじゃあ私なんて全然じゃん」
彼女は悔しそうに顔を歪めた。
「先程も言いましたが、受験生、特に浪人生は毎日多くの時間を制作にあてているんです。時間も熱量も現役生とは訳が違う。落ちた経験がある分尻に火が着いてどこか追い詰められたようなところもある。そんな人達だから上手くて当たり前なんです。東雲さん達現役生がそう簡単に勝てる相手じゃない」
少なくとも技術の差は明らかだ。寧ろそうでなかったら浪人生としての立場がない。
「それに君はまだ二年生です。試験本番までまだ一年以上ある。その中でしっかり技術を磨いていけばいいんです」
「けど……」
「向上心があるのは良いことですが、焦っても上手くはいきませんよ?……僕の経験上ね」
彼女のクロッキー帳を捲り、すぐに閉じた。
それだけで言わんとしていることは理解したようで彼女は口を噤んだ。
描き手の心情は作品に表れる。それはプロも学生も変わらない。
「落ち着いていきましょう」
何だかんだ落ち着いて一歩一歩確実に行うのが一番早いのだ。絵も、それ以外の事も。
「けれど、そこまで進路を決めているなら予備校通い始めたらどうです?」
それは話を聞きながら疑問に思っていたことだ。そこまで理解していて何故予備校に通わないのか。
「寧ろその方がいいでしょ?」
早めに始めておくに越したことはない。早い者は中学の頃から通っている。
「それで不安も全部とまではいかなくとも多少は解消されるんじゃないですか?」
「うーん……そうなんだけどね」
けれど東雲さんはどうも歯切れが悪い。
「何か予備校に行きたくない理由でもあるのですか?」
「行きたくないなんてことないよ。早めに始めた方がいいのは分かっているし、私もできればそうしたい」
「では、どうして?」
彼女は「そんな特別珍しい理由ではないんだけどね」と前置きし眉を下げた。
「ウチ、親が美術系に進むの反対しているんだよね」
ああ、なるほど。
彼女の言葉に容易に納得できた。
「将来への不安……とかそういう感じですか?」
「うん。絵で食べていくなんて無理だって。仮に就職するにしても美大卒でどういうところに行くんだ、てね」
彼女は大きく溜息をつく。
その言い分が分からないではない。美大=作家になるという印象は確かにある。それで将来生活していくなんて現実的ではないという考えが先行するのは理解できるし、実際間違ってはいない。この社会においては苦労することになる。
それを考えると自分の子供には一般大学を受けさせたいというのは一つの親心なのだろう。
俺は言葉に詰まった。
親でもなく、社会人でもない。それどころか大学生にもかかわらずその大学に通うことすらできていない俺に何か言えることはあるのだろうか? 今の自分が何を言ったところでどこか白々しいのではないか。
どうしたものかと頭を悩ませていると
「おーい、何やってんの? 下校時刻とっくに過ぎているよ?」
どこか間延びした声で言いながら一人の男性が顔を覗かせた。
「先生」
「お疲れ様です」
俺達ふたりの姿を認めその男性、美術部顧問の在原先生は「やっぱり君達か」と腕を組み小さく溜息を吐いた。
「美術室は逢引きの場じゃあないんだよ」
「そんなことしてませんよ」
恐ろしいことを言わないでほしい。
「周りからはそう見えるってことだよ。異常に仲良いからねぇ君たち」
彼は顎で俺達を指し示す。
「異常って……それは言い過ぎでしょ」
「仲良いのは認めるんだ?」
「……悪くはないと思います」
少なくとも相談に乗ったり、一緒に下校するくらいには悪くないはずだ。
「いつもイチャついてるもんねぇ」
「だからそんなことしてませんよ」
「だから周りからはそう見えるってことだよ」
みんな口を揃えてそう言うがまったくもって不本意だ。そんな事実ないし、俺にその気はない。受け取る側の問題だ。
「東雲さんも何とか言ってください」
そう彼女を振り返ると
「イチャついてるなんてぇ、そんなぁ……」
頬に手をあて身をくねくねと捩る姿が目に入った。ものすごいにやけ面だ。
「東雲さんは満更でもなさそうだよ?」
「……あれは違います。気にしないでください」
「やめてよぉ? 何か問題起こすの。そういうの世間は厳しいんだから」
「だから違いますって!」
俺が否定すると在原先生は「うえっへへ」と癖のある笑い声を上げた。
不本意だ。