夜明け
「先のことは……分かりません。絶対に嫌いにならないなんて、そんな保証はできません。そんな言葉は無責任だ。変わらず一緒にいるなんて難しいことなのかもしれない」
人は変わり、世界が変わり、時代も変わっていく。何があるか分からない、絶対はない世の中……人生。
けれど
「それでも、信じてみたいって思ったんです」
東雲さんが顔を上げた。その顔は驚き目を見開いている。
「縛りも義務も遠慮も何もなく、ただ自然と一緒にいたいと思っていたら、結果ずっと一緒にいた……そんな未来だったらいいと思ったんです」
「そんなの……」
「ええ、理想です」
そう、これは理想だ。
それが容易に実現できるほど現実は甘くない。聞く人が聞いたら鼻で笑いそうな、現実味のない子供じみた夢物語かもしれない。
けれど、それでも。
「そんな幸せな未来を信じてみたいって思ったんです」
不安だけれど、怖いけれど、それでもそれが今の俺が求めるものだから手を伸ばしてみたいと思った。諦めたくないと思ったのだ。
俺がそんな風に前向きに思えるようになったのは
「君のお陰だ」
「ぇ……」と彼女が目を見開いたまま声にならない声を漏らす。
「君のお陰でそう思えた。俺ひとりだったら諦めたままだった」
未来は分からないだの、生きてみるしかないだの偉そうに言っていたけれど、それが一番理解できていなかったのは他でもない俺自身だ。リスクを恐れ、傷付くことを恐れ、俺はいつも引いていた。逃げていた。一歩踏み出さず、手を伸ばすことを諦めていた。
そんな俺が多少でも変われたのは東雲さんのお陰だ。
「私なんて……」
「君のお陰だ!」
俺の被せる様な言葉に彼女は再び押し黙る。
明るく前向きで、歩みを止めず、手を伸ばし続ける、諦めない彼女の姿を美しいと思った。彼女になることはできないけれど、ほんの少しでも彼女の様に生きたいとそう思った。
それでも足踏みしがちで前に進めない俺を、彼女が引っ張ってくれた。
俺はずっと彼女に憧れ、その背中を見つめ続けていたのだ。
これからは彼女に引っ張ってもらわなくてもひとりでしっかりと歩けるようになりたい。そして今度は俺が彼女の背を押してやりたい。
「違うよ、空くん」
彼女がゆっくりと首を振る。
「私がいなくても空くんなら大丈夫だった。空くんはすごい人なんだから。夢があって、それを叶えるための翼もある。きっとこれからもっとすごい人になる。私はそう信じている。それでいつの日か空くんが求める『何か』も見つけられる。だから私となんていたらダメだよ。私じゃなくてももっと他に———」
「君だからだ!」
俺の強い声音に彼女の肩がビクッと跳ねる。それに構わず俺は彼女の両肩を掴み、目を真っ直ぐに見ると力いっぱい叫んだ。
「俺は! 東雲玲愛だから一緒にいたいんだ‼」
間近に見る目が大きく開かれる。目の端の涙がひとつポロッとこぼれた。
俺は彼女の肩を放すと、グリップを握り彼女の車椅子の向きを百八十度回転させる。そして少し離れたフェンスに立て掛けてあったバッグを手に取り、ファスナーを開けた。中から取り出した物は緩衝材によって包まれている。
俺は張り付けていた養生テープを剥がし、緩衝材を勢いよく取り払うと、彼女に向けて『それ』を掲げた。
東雲さんの目が大きく開かれる。
俺が掲げたそれは一枚の絵だ。
キャンバスにアクリル絵の具によって描かれた空の絵。
夏の入道雲が浮かぶ、透き通り澄み渡る、どこまでも続いていそうな青い空。
ここ数日間自宅に籠り寝る間も惜しんで描き上げた。
ブランクがあるため上手くはないかもしれない。技術的には大学で描いていた頃の方がきっとずっと上等だろう。
それでも『これが俺の絵だ』と自信をもって言える。彼女に対する想いを込めた、今の俺の全力だから。
「俺はもう諦めない!」
絵を掲げたまま俺は叫ぶ。
「悩んだり迷ったり、立ち止まったりすることはあるかもしれないけれど、前に進むことは諦めない」
