受験生の絵
事務窓口で手続きを済ますと入校証を首から下げ校舎に入った。
今日も部活動がある。俺もいつも通り出勤だ。
授業、ホームルームはすでに終わっているようで、下校する生徒や部活等に向かう生徒がチラホラと見え始めている。たった今もスポーツバッグを提げた生徒とすれ違った。
階段を上がり美術室に着くと扉を開く。途端に絵の具の匂いが漏れ出してきた。
照明を点け、窓を全て開いた。籠っていた空気が外に逃げていき、代わりに心地良い空気が入り込んでくる。最近暑い日が続くようになってきたが今日は比較的過ごし易い。
天気も良く空は青い。グラウンドの向こう、田畑と住宅地の先にある工場群。そこから天に突き出したような煙突から白い煙が立ち上るのがよく見える。
その様を暫くぼんやりと眺めていたが、喉の渇きを感じたため、机に荷物を下ろすと財布を手に美術室を出た。
校内の自動販売機で飲み物を買い、美術室へと戻る途中の廊下で見知った顔を見つけた。
東雲さんが数人の女子生徒と共に向かいから歩いてくる。会話する姿は親し気で仲が良いのが見て取れた。
そこで彼女の目が俺を捉えた。
お互い徐々に近づいていき、そしてそのまますれ違う。話しかけられるのではと身構えていたため正直安堵した。
そこで何気なく振り返ると、同じようにこちらに振り返っていた彼女と目が合う。彼女は笑みを浮かべパタパタと小さく手を振る。そして僅かに口元が動いた。
お は よ
彼女はもう一度イタズラな笑みを浮かべると、前に向き直り何事もなかったように他の生徒と話しながら去って行った。
それを見送り、俺はふっと一つ息を吐くと再び美術室へと歩き出した。
静かな美術室に鉛筆の音が微かに響く。
本日、部活動に顔を出しているのは十人。そのほとんどは一、二年生だ。
生徒達は各々イーゼルに乗った作品に手を入れており、その視線の先にはブルータスの石膏像が置かれている。今日の課題は石膏デッサンだ。
石膏像はデッサン力向上に有効なモチーフだ。観察、構図や形の取り方、明暗の捉え方と立体感の出し方等デッサンする上で必要なことを学べる。
ただ一方でデッサン力の有無が如実に表れるため苦手意識を持つ者も少なくない。そしてそれはこの部の生徒も同様だ。
ある者は形が狂い、またある者は構図が良くない。比較的描けている者も色や描き込みが単調で立体感がなくなってしまっている。皆必死に石膏像に向き合おうとしているが苦戦しているのが見て取れた。
そしてここにも例に漏れず苦戦する者がひとり。
「画面の入り方は良いですが、像全体の大きさのバランスが悪いですね。頭部が微妙に大きい……分かりますか?」
俺に指摘され東雲さんは石膏像と自分の画面を見比べる。
「うー……ん、何となく?」
「何となくでも感じるだけいいですよ」
経験が浅いと微妙な狂いには気付きにくいものだ。昔は俺もそうだったから分かる。
「パッと見て分からないようなら測ってみてください」
俺が鉛筆と指で測って見せると彼女も同様に石膏像と自分の絵それぞれを測る。そして「あ……」と小さく声を漏らした。
「数字では僅かなズレですが、それが案外大きな違和感となるものですよ」
そしてそれはクオリティーが上がれば上がるほどシビヤになっていく。
「それを踏まえて修正しましょう」
「はぁい」
彼女は言われた事をクロッキー帳に書き込むと再び画面へと向き直った。
俺はその他の生徒も順に見ていき、やがて一つの絵に目を留めると「へぇ……」と声を漏らした。
「なかなか良いのではないですか?」
言われて振り向いたのはこの部の部長である女子だ。今日いる中で唯一の三年生である。
「全体のバランス、形、量感、明暗表現……全てがバランス良くまとまっています」
「ありがとうございます」
