エピローグ
この空の向こうにある『何か』それは一体どういうものなのだろう?
物なのか景色なのか、はたまた事象や概念といったものなのか、それは今の俺には分からない。一目見て気付けるものなのか、それとも後に気付くものなのかそれも分からない。
そもそもそんなものが本当にあるのだろうか?
そんな不確実なものを俺は見てみたいと思った。
これは具体性のない話だ。
この現実に存在しているものを探す訳ではないのだから。
空にジェット機や衛星を飛ばす訳ではなく、大海原に船で漕ぎだす訳でもなく、絵を描くことで見つけ出そうという荒唐無稽なものだ。
そんな曖昧で抽象的な話なのだ。
そんなもの見つけようがないし、仮に見つかったとしてもそれは完全に自身の主観、感覚的なものでただの自己満足なのではないだろうか? 少なくとも誰かと共有できるものではないだろう。
こんな具体性のない俺の行いをきっと多くの人が笑うだろう。
無意味で無価値、人のためにならない愚かな行いとして馬鹿にし、嘲笑うだろう。
そのことに文句を言うつもりはない全くない。寧ろ当然のことだと思う。当人である俺自身ですらそういう思いがない訳ではないのだから。
無意味かもしれない。
時間の無駄かもしれない。
いつか、馬鹿なことを考えていたものだと後悔する日が来るかもしれない。
けれど、それでも———
朝陽が世界を照らす。
それはまるで今日という一日の始まりを宣言するようで、皆を眠りから覚ましていく。
家々には人の息吹を、木々や花々には色を、彼方まで広がる海には煌めきを。
みんなが息づき、彩り、輝いている。
そんな光と透明な空気、一日の始まりを肌に感じながら俺達二人は海沿いの道を共に歩いていく。
東雲さんが車椅子に座り、それを俺がゆっくりと押す。
ただそれだけのことで不思議と心が落ち着く。こんな穏やかな気持ちはもう随分と久しぶりだ。
俺にそう感じさせるのは明け方のこの光景だろうか、それとも寄せては引く波の音か、澄んだ空気だろうか。きっとどれもその通りだろう。
けれど、それでもやはり
「空くん」
そこで前の東雲さんが振り返った。
彼女の顔は泣き腫らし、目と鼻が赤くなってしまっている。それでも朝陽に照らされ艶やかな黒髪を風になびかせながら笑みを浮かべる彼女は堪らなく美しい。
「何ですか?」
歩みは止めず車椅子を押しながら応える。
「んーん、何でもない」
しかし彼女は何が可笑しいのかクスクス笑うばかりでまた前を向いてしまった。
こそばゆいやり取り。後で思い返して「何をやっていたのだろう」と頭を抱えそうだ。けれど嫌ではない。
これこそが俺が求め、望んだものなのだから。
俺達二人がいつまでこうして共にいられるかは分からない。ずっとと言うのは簡単だが、実際どうなるかは生きてみないと何とも言えない。ずっと一緒にいるかもしれないし、来年あたりにはもう別々の道を歩んでいるかもしれない。
人の心は変わるもので、それは俺たちも例外ではないのだから。
こうして共に歩もうとした結果、いつか悲しむときが来るかもしれない。共にいようとしたことを後悔するときが来るかもしれない。そしてその責任は誰でもない俺達自身が負わねばならない。
未知に満ち、不安の尽きない先行き未確定な人生。
未来のことは誰にも分からない。
けれど、それでも———
「東雲さん」
「ん? なーに?」
「僕、復学しようと思っています」
「そっか」
「……驚かないんですね」
もう少し驚くものだと思っていたのだが、彼女は随分とあっさりしたものだった。
少なくともこちらとしてはそれなりの覚悟を持っての決断と告白だったため正直拍子抜けだ。
そんな彼女の淡白な反応に少々の不満を感じていると、不意に彼女がクスッと笑った。
「だって信じてたもん」
「え……」
「空くんはまた絵を描き始めるって」
前を向いたままの彼女の顔は見えない。けれどその声色からどんな表情をしているかは容易に想像できる。
「そうですか」
彼女には敵わないな……。そう思うも嫌ではない。そして疑いもない。彼女がそう言うのだからきっとそうなのだろう。
「また空の絵を描こうと思います」
「うん」
「それで、この空の向こうにある『何か』を見つけたいと思います」
「うん」
「それがいつになるか分かりませんが、それでも……僕に付き合ってくれますか?」
「……うんっ‼」
それでも信じたいのだ。
信じてみたいのだ。
自らの望みを。
求めるものを手にできることを。
共に歩んでいけることを。
利口な生き方ではないかもしれない。失敗や後悔のリスクは常に付き纏う。けれどそんなのどう生きたって結局同じことだろう。
どうせすでにグチャグチャな人生という絵画。
やり直しはきかない。すでに白には戻せない。取り繕うには遅すぎる。
それならもう存分にやってやれ。
この一枚しかないのだから、もう思う存分に筆を振るってやれ。信じて描き続けろ。
これから描く絵が、きっとこれまでで一番良い絵だ。
明け方の町。
朝陽の中を俺達は共に歩いていく。
彼女が前を行き、俺が後ろに続く。
これが俺達の定位置。
彼女が俺を引っ張り、俺が彼女を優しく押す。そうやって俺達はこれから生きていく。
俺達の歩みは遅い。皆に追い越され、引き離され、取り残されてしまうかもしれない。けれど焦ることはない。気に病むことはない。そんなのはきっと些細なことだ。
俺達二人の速さでゆっくりと歩んでいければそれでいい。目指す場所はもう決まっているのだから。
見上げればそこには際限なく広がる大空。
その中、朝陽に輝きながら伸びる複数の電線はまるで五線譜のようで、そこにとまる鳥達はまるで音符のようだ。
大空の譜面。
明け方の大空を背景に奏でられるのは一体どのような曲だろう。
そう思った矢先、俺達の歩みに合わせるかのように鳥達が端から順に飛び立っていく。
まるで俺達がその曲を奏でるかのように。
翼を広げ、朝陽に煌めき、透明な風を纏い鳥達は羽ばたいていく。
見据える先へと、高く遠く。
奏でられる曲は祝福の曲、そして今日という日のプレリュード。
響き渡り、こだまする。
町に、世界に、そして澄み渡るこの果てなき大空の彼方へと。
さあ、翼を広げ羽ばたこう。
きっと今日も良い青空だ。