俺は人より怖がりだからきっとこれからも必要以上に考え過ぎるだろう。不安に苛まれ、傷付くのを恐れ、動けなくなってしまうこともあるかもしれない。けれど、それでも前を見据えることはやめない。俯いても顔を上げ、振り返っても前を向いて、そして一歩ずつでも前へと足を踏み出して、未来に向かって歩いていきたい。
自らの望む未来を諦めたくない。
「だから……君も諦めないでくれ……」
君は俺の憧れなんだ。君が諦めるところなんて見たくない。
俺はきっと酷いことを言っているだろう。
傷付き、疲れ、それでも大切な人達のことを思い、必死に考えて決断したにもかかわらず、それを否定し、諦めることを許さないと言うのだから。酷で、そして自分勝手だと思う。
それでも、もし、ほんの僅かでも同じように望んでくれるなら、手を伸ばしてほしい。こんな形で諦めてほしくない。
だから、俺は……。
「……ずるいよ」
俯く彼女が言葉を漏らす。その肩は震えており、前髪で隠れた顔からは涙の雫がこぼれ落ちている。
「そんなことされたら……」
彼女がゆっくりと顔を上げた。
「諦めたくないって……思っちゃうじゃん」
彼女は微かに笑みを浮かべていた。
眉は歪み、口はわななき、目からはとめどなく涙がこぼれているけれど、それでも笑っている。
彼女は手で車椅子の車輪を回すとこちらへと近づいてきた。
俺は絵を再びフェンスに立て掛ける。
「私といるの大変だよ?」
彼女が俺を見る。
「分かってる」
俺も彼女を見る。
「この身体のことできっと迷惑かけるよ? かけ続けるよ?」
「かもしれないね」
「いっぱいワガママ言って、空くんを困らせるよ?」
「構わないよ。君のワガママには慣れているんだ」
彼女は俺を通り過ぎ、そして背を向けて立ち止まった。その背中は俺がずっと見続けていた背中だ。
「私の歩みは遅過ぎて、立ち止まって動けなくて、みんなから置いていかれて、私達だけになっちゃうかもしれないよ?」
その肩はやはり震えている。先の見えない道程に対する不安、取り残されたときの焦りと恐怖、そういった負の感情はきっと尽きないだろう。
けれどそれだけではないはずだ。今の俺はそう信じている。それに歩みが遅いのは俺も同じだ。それならきっと同じ歩幅で歩ける。たとえ二人だけになってしまっても、二人でいられるならきっと十分だ。
俺は彼女へと近づき、そして
「望むところだよ」
彼女の両肩に手を置いた。
「ゆっくりでいい。立ち止まってもいい。それでいいんだ。けれど安心して? たとえ立ち止まっても動けなくなっても、振り返ればそこには必ず俺がいる」
彼女の肩に置いた手にグッと力を込めた。『俺はここにちゃんといるぞ』と、そう彼女に伝えるように。少しでも安心させられるように。
「君を決してひとりにはしない」
「空くん……」
東雲さんは俺の左手を取るとそのまま自身の頬へと寄せた。
彼女の頬、こぼれる涙の熱さを感じる。俺は残った右手を彼女の頭に乗せるとゆっくりと撫でてやった。
そのとき、顔の横に眩しさを感じた。
目を向けると、彼方の水平線にゆっくりと浮かび上がる強い光が見えた。
日の出だ。
漸く朝陽が昇り出した。
太陽の光って暖かいんだな。
そんな当たり前のことを改めて感じた。
朝陽はジリジリとゆっくりではあるけれど確実に上昇していき、やがて半円、そして円へと姿を現していく。
それを中心に暖色に染まる空。白、黄、橙とグラデーションをつくり、夜を未来へと追いやりながら広がっていく。
逆光によりシルエットとなった雲は、その輪郭を溶かすように滲ませ漏れた光が溢れ出し、群青色の海は光の乱反射によりキラキラと輝いている。
海が、砂浜が、遊歩道が、町が、そして空が、朝陽に照らされ輝き、その分濃い影を長く伸ばす。まるで己の存在を示すかのように。
それは俺達二人も。
全身に光を浴び、その眩しさに目が眩んだ。遊歩道には俺と車椅子に乗った東雲さん、二人分の影が確かに長く伸びている。
俺達はこの世界に生きている。生きていく。
世界が光に満ちていく。
ああ……やっと夜が明けた。