そこで東雲さんはじめ他の生徒達も彼女の絵を見に集まってきた。皆口々に感嘆の声を上げる。それに対して部長はどこか照れ臭そうだ。いつもキリッとした印象の生徒だが、やはり褒められるのは嬉しいらしい。
「ただ……」
けれどそこで彼女は表情を変えた。
「予備校通いの受験生に比べたらまだまだですよね?」
「ま、そうですね」
俺は取り繕うことなく頷く。きっと彼女自身よく理解していることだ。予備校に通っている芸大美大受験生の絵がどういうものか。
「予備校行くのと行かないのでそんなに違うんですか?」
一年生の女子がおずおずと手を上げる。
「ええ、全然違いますよ」
俺は本棚から予備校のパンフレットを一部抜き取るとページを開き「これが受験生の石膏デッサンです」と差し出した。
「は⁉ うまっ!」
受け取った生徒は周りの生徒と一緒に驚きの表情を浮かべる。その姿に過去の自分が重なり少し口元を歪めた。
「予備校通いとそうでないのではまるで違います。別次元……と言うと大袈裟かもしれませんが、そう言いたくなるくらいに違う。彼ら彼女らは毎日何時間も本格的な指導の下で製作しています。上手い人が多いのは当然ですね」
そしてそういう者たちが集まるのが芸大美大受験だ。
「芸大美大受験において予備校に通うのはほぼ大前提です。学校の美術の授業や部活動で描いている程度では話にならない」
「絶対に合格は無理なんですか?」
「絶対とは言いませんけどね。大学や学科を選ばなければ可能かもしれません。けれど有名どころとなるとほぼ不可能ですね。合格できるとしても極々稀な話です」
そして自分がその稀なケースになれるなんて思ってはいけない。そんな甘くはない。そして受験はギャンブルではない。
「高校の美術コースの学生だって予備校に通うんです。芸大美大受験を考えているなら早めに通い始めた方がいい」
一朝一夕でどうにかなることではないのだから。
「話を戻しましょう」と俺は部長の絵に目を戻した。
「この絵は上手い受験生の絵には及びません。そこはハッキリ言っておきます。ただ、決して悪いとは言いません。寧ろ予備校も通わずこれだけ描けるなら立派なものです。これからが楽しみですね」
発展途上であることはいいことだ。本人次第でまだまだ先があるということなのだから。苦しさもあるが成長する喜びもある。それはその立場の特権だ。
「それに確か進路は———」
「はい。受験はしないつもりです」
その部長の言葉に「え⁉」と一年生が声を上げる。
「何驚いてるのよ? 受験する気なら今ここにはいないわよ」
そう言って苦笑する部長。確か専門学校に行くと聞いていた。
「絵はあくまで趣味でいいかなって」
「それも一つの選択ですよ。あくまで本人が決めることです。そして趣味だと言うなら何をどう描こうが自由です。上手いも下手も関係ない。楽しむだけですね」
「はい。そうするつもりです」
そう言った彼女の表情は明るい。自らの選択に迷いはないようだ。それなら俺に言うことはない。ただ彼女の意志を尊重するだけだ。
「何か勿体ないなぁ」「上手いのに」と口々に言う生徒達を部長が適当にあしらっている中、不意に東雲さんがむすっとした表情でこちらを見ているのに気付いた。
「どうしました? 東雲さん」
「別にィ? どうもしないけど?」
彼女はジト目で頬を膨らませながらプイッと顔を逸らした。
「玲愛、あれでしょ? 部長ばかり褒められてるのが面白くないんでしょ?」
周りの彼女の友達がクスクスと笑いながら彼女をつつく。
「違うよ」
「あ『空くんに』が抜けてたね」
「違うったら」
「そんな顔で言っても説得力ないよ~?」
なおも揶揄われ彼女は「むぅ……」と唸る。そして唐突にこちらに身を乗り出した。
「空くん! 私も褒めて!」
「良い絵が描けたら褒めますよ」
「むぅぅぅ~~~!」
悔しそうに頬を膨らませる彼女に室内は笑いに包まれた。