今は私の相手をしてね
「ま、単純に上手くなりましたね」
「ホント? やった!」
感じたことを素直に言うと彼女は目を輝かせた。
「主役は目を引きますし、手前から奥への空間も強い、画面全体に透明感があります。良い絵だと思いますよ。少なくとも初めの頃よりずっとね」
俺が見始めた頃の彼女の絵も決して悪くはなかった。何も知らないなりの魅力があったと思う。ただ当然気になる点は多々あった。その頃に比べたら相当な進歩だ。
「えへへ、毎日描いてるからね」
誰でも描き続けてれば多かれ少なかれ上手くはなる。そこに適切な指導が加われば更に進歩する。知らなかったことを知る意味は大きい。その上で描き続ければ何だかんだ上手くなるものだ。
ただそこには個人差がある。
いくら指導を受けて枚数描いてもなかなか成長しない者はいる。一方で少ない枚数で急激に成長する者もいる。
その違いを決定づける理由は様々あるだろうが、その中で俺が大事だと思っているのが素直さだ。
教わったことを素直に受け入れられるか、その上でそれを素直に実践できているか、守るべき事柄を素直に守れているか、それが重要だと俺は思っている。自分の色を出すのはその後だ。
努力は大事だがその中身が正しくなければ報われるのは難しい。
その点彼女は優秀だ。
「東雲さんはこちらの言うことを聞き理解しようとしている。大事なことはちゃんとメモして忘れないようにしている。そして制作の際にはそれを何度も確認して実践しようとしている。その素直な姿勢は好ましいものです。これは誰でもできることですが、案外できないことなのですよ」
その上で製作中は驚く程に集中して、落ち着いてモチーフを観察し自らの絵に向き合っている。そこには真摯さすら感じる。そんな普段の喧しさからは想像できない程の素直さ、そして真面目さが彼女の成長に繋がっているのだろう。
「正しく努力できるのはすごいことです」
それは褒められるべきことだ。自分自身それが満足にできているか怪しい。口では何とでも言えるが実践するのは難しい。
「えへへ、えへへ」
東雲さんは僅かに赤みを帯びた頬に手をあてニマニマと笑みを浮かべている。
「えへへ、空くんに褒めてもらえた」
心底嬉しそうな彼女にこちらはどうも落ち着かなくなる。
「そんな特別なことではありません。僕だって誰かを誉めることくらいあります」
「私にとっては特別なの!」
彼女はそう言ってやはり笑みを浮かべた。
少々大袈裟なのではないかと感じたものの、本人が満足しているところに水を差すのは無粋な気がしそれ以上は触れなかった。
「もう美大合格できるかな?」
「それはまた別の話です」
「ぶー……」
頬を膨らませる彼女に少し口元が緩んだ。
そこでお互い無言になる。
日中は静かな大通りであるが、さすがにこの時間帯になるとそれも一変する。丁度前方の信号が青になると一斉に自動車が動き出だした。ヘッドランプとテールランプが前へ後ろへと筋となって流れていく。
その様をぼんやりと眺めていると
「ねぇ、空くん」
突然東雲さんが前を向いたまま口を開いた。
「空くんは、絵を描かないの?」
自動車が俺たちを追い越して行く。一台、二台、三台と走り去り、赤い光の尾を残すとやがて消えた。遠くで短くクラクションが響き渡った。風はいつもより肌寒く感じる。
「今は、描くつもりはないですね」
「……そっか」
ほんの僅かな無言の時。
けれどそこで彼女は唐突に走り出した。前方の信号が点滅を始める。彼女は左右をササっと確認すると信号が点滅する中横断歩道を渡っていく。そして信号が赤になると同時に渡りきるとこちらへと振り返った。
「じゃあ! 今は私の相手をしてね!」
横断歩道越しに彼女が口に両手をあてて叫ぶ。
「ご指導ご鞭撻よろしくお願いします、空せんせー‼」
左右に自動車が走り抜けていく中にピシッとわざとらしく敬礼をする東雲さんが見える。その表情はやはり笑顔だ。
信号が再び青になり横断歩道を歩いて渡ると、待っていた彼女の前で立ち止まる。
どこか得意気にこちらを試すかのような笑みを浮かべて見上げてくる彼女。
「まぁ……」
俺はそのまま歩き出す。
「それが今の僕の仕事ですからね」
せめて給料分はしっかり働こう。
そんなどこか捻くれた答えに対し彼女は別に文句を言うこともなく
「うん!」
寧ろ嬉しそうに俺の隣りに並んだ。
駅に着くとここからは別の帰路となる。
「じゃあねー空くん! また明日ー!」
そう言って手を振ると彼女は改札を通りホームへと向かう。が、途中でこちらへと振り返ると再度大きく手を振った。
それに対して小さく手を上げると、彼女は満足そうに微笑み、人の流れの中に消えていった。
彼女が見えなくなると踵を返し自らも帰路へとつく。
辺りは一段と暗くなっており、西の空にあった夕陽の残り香も消え、本格的な夜となっていく。
夜空に浮かぶ月、微かに瞬く星々を眺めながら、僅かばかりの人工の光を道標としひとり歩く静かな夜道は少し、ほんの少しだけ寂しさに似たものを感じた。そして次の瞬間、そのらしくない感情に戸惑う。
理由を探し、そしてやめた。
「いやいや、ないない」
俺は自嘲するような笑みでその浮かんだ考えを振り払うと、家路を急いだ。
微かに遠くで列車の汽笛が響いた気がした。
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