未来なんて分からない
振り返った東雲さんは泣いていた。
久しぶり会って最初に見た顔が泣き顔とは……あまり気分の良いものではない。しかも逃げられるし。加えて転倒しそうになるのだからまるで油断ならない。流石にヒヤッとした。また俺のせいで怪我などされたら今度こそ申し訳が立たないところだった。
笑って再会とまではいかなくてももっと穏便なものを想像していたのに、つくづく現実はどうなるか分からない。
「ねぇ……何で来ちゃったの?」
彼女が涙声で再度訊ねてくる。その目には涙と共にどこか咎めるような色が浮かんでおり、こちらを真っ直ぐに見つめてくる。
それを受け俺は一度目を瞑り、しかしすぐに開くとこちらも真っ直ぐに彼女のことを見つめ返した。
「太陽」
「え……」
「太陽に会うためです」
一瞬眉を顰めた彼女であったが、すぐにその意味に気付いたようで目を見開いた。そして顔を歪ませるとそのまま前に向き直り俯いてしまう。
いつまでも昇らない太陽。
待てども、待てども昇らず、それどころか遠ざかっていこうとするから。だから俺は自ら会いに来たんだ。
日が昇らないならこっちから会いに行っちゃおうよ
あの夏の日に彼女が言ったように。
「絵を見ました」
「そうなんだ」
「クロッキー帳の文も、読みました」
「……そうなんだ」
「君の気持ちは分かったつもりです」
「じゃあ……帰って」
彼女は背を向け俯いたまま呟いた。その肩は微かに震え、握られた拳は真っ白になっている。
「……それは、できません」
「帰って‼」
そこで彼女は叫びに近い声を上げた。
「分かったなら帰って! ダメだよ! こんなところに来たら」
初めてだ。彼女に声を荒げられるのは。このような感情を向けられるのは。この一年近く共に過ごした中で一度も目にしたことのなかった彼女の様子に、俺は少なからずたじろいだ。
「空くんは私となんていたらダメ!」
そんな俺を他所に彼女は声を荒げ続ける。
「私と一緒にいたら、空くんまた嫌な思いをする。本来しなくていい苦労をたっっくさんして辛い思いをする。そんなの私は嫌! 私のせいで空くんが不幸になるなんてそんなの絶対に嫌! 私はもう空くんに迷惑かけたくない!」
彼女は身体を震わせ、心の中の想いを吐き出すように声を上げる。
彼女の想いはクロッキー帳にあった文を読んで知っていた。まるで心臓を握り潰されたかの様な衝撃と痛みに息が苦しくなった。
けれどそれでもまだ甘い方だったみたいだ。
こうして改めて目の前で、彼女の声で直接その想いと感情をぶつけられる衝撃、その痛みに比べたらずっと。
「私は空くんの重荷になりたくない! 空くんを縛りたくない! 空くんの……夢の邪魔になりたくない……」
そしてこんなに痛い程に響くのは、きっと彼女の言葉その想いが嘘偽りのない本心だからだ。
苦労は、きっとするだろう。
ここ二ヶ月弱の間だけでも幾つもの苦労があったのだ。これから先の長い人生を考えたら何もない方がおかしい。辛く、嫌な思いをするかもしれないということは否定できない。それが分からない程想像力に乏しいつもりはないのだ。
彼女と居続けることによって起こる何らかの苦労、それを他人に、特に親しい人に負わせたくないという彼女の思いは理解できなくはない。
けれど
「勝手に決めつけないでもらえますか?」
それでは納得できない。彼女がひとり離れていくことを。
東雲さんが振り返るよりも早く俺は彼女の正面へと回り込み、しゃがむと目線を彼女へと合わせる。
驚いた様子の東雲さんはすぐにその表情を憮然としたものに歪めた。目の端には変わらず涙が光っている。
「僕が、いったいいつ迷惑だなんて言いました? 僕が不幸になるだなんてどうして分かるのですか? 勝手なこと言わないでください」
何故迷惑だなんて決めつけるのか?
何故未確定の未来を決めつけるのか?
「わ、分かるもん!」
「いいえ、分かる訳がありません」
自分のことは自分にしか分からない。そして未来のことは誰にも分からない。
「人の心なんて他人には分かりません。未来もどうなるかなんて分からない。想像はできてもそれだけです」
そう、結局生きてみなければ分からない。想像は所詮想像でしかないのだ。答え合わせは現実を生きてみた先でしかできないのだから。
「それなのに……一方的に決めつけ、すべてを諦めてひとり去って行こうというのだから納得なんてできる訳がありません」
前向きで、諦めないのが魅力なのに、そんな理由で諦めようとしていることが許せない。
彼女は何かを言いかけたが、それは言葉にはならない。けれど目だけは逸らさず真っ直ぐに俺を見てくる。
「僕のことが嫌いで、それで離れたいと言うなら、別にいいです。ショックではありますが納得はできます」
もしそうならそれは俺の責任で、文句は言えない。どう振舞おうと彼女の自由だ。
「僕のことは嫌いですか?」
東雲さんの顔が歪む。目の端から涙がこぼれ落ちる。
「ずるい……ずるいよ」
か細い声と共に彼女が俯き、こぼれ落ちた雫がポタポタと彼女の握りしめた手に当たって弾けた。そして身体がふるふる震えたと思った次の瞬間、勢いよく顔を上げた。
「嫌いな訳ないじゃん‼」
感情が爆発したように叫ぶ。その顔には怒りと悲しみの両方があり、目から大粒の涙がボロボロとこぼれる。
「私が、空くんのこと嫌いな訳ないじゃん! 空くんは私に夢をくれた。生きる道を示してくれた。優しくしてくれた。辛いとき支えてくれた。幸せな思い出をたくさんくれた。私にとって一番……一番大切な人。そんな人のことを嫌いな訳ないじゃん‼」
叩きつけられる激情は熱く、大きく、真っ直ぐで、俺の身には余るものだ。けれど口をはさまず、目は逸らさず俺はそれを正面から受ける。たとえ分不相応に感じても、恥ずかしくて居た堪れなくても決して逃げてはいけない。
「そんな大切な人が自分のことを大切に想ってくれる。ねぇ、空くん分かる? それがどれだけ嬉しいか空くん分かる? 私は空くんと一緒にいられて大切にしてもらって、本当に幸せだったんだよ?」
「それなら———」
「でもっ!」
言いかけた俺の言葉は彼女の強い声に搔き消された。
「だからこそ不安になる……」
しかし次いで出た言葉は、一転とても弱々しいもので、表情にも濃い陰が差しているように感じた。
「そんな幸せが終わっちゃったらどうしようって……」
涙はとめどなく流れ続けている。
「空くんは迷惑なんてしていないって言ったよね? 今はいいよ。それが本当だとして今はそれでいいかもしれない。けど、この先は? この先もずっと迷惑じゃないって言える? この先私と一緒にいて、たくさんの大変な目にあって苦労して辛くなって、私のことを迷惑に……邪魔に思う日が絶対に来ないって言える?」
「それは……」
「言えないよね。いいんだ、それは。分かってる。空くんだけじゃなくて誰もそんなこと言えない。だって未来のことは分からないんだもんね。人の心だって変わっていく」
寂しそうな声だ。そこには実感が籠っているように感じた。
親友を謳っていた者同士が僅かなキッカケで疎遠になったり、永遠を誓った恋人同士があっさりと別れてしまったり……人の心というものは日々の移り変わりの中で変化していく。変わらないようでいてもゆっくりと微妙に、けれど確かに変わっていっている。
それは東雲さんや俺自身も例に漏れない。
口では幾らでも不変を語れるけど、そんなものに確証なんてない。だって未来は誰にも分からないのだから。
「仲が良いと思っていたクラスメイトが話しかけて来なくなった。初め私のことを助けてくれていた子も何人か段々素っ気なくなっていった。私にアプローチをかけていた彼も離れていった……」
彼女の脳裏にはこれまで変わっていった人間とその光景が映っているのだろう。その顔には寂しさが滲んでいる。
「みんなではないけど、それでもやっぱりそういう人はいる。恨んでなんかいないよ? 迷惑かけちゃってたし、それは仕方ないんだと思う。ショックだけど……でも仕方ない。離れていくのを引き止める権利なんて私にはないし。我慢するしかないんだと思う…………でも」
彼女が俺のことを真っ直ぐに見る。その瞳にしっかりと俺の顔を映して。
そして次の瞬間、彼女の顔がくしゃりと歪んだ。
「空くんだけは……嫌。空くんだけは離れていってほしくない」
瞳から涙が溢れる。
「私……空くんにだけは嫌われたくない」
溢れた涙が頬を伝い流れ、落ちた雫を風がさらった。
ひんやりとした朝の青い空気の中を波の音が静かに響く。
ザザアァァ……ザザアァァ……
寄せては返す波はまるで身体を揺すり目覚めを促すようだ。
町は未だ微睡みの中で、目覚める様子はまだない。遠く彼方の水平線には朝陽の気配はなく日の出には至っていない。
けれど空は確実に明るくなってきている。
夜の純黒はやがて群青に、そして今や白へとその色を刻一刻と変えている。
未だ朝陽は昇らずとも世界は光に満ち始めている。
太陽は確実に近づいている。
夜は明けていっている。
俯き嗚咽を漏らす東雲さん。そんな彼女を見つめながら俺は口を開いた。




